(旅立ち)
都営大江戸線で「清澄白河」で下車し、
まず清澄庭園を訪ねる。
日曜祭日であれば、園内のガイドさんが案内してくれるそうであるが、
あいにく土曜日であった。案内パンフレットを見ながら一周する。
(東京都指定の名勝は、豪商 紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられる。
その後、享保年間に下総の国、関宿の城主 久世大和守の下屋敷となり、
庭園のもとが形造られた。明治11年には、
岩崎弥太郎がこの邸地を社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を計画、
明治13年に深川親睦園を開園した。
その後、隅田川の水を引いた大泉水をはじめ築山、
枯山水を中心に周囲に全国から取り寄せた名石を配して
明治を代表する「回遊式林泉庭園」として完成した。)とある。
庭園は泉水を中心に、名石が周囲に配置されているが、
ボクにはその良さがわからない
。池の中に鶴亀が配置されているところを見ると、
この池は蓬莱池であることがわかる。松島に見立てた島に雪見灯篭を配し、
対岸には涼亭があり、富士山に見立てたつつじの山があり、その奥に広場がある。
ここまで長々と書いてきたのには訳がある。
この広場の片隅に芭蕉の石碑があり、
・古池や かわづ飛び込む 水の音 はせを
の有名な句が刻まれているのだ。
「もとは隅田川の岸辺にあったものを護岸工事のため移されたものである。」
脇の看板の注釈にある。
隅田川の岸辺とは、芭蕉が俳諧師として最初に住んだ草庵を指しているようである。
清澄庭園から行けば、それは万年橋を渡ったすぐ左側の、
昔は生簀の番小屋程度の庵の事を指しているとおもわれる。
今は展望庭園になっている。
番小屋程度の庵に門人から芭蕉(植物の)を贈られ、
これが繁茂したことから芭蕉庵という名にしている。
天和二年駒込の大火でその芭蕉庵も類焼し、
翌三年旧芭蕉庵の近くに建てた芭蕉庵に移り住んだ。
これが今は芭蕉稲荷神社がある場所だ。
この展望庭園を隅田川沿いに進んで階段を下ると、
芭蕉稲荷神社の赤い幟旗がはためいているのが見える。
ここが大火類焼後の芭蕉庵で、このころから芭蕉は漂白の旅を始め、
「野ざらし紀行」「笈の小文」をあらわしている。
元禄二年「住める方は人に譲り、
杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ=別荘のこと)に移るに・・・」と奥の細道にあるように、
杉山杉風の別荘 採荼庵(さいとあん)に移り、
・草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家
の句を庵の柱にかけて、3月27日奥の細道の旅に出た。
ボクも真似て一句。
・「古池や」 翁の句碑に 春の風 hidebach