楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

芭蕉庵(芭蕉の道を歩く 3)

2009年01月29日 08時28分00秒 | 芭蕉の旅


(旅立ち)
都営大江戸線で「清澄白河」で下車し、
まず清澄庭園を訪ねる。
日曜祭日であれば、園内のガイドさんが案内してくれるそうであるが、
あいにく土曜日であった。案内パンフレットを見ながら一周する。

(東京都指定の名勝は、豪商 紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられる。
その後、享保年間に下総の国、関宿の城主 久世大和守の下屋敷となり、
庭園のもとが形造られた。明治11年には、
岩崎弥太郎がこの邸地を社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を計画、
明治13年に深川親睦園を開園した。

その後、隅田川の水を引いた大泉水をはじめ築山、
枯山水を中心に周囲に全国から取り寄せた名石を配して
明治を代表する「回遊式林泉庭園」として完成した。)とある。

庭園は泉水を中心に、名石が周囲に配置されているが、
ボクにはその良さがわからない
。池の中に鶴亀が配置されているところを見ると、
この池は蓬莱池であることがわかる。松島に見立てた島に雪見灯篭を配し、
対岸には涼亭があり、富士山に見立てたつつじの山があり、その奥に広場がある。

ここまで長々と書いてきたのには訳がある。
この広場の片隅に芭蕉の石碑があり、

・古池や かわづ飛び込む 水の音  はせを

の有名な句が刻まれているのだ。

「もとは隅田川の岸辺にあったものを護岸工事のため移されたものである。」

脇の看板の注釈にある。

隅田川の岸辺とは、芭蕉が俳諧師として最初に住んだ草庵を指しているようである。
清澄庭園から行けば、それは万年橋を渡ったすぐ左側の、
昔は生簀の番小屋程度の庵の事を指しているとおもわれる。
今は展望庭園になっている。

番小屋程度の庵に門人から芭蕉(植物の)を贈られ、
これが繁茂したことから芭蕉庵という名にしている。
天和二年駒込の大火でその芭蕉庵も類焼し、
翌三年旧芭蕉庵の近くに建てた芭蕉庵に移り住んだ。
これが今は芭蕉稲荷神社がある場所だ。

この展望庭園を隅田川沿いに進んで階段を下ると、
芭蕉稲荷神社の赤い幟旗がはためいているのが見える。
ここが大火類焼後の芭蕉庵で、このころから芭蕉は漂白の旅を始め、
「野ざらし紀行」「笈の小文」をあらわしている。

元禄二年「住める方は人に譲り、
杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ=別荘のこと)に移るに・・・」と奥の細道にあるように、
杉山杉風の別荘 採荼庵(さいとあん)に移り、

・草の戸も 住み替わる代ぞ ひなの家

の句を庵の柱にかけて、3月27日奥の細道の旅に出た。

ボクも真似て一句。

・「古池や」 翁の句碑に 春の風   hidebach
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芭蕉ゆかりの要津寺(芭蕉の道を歩く 2)

2009年01月25日 09時10分00秒 | 芭蕉の旅

(要津寺(ようしんじ)
都営大江戸線「森下駅」で下車し。
A-2出口へ出ると目の前に新大橋通りがある。
左横を見ると新大橋通りをまたぐ横断歩道があるのが見える。
A-2の出口とこの横断歩道の間にある道を左折し、
最初に出会う信号から左を見るとブロック塀に囲まれた要津寺(ようしんじ)が見える。

道路に面した門の奥にもう一つの門があり、
右側の門の奥に石碑が数個建っているのが見える。
雪中庵関係石碑群としての説明によれば、
「雪中庵とは、芭蕉三哲の一人である服部嵐雪の庵号です。
三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、
深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。
これにより当寺は雪中庵ゆかりの地となり、
天明年間(1781-1789)の俳諧中興期には拠点となりました。
当寺には蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔や
「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、
四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、
宝暦13年(1763年)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、
安永2年(1773年)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、
天明2年(1782年)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。」
(墨田区教育委員会)とある。

門の右側には、要津寺の豪壮な屋根瓦が飾ってあるが、
以前建物に載っていた屋根瓦の一部で、
建物がどのようにして無くなったかは解らないが、
相当立派な寺院であったことが窺われる瓦であった。

要津寺を出て、来た道を新大橋通りに戻り右折すると新大橋に出る。
大橋と呼んだ両国橋が先にあったため、
下流に新たに出来た橋を新大橋と呼んだようだ。
新大橋に出る手前に「新大橋」という信号があるので左折すると、
これが「万年橋通り」となっている。
訪ねた季節が晩秋であったので、その通りの銀杏並木が綺麗であった。
万年橋通りを進むと、右側に「芭蕉記念館」があり、
その門前に芭蕉記念館の由来が書いてある案内があるので紹介しておく。
「新大橋と清洲橋が望める隅田川のほとり、
松尾芭蕉が庵を結んだゆかりの地に、この記念庵は建設されました。
ここには、芭蕉研究家からの寄贈品を中心に、
芭蕉関係の貴重な資料が展示されています。
――中略――
庭園には、池や滝、芭蕉の句に読まれた草木が植えられ、
築山にほこらと「古池や・・・」の句碑もあります。」とある。

芭蕉記念館前をさらに進むと小名木川に掛かる「万年橋」がある。
万年橋を渡らずに右側にある隅田川ウオーターテラスの階段を下りると、
右側の上のほうに隅田川を見下ろす芭蕉像が見える。
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Congratulations !

2009年01月21日 08時00分00秒 | つれづれなるままに考えること
Congratulations !

Barak H. Obama ! New American President !

アメリカ建国の困難を乗り切ったように、

今の困難なアメリカを乗り切って欲しい!
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板橋宿の縁きり榎(中山道番外記 22)

2009年01月20日 09時00分00秒 | つれづれなるままに考えること
写真付をご覧になる方は、下記URLをクリックしてお進みください。

URL:http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2009/01/22_7cf7.html


(縁きり榎)
中山道を歩き、各宿場で史跡ガイドを受けると、
「どちらからお出でですか?」と聞かれる。
その人の住まいに関係のある事柄が、
これから始めようとしているガイドの中にあるかを考えるからであろうか?
あるいは興味を何処に持っているのかを打診しているのかもしれない。

「東京の板橋から」といつも答える。
日本橋をスタートして板橋が中山道の第一の宿場であることをガイドをする人は知っている。
続けて「日本橋から三つ目の一里塚」の近くに住んでいます」と言うと、
「志村の一里塚ですね」と返事が必ず帰ってくる。
国の指定史跡になっているからである。

一通りガイドが終わって聞かれることは
「板橋の地名の由来となった板の橋はまだありますか?
それと縁切り榎はあるのですか?」
この二つは必ず質問される。

「板の橋はもうありませんが、板に似せたコンクリート製の橋が残っています。
そのすこし京都よりに三代目ですが(縁きり榎)もありますよ」とお話しする。

その縁切り榎については次の通りに書いた。
(旧中山道を歩く 24http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2005/03/post_9.html参照)

《皇女和宮の折は、榎のまわりを覆い、
見えないようにして通行した、といわれる。
しかし、和宮以前にも降嫁した皇女-五十宮(いそのみや)、
樂宮(ささのみや)は、「縁切り榎」を避けて通行したので、
中山道の迂回路があることを考え合わせると、
皇女和宮も迂回したのではないかと、意見は二つに分かれる。》と。

そして皇女和宮のときも約1キロの迂回路整備のためにお金が下げ渡されている史実から、
和宮もその迂回路を通過したというのが正しいということに現在はなっている。
しかも「榎を菰で覆ってかつ迂回路を通った」ということになっている。

つい最近になり、縁切り榎について、皇女和宮は浦和から川口を抜け、
御成り道を経由して板橋に入ったとの記述のある新聞記事があるのを見つけた。
過ぎ去ったことで、どこをどう通ろうとどうでも良いことであるが、
紹介しておく。(つまり本当のことは何も解らないと言うことか。)

朝野新聞の明治26年7月12日付に次のような記述があることを発見した。
原文は少し長いが要約して記載する。
(なお、朝野新聞は廃刊になっているが、当時は有識者に購読された
近代ジャーナリズムの草分け的存在であった新聞とのもっぱらの評がある。)

『五十宮(いそのみや)降嫁のおり巣鴨原町一丁目角左衛門店(だな)
源右衛門ほか一人から差し出した注進書にかかれていた文面は以下の通りである。

《この度、五十宮様入府遊ばされるお道筋は中山道下板橋通りと聞き及んでおります。
この道筋についてご注進申し上げます。

この宿はずれの下板橋の岩の坂にある近藤登殿下屋敷の垣根際に
榎槻(えんつき。槻=けやきのこと)一所に生えて数年が経ち、
とくに大きな木があります。
いつの頃からか解りませんが、誰言うと無く(榎槻岩の坂)を
(えんつきいやの坂)と言うようになり、
ここを縁談のある女性や婿入りが決まっている男性が通れば、
必ず縁が短いと言われております。
近所の人たちは言うまでも無く、
縁組のあるものは一切通りません。
木の前に注連縄(しめなわ)などを張り、
この近辺の者たちはこの内容を良く知っておりますが、
何分下々の俗世間で申すことですので、
このことを申し出ること恐れ多いことですが、
ひとえに宮様の幾久しいご繁栄を願ってことで、
恐れ多いことでございますが以上ご注進申し上げます。》

以上の通り注進したため源右衛門外一人は
(五十宮様ご到着のお道筋のことを注進したことは奇特なことである)
ということで銀一枚ずつ賜った。そして同宮様の道筋は、
浦和宿の後、川口より日光御成り道に変更された。
その後楽宮(ささのみや)、和宮様ご降嫁のときもこの例に倣って日光道より江戸に入った。』
(朝野新聞明治二十六年七月十二日)とある。

(和宮ご降嫁からたかだか34年後の新聞記事であることから、
事実に相違ないと思われるが、事実は闇の中である。
しかし、昔の新聞はそれ以前は「かわら版」であったことから、
興味本位に書かれた物語風であり、一概に信じられないという見方もある。

現代風に考えれば、美智子様が馬車で通られた道筋を、
いかに面白おかしく物語風に書いたからといって、
いやしくも新聞が間違って記載することは考えにくい。
この新聞通りであるとすれば、
和宮様の通過は、縁切り榎の前はおろか縁切り榎を避けるために整備された
約1キロの迂回路も通らず、
川口から日光御成り道を通って板橋宿に入られたかも知れない。
しかし、一方で皇女和宮は徳川家に嫁いで、
家茂との結婚生活の期間が短かく、縁が薄かった事を考え合わせると、
あるいは縁切り榎の下を通ったのかもしれない。)
とボクは勝手に想像を逞しくしております。

いずれにせよ、和宮様が旅の最後に宿泊した板橋宿の脇本陣跡の近くに、
日光御成り道に通じる御成り道があるようですので、
和宮様のお輿はこの道を通り抜けて来たという足跡が何処かにないかと、
いつか機会を見て歩いてみようと考えております。

なお、余計なことであるが、
和宮様下向の際に沿道に出された禁止事項(板橋区教育委員会資料による)は以下の通りで、
13.にあるように、目障りなものにはよしずやむしろで覆えとあるから、
縁切り榎にも覆いをかぶせた事は間違い無さそうである。


1.公私領の別無く、通行の前後3日は旅人の通行を禁止する。
2.往来の草深い箇所は刈り込み、2日まえから掃除をして置く事。
3.街道の立ち木の枝は日傘に触らないように刈り込むこと。
4.通行時、家屋の前には盛り砂をして、水を入れた桶を置くこと。
5.宿場の2階屋は、雨戸を閉じ、看板や暖簾は外しておくこと。
6.通行時は、店の土間にむしろを敷き、平伏すること。
7.商い物は片付けるかよしずをかぶせること。
8.足袋わらじなどを軒先で売らないこと。
9.農家の軒先に竹木を立てかけておかないこと。
10.通行時近くの寺の鐘は鳴らさないこと。
11.通行の二日前から鳴り物を鳴らさないこと
12.通行時は煙を立てないこと。
13.目障りなものは、よしずやむしろで覆うこと。
14.男は裏手に居ること。

この禁止事項の一環かどうか解らないが、
塩尻の中山道沿いの農家では、家の縁先に柵を作らされ、
それより前面に出ることを禁止されたと言う。
住居のおばあちゃんがその柵に付いて、
子供に言い伝えたその柵が現在も残っている。
と言うのは面白い。
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芭蕉庵史跡(芭蕉の道を歩く 1)

2009年01月20日 04時11分30秒 | 芭蕉の旅

0025
(洗馬宿の芭蕉句碑)

(旅立つ前に)
芭蕉の句に興味を持ち始めたのはつい最近のことである。
旧中山道を歩きはじめて28日経過し、振り返ってみると、
随分沢山の芭蕉句碑に出会ったことが興味の持ちはじめであろう。

高校生のころ、「奥の細道」の一部を授業で取り上げられ、
覚えた俳句は沢山ある。
しかし、その俳句は自然の情景を見事に掴み、
17文字に人生を表わした芭蕉の才能に感嘆したのが
心の底に残っていたのかも知れない。

最近、図書館で「芭蕉の恋句」なる小冊子を読み、
芭蕉にも恋の句があるのかと知ったのもついこの間のこと。

2008年の秋、旧中山道を歩いて長野の洗馬宿で見つけた芭蕉句碑には、

信濃の洗馬にて
①入梅はれの わたくし雨や 雲ちぎれ
   俳諧一葉集より     芭蕉

とある。
「入梅」は(つゆ)と読むのであろうが、どうも句の意味が解りにくい。
芭蕉の句はボクが知っている限り、
その意味が極めてわかりやすいと思っていたのであるが・・・


0017
(平沢にある「をくりつ」の芭蕉句碑)

もうひとつ、やはり信濃の平沢(塩尻市役所の)支所の芭蕉句碑に

②送られつ をくりつ果ては 木曽の秋   はせを 

がある。
これにはもうひとつの句

③送られつ 別れつ果ては 木曽の秋   はせを

があることを知った。
いったいどれが正しいのであろうか?疑問に思った。
芭蕉については、
沢山の方が研究をされており、関連する本も沢山出ている。
奥の細道を歩くのなら「奥の細道の旅ガイドブック」、
「芭蕉はどんな旅をしたのか」、
「旅人・曾良と芭蕉」、「新芭蕉講座1~」、
「西行・芭蕉の詩学」、
芭蕉の俳句のすべてを知りたければ「芭蕉俳句集」、などなど。
前述した「芭蕉の恋句」もある。

①入梅(つゆ)はれの わたくし雨や 雲ちぎれ

について、
普通、芭蕉の俳句はとても明解で理解し易いのに、
解りにくいのは草書の字そのものの読み方が違うのかもしれないと、
以前書いた。
URL:https://blog.goo.ne.jp/wxm68971-1936/e/f5398ae5cf2554b877d3b5896cb5158e
「あふたの清水」(旧中山道を歩く 155)参照)
芭蕉俳句集によると、芭蕉の句として伝来しながらも、
芭蕉の句としては疑わしいとして、
「存疑の部」に収録されている。
なるほど、芭蕉の句としては、意味が解りにくいと思ったが、
これで納得できた。
この句は芭蕉の句ではないかもしれないのだ。

②送られつ をくりつ果ては 木曽の秋

について、
芭蕉俳句集の(注釈)に寄れば、
(笈日記岐阜の部に「その年(貞享五年)の秋ならん、
この国より旅立て更科のつきみんとて、
留別四句」として初めにあげる。)とある。

③送られつ 別れつ果ては 木曽の秋

については、同じ一つの文の中で同じ言葉を並べないのが原則、
から考えれば
「送りつ」より「別れつ」のほうが句としてよいように思うと述べた。
(古中山道の諏訪神社(旧中山道をあるく 161)参照

芭蕉俳句集によれば、
②「送りつ」を③「別れつ」に芭蕉が推敲したものと判明した。

やはり芭蕉も「別れつ」のほうが良いと思ったのであろう。

さて、松尾芭蕉は「奥の細道」へ出立したのは3月27日。
深川の芭蕉庵を人に譲り、杉風の別墅 
採荼庵から旅立ったことは良く知られている。
そこで深川を訪ねた。芭蕉庵と採荼庵の場所を見てみたいからだ。

・行く春や 鳥啼き魚の 目は泪 


0079
(仙台堀脇にある採荼庵)




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