楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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授業参観:国語「竹取物語」(学校教育 1)

2006年07月14日 09時11分00秒 | つれづれなるままに考えること
(竹取物語)
進学校で名高い、中高一貫校の中学の授業を参観する機会を得た。
科目は国語である。午前中にこの授業を見学した。

国語は「竹取物語」の訳読といったら良いのであろうか、
古典の授業であった。ちょうど物語が始まったところで、
その一部は次の通り。
「いまはむかし、たけとりのおきなといふものありけり。
野山なるたけをとりてよろつの事につかひけり。
名をは、さるきのみやつこと《なむ》いひける。
そのたけの中に、もとひかる竹、ひとすちあり。
あやしかりてよりて見るに、つゝの中ひかりたり。
それをみれは、三すんはかりなる人、いとうつくしうてゐたり。」

この物語は日本人なら知らない人は居ないと思われるほど、
よく普及している物語で読む人にもわかり易い。
しかし、今の中学生には
(いふ)、(けり)、(よろつ)、(つかひけり)などなど、
意味が分からないかもしれない。

教師は、解らないであろう言葉を現代語に直し解説しながら、
生徒の理解を深めていく、そんな授業風景であった。
脇で見ていても、子供たちにも分かりやすく、楽しく古典に
親しめそうに思えた。
授業を見る限り、「竹取物語」を読み終われば、他の古典文学を
読んでみようという気持ちが起きそうな授業で素晴らしかった。
ボクもこんな授業なら一年間、受けてみたいと思ったほどである。

ボクが中学生のときは、方丈記、更級日記であったと思うが、
古典文学を何の苦もなく読み理解できたのは、小学校の始めに習った
国語が旧仮名遣いであったこと、祖母から来た手紙が候文であったことが理解を深めさせたように思う。
中学校で習い覚えた文章は、生涯忘れることはない。その意味から、
この時期に人生のいろんな場面を捉えた「竹取物語」は、
揺れ動く思春期の少年に人生のあり方―世の中の姿など―を教えてくれるように思う。
また、学業だけでなく、クラブ活動にも専念して、活動を通じて、世の中の仕組みや、
良いこと悪いことの判断と実行、先輩後輩の習慣、などなど身につけて、
有意義な六年間にしてもらいたいものである。
そんな勉強をしてこそ充実した学生生活といえる。

神は、その人にしか生きられない生命(いのち)を生きるために、
必要な時と必要なものを必要なだけ与えてくれていると思う。
その期待に応えて、自らの人生をしっかり歩いて行きたいものである。




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時の鐘(人、その生と死と10)

2006年07月09日 09時08分00秒 | つれづれなるままに考えること

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URL:http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2006/07/post_c388.html


(時の鐘)
もう死語になってしまったかもしれない言葉「半ドン」とは、
「土曜日の午後から仕事はお休み」を意味した。
この「半ドン」の由来は、江戸城でお昼の合図に太鼓をドーンと敲いた事から来ているという説もある。
太鼓をたたく以前は、時を告げるのに鐘を撞いた。
この鐘は、お寺にある鐘と同じ形をしており、同じような音が出るので、
城中で鬱とうしいと、太鼓に代わった。

その鐘が、東京の小伝馬町の公園の一角に保存されている。
元「小伝馬町牢屋敷跡」に、今では「十思公園」と呼ばれる公園の中にある。
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2005/01/__2.html 「中山道ひとり歩る記8」を参照)

この鐘は時刻を知らせるばかりでなく、当時「小伝馬町牢屋敷」で、
罪人を処刑する時の合図にもなっていた。
当日処刑がある日には、鐘つき役人は温情を持って鐘をつく時間を
わざと遅らせたようである。「中山道ひとり歩る記 8」では、
(下町人情が髣髴としており、もし罪人がこれを知っていたら涙を流し、
罪を悔いて、従容として刑に服したであろう)と記したが、本当にそうであろうか疑問になってきた。

なぜかと言うと、自分自身病に罹って「悪性リンパ腫」を告知され、
残りの命は「三年間生存率 30%」と言われ、ガンの進行度は「レベル4」と聞かされていたが、
今回再検査で知ったことであるが、病名は白血病、多発性骨髄腫で、
本当は余命いくばくもなく、末期癌であったかも知れないのだ。

もし、そのように(末期がんと)聞いていたならば、本人は生きる望みを捨てて、予定通り、
この世と「さよなら」をしていたかもしれない。
しかし、告知された内容は「三年間生存率 30%」であったため、
病人は、生きる希望を持つことにより、人が持つ自然治癒力も活発になり、
化学療法も好結果を生むことになった。
そして回復後すでに、五年目を経過しようとしている。

もし、医者にも判らない過去の例から推し測った事実を告げられていたら、
「時の鐘」を合図に処刑される罪人のように、明日か、今日か、あるいは
今か今かと、死を怖れおののき、死を待つ苦しみを味わっていたに
違いない。本当のことは誰にも判らないが(神のみぞ知ることである)。
ただ、今ある現実があるのみである。

「時の鐘」を合図に処刑される罪人は、目隠しをされ所定の位置につくと、
いつも聞きなれた「時の鐘」が、いつもの時間に聞こえてくることを予期して、覚悟を決めたに違いない。
それを、首切り役人から、「『時の鐘』を撞く役人が、温情で少しも長く処刑の時間を延ばしてやろうと、
鐘をつく時間を遅らしているのだ、ありがたく思え」などと言われたら、
罪人はいったん決めた覚悟が緩み、鐘の音が鳴るまでのわずかな時間、
恐ろしさに打ち震えるのではないだろうか?
鐘つき役人の温情が罪人には仇となり、
苦しみにさいなまれる拷問の時間になってしまうのではないだろうか?
あるいは、鐘つき役人の温情に、心から感謝をしたのだろうか?
あるいは、過ごしてきた人生の楽しき事を思い出して、
一瞬の喜びを味わったのであろうか?




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時計(人、その生と死と 9)

2006年07月04日 10時29分00秒 | つれづれなるままに考えること
{写真付をご覧になりたいの方は、下記URLをクリックしてください。
URL:http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2006/07/post_b3c6.html


(時計)
時計には、動力源によっていろんな種類がある。
手巻き時計、自動巻き時計、電池時計、などなど。
まだソーラー電池時計がないころ、こんな質問があった。
「世界で一番沢山出回っている時計はどれでしょうか?」
ボクは即座に「電池時計」と答えたが、正解はノー。

世界は広い。
テキサス州一州だけで日本の総面積の7倍あるアメリカ。
アフリカの砂漠に住む人たち、ブラジルの熱帯ジャングルの中、
太平洋の小島、東南アジア諸島、ゴビ砂漠、北極南極の雪氷の深いところ、
こんなところでは、電池時計は役に立たない。
電池が切れたら一日かけて町へ出て、電池を注文して電池が到着するのを待たねばならない。
こんな時計は役に立たないのだ。

今でもそうだと思うが、やはりぜんまい仕掛けの手巻き時計が、
世界では一番出回っていると思われる。
止まったら、ねじを巻けばすぐ動くからだ。

つい先ごろ、スイスで腕時計のショウがあった。「モーターショウ」ならぬ「腕時計ショウ」である。
雑誌にこのショウの模様が記してあった。世界各国から出品される。
ボクが知っている範囲では、メーカーの名を記すと、オメガ、エルメス、
ロンジン、ロレックス、カルチエ、オーディマピケ、シャネル、
日本ではシチズン、セイコー、が出品される。
世界の時刻を表現するものから、豪華に宝石をちりばめたもの、
複雑な機械構造を表(おもて)に見せた時計、
百分の一秒から、一分を一秒ごとに刻むもの、日付、曜日、月、年号、
を表現するもの、世界各地の時刻を刻むもの。
ありとあらゆる時刻に関係するものを文字盤に見せようとしている。

今に、子供が生まれたときから時を刻み始めて、ただ今あなたは何歳と
何ヶ月、何時間、何分、何秒を文字盤に現わす時計が出てくるに違いない。
そして、ご臨終とともに時計は止まる。

雑誌に掲載された腕時計の写真は沢山あったが、どれも標準時間との
誤差は、一年間に5秒前後とあった。
中には、「十万年に1秒の誤差があります」をうたった腕時計があったが、
この時計を買った人は、代々子孫に伝えて約3000人目の時に、たった1秒狂うのを発見できる。
誤差を確認する前に、機械が磨り減って止まってしまうのではないだろうかと、
余計な心配をしてしまう。

ほかに気になったのはお値段だ。
一番高い時計はどこの国の製造と思いますか?
なんと!日本のセイコーであった。さすが経済大国 世界でNO.2の日本。
品物も良いし、なんといっても正確この上ない。
さてお値段は、15、750、000円也。
お値段は日本製が一番であったが、なんとお値段を発表していない
メーカーが一社あった。これが本当は一番高価なのかもしれない。

どこと思います?

はい、そうです。ロレックスです。

話が大変それてしまいました。
閑話休題。
日本の家庭には、時計と名のつくものが、いたるところにゴロゴロしている。
我が家にいたっては、ボクでさえ、腕時計五個に懐中時計の計六個持っている。
さらに、靴と時計が道楽のカミさんが居るから、時計が沢山ある。
カミさんの腕時計だけで十数個、ブレスレット、ネックレスになった時計を
加えると三十個近いものを持っているに違いない。
カミさんと出かけるときは時計屋さんの前は避けて通るようにしているくらいだ。
家の中を見渡してみると、時計は壁掛け時計が三個、置時計、目覚まし時計、
それにテレビ、ビデオデッキ、パソコン、カメラ、洗面台、ICレコーダー、ミニコンポ、
ペンetc.についている時計を加えると、家の中には、80個ほどの時計があるように思われる。
しかも目に付く時計の全てが、違う時刻を指していても一向に気にならないのはなぜだろうか?

人は生まれるや死に向かっての旅を始める。
死ぬまでの時間は、神から人間に与えられた唯一平等なものであるが、
その期間については、長い人も居れば、短い人も居て、この点では不平等であるが、
死ぬときにならないと、それは分からないから、不平も出ないのであろう。
この時間をどれだけ大切に使ったかによって、
人間の価値が決まるといっても過言ではないのに、
時刻については一向に気にならないのはなぜだろうか?

死についても、決して避けることが出来ないにもかかわらず、
一向に気にしないで生きているのはなぜだろうか?

病気に罹って、「後一年」「あと三ヶ月」「三年間生存率 30%」と
医師に宣告される、あるいは、身近な人が亡くなって次は自分と思うと、
気になって気になって、居ても立っても居られないのはなぜだろうか?

それはきっと、時間が経つことや、死ぬということが、あまりにも当たり前のことだから、
思い出そうとしないからに違いない。
時間は経過するもの、人は死ぬものと言うことをきちんと自覚すれば、
過ぎ去っていく時間を有意義に使って、今やらなければならないことを
精魂込めて(次の瞬間には死んでも悔いは残らないくらいに)
実行するに違いない。

明日が試験の日だというと、徹夜で頑張る。
明後日がお見合いだとなると、とたんに服装や髪型が気になる。
差し迫らなければなかなか動かず、怠惰な気持ちを持っているのも
人間の特徴である。
そんなことを気にかけなくて済むよう、普段から時間を有効に活用し、
身じまいを正して良き人生を歩きたいものである。



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