楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

青春―サミュエル・ウルマン

2004年09月21日 09時44分00秒 | つれづれなるままに考えること
中山道を歩いて日本橋から第二の宿場、
蕨宿まで来た。

蕨の史跡、蕨城址の小公園に着くと、
ボクの好きなサミュエル・ウルマンの詩
「青春」が、日本語と英文で刻まれた
石碑があった。

公園に遊びに来る人たちに、何時までも
「青春」であってほしいと願ってであろう。
その詩を紹介したい。

  (青春)  サミュエル・ウルマン(一部省略)
(青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の持ち方を言う。
たくましい意志と、ゆたかな創造力、炎える情熱、
弱気を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心、
こういう様相を青春という。年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いが来る。

十六歳であろうと六十歳であろうと、
人は信念と共に若く  疑惑と共に老いる。
人は自信と共に若く  恐怖と共に老いる。
希望ある限り若く   失望と共に老いる。)

頭を上げ希望の波をとらえる限り、
八十歳であろうと青春であり続けることが出来る。

この分ではボクは何時までも青春であり続ける。

ついでに原文も載せておきたい。

Youth  (Samuel Ullman)
Youth is not a time of life; it is a state of mind; it is not a matter of rosy cheeks red lips and supple knees; it is a matter of the will a quality of the imagination a vigor of the emotions; it is the freshness of the deep springs of life.

Youth means a temperamental predominance of courage over timidity of the appetite for adventure over love of ease. This often exists in a man of sixty more than a boy of twenty. Nobody grows old merely by a number of years. We grow old by deserting our ideals.

Years may wrinkle the skin but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry fear self-distrust bows the heart and turns the spirit backto dust.

Whether sixty or sixteen there is in every human beingユs heart the lure of wonder the unfailing child-like appetite whatユs next and the joy of the game of living. In the center of your heart and my heart there is a wireless station; so long as it receives messages of beauty hope cheer courage and power from men and from the infinite so long are you young.

When the aerials are down and your spirit is covered with snows of cynicism and the ice of pessimism then you are grown old even at twenty but as long as your aerials are up to catch the waves of optimism there is hope you may die young at eighty.













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一日一善の心がけ(言うは易し、行なうは難し)

2004年09月13日 10時14分00秒 | つれづれなるままに考えること
(一日一善の心がけ)
「一日一善」を心がけてから、もう40年になる。

一日の内に一善を一回も出来ない日がある。
そうかと思うと一日の内に六善もすることがある。

本来「一日一善」なんてものは、このような形で
人に報告すべきものではない。
黙々と善行を実行していくべきものなのであろう。

ボクが「一日一善」を発表してきたのは、
一つには、Diaryの話のたねが尽きたからだ。
二つ目には、発表することによって、
自分自身に「一日一善」をしなければならないぞ、
と自分を追い込むためだ
三つ目には、誰でもよい一人でも多くの人が、
この文章を見て「自分もやってみよう」と思う人が
出てくることを望んだからである。

芥川龍之介の小説に「蜘蛛の糸」という短編がある。

ある悪人が血の池地獄に落ちる。
阿弥陀様は、血の池地獄でもがく悪人たちを見守る。
そして、
(ある悪人が生前に、蜘蛛が這い出してきたのを見て、
踏み潰そうとしたが、思いとどまって殺さずに、
逃がしてやった善行を)思い出す。

そこで阿弥陀様は、その一善に免じて
悪人を助けようと、極楽から血の池地獄へ
蜘蛛の糸をたらす。

血の池地獄から這い出そうと、悪人は蜘蛛の糸を
よじ登るのであるが、もうまもなく極楽へ着こうという頃、
下を振り向くと、自分の後に無数の人たちが
その糸をよじ登ってくる。
このままでは糸が切れて、自分が極楽へ到達できない。
そこで「お前たちが登ってくると、糸が切れて
俺が極楽へはいけないから、早く地獄に戻れ」と
呼びかけると、糸は切れてその悪人もろとも、
全員が血の池地獄に落ちていく。

と言う話だ。

この物語には、二つの教えが入っている。

一つは、どんな悪人でもどんな些細なことでも
善行を行えば極楽へいける可能性があるから、
生命在るうちに善行を施しておきなさい。

二つ目には、自分さえ良ければ良いという考えは、
良くない。他人に良かれと思われることを実行しなさい。

以上の二つだ。

この教えを心に秘めて、
黙々と「一日一善」を実行したい。

「一日一善」については今回で終わりとし、
PRしたい頃に、また記載しようと思います。

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⑦「一日一善」を始めた頃(言うは易し、行うは難し)

2004年09月02日 09時13分00秒 | つれづれなるままに考えること
(「一日一善」を始めた頃)
その昔、学生運動が盛んであった頃の話。
東大もその渦中にあり、安田講堂が学生に
占拠される事件があった。
その学生紛争も真っ最中で、時の東大総長は紛争解決のため、
夜の寝る間もないくらい多忙な日々を送っていたと思う。

そんな最中、時の東大総長のプロフィールが新聞に載った。

モットーは「一日一善」

紛争解決のために超多忙な人が、
毎日一善を心がけているという。
その人の名は、茅 誠司氏。

その「一善の心がけ」に感じてボクの一善が始まった。
もう40年も前のことである。

「一日一善」を始めた当初は、その一善を毎日探した。

そして実行に移すことに抵抗を感じて、
なかなか実行することが出来なかった。

ごみを拾って所定の場所に捨てる。
ただそれだけのことであるが、人目が気になって
なかなか出来ない。恰好良すぎるのだ。

最初のうちは、ごみの前を通り過ぎてしまう。
心で(そんなことで「一日一善」ができるか)
と反省し、元のところへ戻ってごみを拾う。

電車に乗って、杖をついて歩く人を見ても
席が譲れない。
自分自身を叱咤して、その人が通り過ぎたころ、
やっと声をかける。

そんなことが続いた。
今はどうだと言うと、毎日の一善を忘れている。
今日は何をしたのだろうかと思うことがあるが、
よくよく考えてみると、「一善」を実行している。

ただ思い出せないだけで、知らぬ間に実行に移している。
これこそ本物の「一日一善」だとほくそえんでいる。




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