楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

草加せんべい(芭蕉の道を歩く 10)

2009年05月16日 09時21分00秒 | ひとり歩き旅


(草加せんべい)
草加といえば、ボクの頭に浮かぶのは草加せんべいと
駄洒落の「そうか(草加)越谷・千住の先」しか思い浮かばない。
旧日光街道を歩くと電柱に「せんべい元祖」の看板が目に付く。
芭蕉とは縁もないが、草加せんべいを避けては通れない。

前回の続きで、氷川神社の隣の草加小学校を過ぎると、
およそ50m右側に「おせん茶屋」跡がある。
旧日光街道に面し、ちょっとした休憩所であり、奥にお手洗いがある。
普通、公衆トイレは暗くて汚れたイメージがあるが、
このお手洗いは公衆トイレの暗いイメージは無く、
明るくすこぶる清潔であった。入り口の暖簾もさわやか。
元草加町役場、鳩ヶ谷警察派出所があった場所である。

説明によれば、
(「おせん茶屋」は、旧日光街道に面し、
かっての宿場町の雰囲気を漂わせた茶室風の造りになっています。
「おせん茶屋」という名前は、
草加せんべいの伝説上の創始者といわれる「おせんさん」にちなみます。
1988年(昭和63)、建設省(現国土交通省)主催の
第三回手づくり郷土賞
「小さなふれあい広場30選」に選ばれました。)(草加市役所)

旧街道は先で県道49号線に合流するが、
その手前左側に「おせん公園」がり草加せんべい発祥の地になっている。

その草加せんべい「元祖せんべい」のお店があるので「せんべい」を購入。
一袋800円とあるが、どんなせんべいであるか現物が見えないので、
実物はドレですか?と聞くと、
ガラスの容器に入ったせんべいを見せてくれた。1枚八十円。
午後の3時をまわっていたので、早速袋から出したが、
湿度を嫌うせんべいのためか厳重に一枚づつ包装されている。
口に入れるとパリッとして醤油の味が良く合う。

草加せんべいは、
(現在、市内にあるせんべいの製作所や販売所は60軒以上に及び、
名実共に草加市を代表する名物になっています。
製造工程は機械化されつつありますが、
昔ながらの天日干しや手焼も行われています。
「草加せんべい」は円形の醤油味の固焼きで、
「草加せんべい醤油のかおり」は、
かおり風景100選(環境省)に選ばれています。)(草加市役所)とある。

また、せんべい発祥の地「おせん公園」には
草加せんべいのルーツが記載されている。
(草加せんべいのルーツはいくつかの伝説がありますが、
その代表的なものは、日光街道草加松原に旅人相手の茶屋があり、
おせんさんの作る団子が評判だったということによります。
おせんさんは、団子が売れ残ると川に捨てていましたが、
ある日それを見た武者修行の侍が「団子を捨てるとはもったいない、
その団子をつぶして天日で乾かし焼餅として売っては」と教えました。
おせんさんが早速売り出したところ大評判になり、
日光街道の名物になったと言われています。)(草加市役所)

「草加せんべい」としてのボクのイメージは、味は醤油味で同じでも、
価格は10枚買っても300円ほどと思っていたが、
十枚800円はやや高価の感触。
それにしても美味しくてあっという間に二枚平らげてしまった。

また「おせん公園」にある「せんべい発祥の地碑」の解説版によると、
(草加せんべいの本家本元を全国にPRしようと、
草加煎餅協同組合と草加地区手焼煎餅協同組合の二つのせんべい組合が、
市民から募金を募り1992年(平成4)この碑を建立しました。
左に煎餅に見立てた円形の花崗岩、
右にせんべいを焼く箸に見立てた御影石が置かれています。)(草加市役所)

なるほどやっと謎が解けた。
安価な草加煎餅は草加煎餅協同組合が機械を駆使して作った「せんべい」。
そしてボクが買った高価なせんべいは、
草加地区手焼せんべい協同組合が作った手焼の「せんべい」なのだ。

思い出してみれば、確かに味は「手焼せんべい」のほうに軍配が上がる。

ボクの一句、

・しょうゆ味 あつあつ煎餅 頬ばりて (hide-bach)



う~む どう考えても座布団はあげられないなァ!
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草加(芭蕉の道を歩く 9)

2009年05月10日 11時55分00秒 | ひとり歩き旅



(草加宿)              (19.Apr.2009.)
東武伊勢崎線「草加駅」東口に降りる。

「奥の細道」には、元禄二年(ふたとせ)に旅立ち
「その日、漸(ようや)く早加(=草加)と云(い)ふ宿(しゅく)に
たどり着きにけり。」とある。
日光奥州道中で第一の宿場が千住宿で、次が草加宿である。
草加宿は千住宿と越谷宿の
「間(あい)の宿(しゅく)」として寛永七年(1630)に設けられたという。

(当時の日光道中の千住と越谷の間は沼地が多く、
大きく迂回して通らねばならなかった。
そこで、宿篠葉村(現・松江)の大川図書(*)という人物が村民と共に、
茅野(かやの)(=かやの生えている野)を開き、沼を埋め立て、
それまで大きく迂回していた奥州街道をまっすぐにする
新道を開いたといわれています。
1606年(慶長11年)のことです。
このとき沼地の造成に沢山の草が用いられたことから
「草加」と呼ばれるようになりました。
その後、直線となった千住・越谷間に宿駅を設けることが
幕府によって命じられ、1630年(寛永7)に中間宿として、
新たに草加宿が日光道中第二の宿場として指定されました。)
とある。(草加市役所)

そうか(=草加) そういうことか、と納得。

駅を降りて目の前のロータリーを右に回り、
中央の道を進み二番目の信号を左折する。
これが旧日光奥州道中である。

信号右手先には埼玉りそな銀行があり、
左手先に草加道路元標が、場違いであるかのように頭を見せ、
その後ろに草加市役所が建てた「今様草加宿」の道標があるので、
その道標に沿って歩く。

この道を芭蕉と曾良が二人で奥州道中膝栗毛を楽しんだ道である。
やや前かがみで杖を持った僧の姿をした芭蕉の影絵が
「今様草加宿」に描かれている。

すぐ右側に八幡神社がある。
この神社には巨大な獅子頭が雌雄一対残されており、
草加市の指定文化財になっているらしいが普段は見る事ができない。
神社前にある狛犬が赤い舌を出しているのが珍しい。

宿場らしい古い呉服屋さんの店舗、蔵跡が、
工事中の養生シートに囲まれて建っている。
ご近所さんによると、古い建物を保存するらしい。
そのため工事に手間取っているという。

さらに先に進むと、草加小学校の手前の左側に氷川神社がある。
小さな神社であるが、中に書いてある縁起が面白く紹介したい。

「   平内さん(縁結びの神)
江戸初期の伝説的な人物で、夜な夜な辻斬りなど悪行を重ね、
自身の罪業消滅を願って自像を造って通行人に「踏(ふ)みつけ」させた。
これが後に「文付(ふみつ)け」に解され、
縁結びの神としてよく効く神様として親しまれ
拝されるようになった。」とある。

昔の信仰は時々馬鹿馬鹿しいと思うことがある。
罹(かか)れば70%の子供は死に至るという天然痘も、
疱瘡祠を建ててお祈りするより方法が無かった時代。
恋も思うようには行かず、特に男尊女卑の時代には、
女性が思いを寄せても言い出すことが出来ない時代。
手の打ちようが無い時代であれば
「縁結びの神」に祈るしかないのだ。

この時代、恋心を打ち明けるには、
恋文をそっと想う人の持ち物にしのばせる以外方法が無かった。
「恋文をそっとしのばせる」のを「文を付ける」といった。
もっとさかのぼって明治以前には、
恋心を、みそひと文字(短歌)に忍ばせておくる方法をとった。
これが縁となって結ばれることから「踏みつける」→「文を付ける」→
「縁結びの神」になったのであろう。

第二次大戦後男女同権の時代になっても、
長い間「男女七歳にして席を同ぜうせず」の考えが残っており、
男女が手をつないで歩くことは無く、
女性は三歩下がって男性の後を歩くのが普通で、
現代のように、「あなた好きよ!」と手をつなぎ、
キスをして「はい!出来ちゃった結婚です」なんて、
堂々とテレビの前で報告することは考えられなかった。

脱線はそのくらいにして、本題に戻す。

この神社は七福神の大黒様をお祭りしている。

ボクの一句、

・神様に 助けられたる 膝栗毛  (hide-bach)

                      (つづく)

(*)草加宿を開いた大川図書について
(大川図書は小田原の北条氏に仕え、土本氏を名乗っていたといいます。
1590年(天正18)小田原城落城によって浪人となり、
岩槻城主太田備中守のもとで年月を送っていたようです。
そして、徳川氏の天下統一の時、
谷塚村に居住することになったと言われています。
その後、新しい土地を求めて現・松江近辺に移り住むようになり、
草加宿や東福寺の建設に尽力をすることになりました。)(草加市役所)
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千住大橋と荒川の言い伝え(芭蕉の道を歩く 8)

2009年05月09日 11時17分00秒 | ひとり歩き旅



(大橋と亀)
千住大橋は隅田川に架けられた最初の橋です。
この川は以前荒川とも渡裸川(とらがわ)とも読んでいました。

昔は文字の示すように荒れる川であり、
トラ(虎)が暴れるような川と言われていました。
こうした川に橋をかけることは難工事ですが、
当時土木工事の名人と言われた
伊那備前守忠次によって架けられました。

千住大橋の架橋については“武江年表”文禄三年の条に
「・・・・中流急流にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて舟を圧す。
船中の人水に漂う。伊奈氏 熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。

川の流れが複雑でしかも地盤に固いところがあって、
橋杭を打ち込むのに苦労したようです。
そうしたことから完成時には、一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。
ここで大亀の話が登場するのです。

ずっと以前から川の主と言われる大亀が住んでいて、
その棲家が橋の川底にあったので、
打ち込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。
いくら打ち込もうとしても橋杭は入っていきません。
そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。
その場所を避けて岸辺に寄ったところに杭を打ち込んだところ、
苦もなく打ち込めました。
しかし、見た目に橋脚は不揃いになってしまいました。
川を往来する舟が橋の近くで転覆するとか、
橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返したとか、
橋脚にぶつけさせたと言われています。
船頭仲間でも大橋付近は難所として、
かなり年季の入った船頭でさえ、
最大の注意を払い航行するようになったといいます。

とこんな話しだ。良く似た話で、他に大緋鯉の話もあるとのことで、
そのお話が千住大橋の岸壁に書かれている。

その為かどうか解らないが、現在も橋げたの間隔がふぞろいな箇所もあると言う。
さて、どの部分が広くなっているでしょうか?
(下記URL:をクリックして絵をご覧になり考えてください。
URL:http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2009/05/post_1a59.html)

ボクの季語なしの一句

・語りつぐ 橋は水陸 役に立ち  (hide-bach)




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