(浅草橋交差点)
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(浅草橋 2)
浅草橋の交差点を、左に行けば靖国通りで、
神田神保町から靖国神社に向かい、
右に行けば両国橋で、
奉納相撲が興行された回向院、
回向院の裏手の先に進むと、
忠臣蔵で有名な本所松坂町の吉良上野介のお邸、
いずれも両国橋の先、右手にある。
左手は両国駅で、その裏側は江戸東京博物館と、
春場所が終わったばかりの両国国技館で、
東京見物をするなら浅草をみて、
次に江戸東京博物館がお勧めである。
国技館の先に旧安田庭園が解放されており、
その手前に、下総屋食堂があり、
なるほど下総と云う国であったと判る。
下総と云うのは千葉県と頭にこびり付いていて、おやっと思った。
ここは千葉県で無く、回向院があり、本所の鬼平こと、
火付け盗賊改め方の長谷川平蔵が若い頃遊び歩いた場所で、
江戸のうちだからである。
両国橋は、武蔵の国と下総の国の両国を結ぶから、
両国橋と云うというらしいが、
江戸の浅草と同じく江戸の本所を結んでおり、
千葉県と結んでいる訳ではない。
調べたら、下総は千葉県だけで無く、
埼玉県、茨城県にまたがっている事がわかった。
これが葛飾郡である、と言う。
それで赤富士で有名な浮世絵画家が住んでいたので、
これを葛飾北斎と言ったのだなと納得した。
(両国橋)
(回向院)
(本所松坂町跡の碑)
(吉良上野介邸跡)
(左手はJR両国駅)
(江戸東京博物館)
(国技館の呼び出し太鼓櫓)
(旧安田庭園入り口)
(旧安田庭園)
(旧安田庭園2上に見えるのが国技館の屋根)
(下総食堂)
(*)両国とは、武蔵の国(江戸)と下総の国(江戸)の両国を言い、
隅田川でこれを分けて、その両国にまたがる橋を両国橋といった。
下総の国は、下総の葛飾郡から利根川(現在の江戸川下流)以西の地域を割き、
武蔵国の葛飾郡(現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分)とした。
今は浅草橋交差点を直進、道なりに進むと、
本来の浅草橋がある。
小さな橋で、下を流れる川には釣り船、屋形船が何艘も舫ってあり、
東京湾や隅田川を花見や、花火見物をする舟は、
ここが起点になっていることが分かる。
(浅草橋2)
(舫ってある川船)
(船宿)
浅草橋を渡って左手に、「浅草見附跡」の石碑が、
小さな緑地に囲まれて建っている。
(余計な事であるが、さらに左手に公衆トイレがあるので、
御用の方はこれを利用しておきたい。)
(浅草橋3)
(橋の袂のトイレと浅草見附の碑)
見附とは、「見つける」からつながる、「見張りをする」ことで、
城門の外側に置いた見張り番所で、
江戸城には36箇所の見附があったといわれる。
赤坂見附、四谷見附などが現在も残っている。
この浅草見附は、奥州地方から攻め込まれないように、
見張り番を置いた所であるように思われる。
浅草橋の外側で、見張るのには、
都合が良かったのではないだろうか。
(浅草見附の碑)
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浅草橋と言う町名は、神田川に架かる橋の名にちなんで出来た。
昭和九年に名づけられた町名の浅草橋は、
以前は茅町、上、下平右衛門町、榊町、須賀町、新福井町、瓦町、猿屋町、
向柳原町が一つになって出来た。
この浅草橋が造られたのは、寛永13年(1636)のことで、
浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたが、
いつしか浅草橋になった。
(おなじみの人形屋)
(おなじみの人形屋2)
浅草橋の先は、有名な人形の街である。
歩いたのが2月4日であるから、
丁度、桃の節句のお雛様の時期に当っており、
町にはご両親や、じいちゃん、ばあちゃんが、
人形の品定めに沢山集まっていた。
今も昔も、子供の健やかな成長を祈る親の思いは同じだなあ、
と思いながら、ウインドウの中の雛人形を眺めて歩いた。
(本当のことを言うと、人形を眺めるご夫婦やじじばばの顔を、
眺めて通り過ぎた。)
(人形)
(人形2)
(人形3)
ウインドウの人形の姿や顔を眺めていると、
いくら時間があっても足りない。
少し歩くと浅草蔵前である。
左に行けば秋葉原の電気街に、右に行けば蔵前橋にでる。
(蔵前橋)
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(浅草橋 2)
浅草橋の交差点を、左に行けば靖国通りで、
神田神保町から靖国神社に向かい、
右に行けば両国橋で、
奉納相撲が興行された回向院、
回向院の裏手の先に進むと、
忠臣蔵で有名な本所松坂町の吉良上野介のお邸、
いずれも両国橋の先、右手にある。
左手は両国駅で、その裏側は江戸東京博物館と、
春場所が終わったばかりの両国国技館で、
東京見物をするなら浅草をみて、
次に江戸東京博物館がお勧めである。
国技館の先に旧安田庭園が解放されており、
その手前に、下総屋食堂があり、
なるほど下総と云う国であったと判る。
下総と云うのは千葉県と頭にこびり付いていて、おやっと思った。
ここは千葉県で無く、回向院があり、本所の鬼平こと、
火付け盗賊改め方の長谷川平蔵が若い頃遊び歩いた場所で、
江戸のうちだからである。
両国橋は、武蔵の国と下総の国の両国を結ぶから、
両国橋と云うというらしいが、
江戸の浅草と同じく江戸の本所を結んでおり、
千葉県と結んでいる訳ではない。
調べたら、下総は千葉県だけで無く、
埼玉県、茨城県にまたがっている事がわかった。
これが葛飾郡である、と言う。
それで赤富士で有名な浮世絵画家が住んでいたので、
これを葛飾北斎と言ったのだなと納得した。
(両国橋)
(回向院)
(本所松坂町跡の碑)
(吉良上野介邸跡)
(左手はJR両国駅)
(江戸東京博物館)
(国技館の呼び出し太鼓櫓)
(旧安田庭園入り口)
(旧安田庭園)
(旧安田庭園2上に見えるのが国技館の屋根)
(下総食堂)
(*)両国とは、武蔵の国(江戸)と下総の国(江戸)の両国を言い、
隅田川でこれを分けて、その両国にまたがる橋を両国橋といった。
下総の国は、下総の葛飾郡から利根川(現在の江戸川下流)以西の地域を割き、
武蔵国の葛飾郡(現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分)とした。
今は浅草橋交差点を直進、道なりに進むと、
本来の浅草橋がある。
小さな橋で、下を流れる川には釣り船、屋形船が何艘も舫ってあり、
東京湾や隅田川を花見や、花火見物をする舟は、
ここが起点になっていることが分かる。
(浅草橋2)
(舫ってある川船)
(船宿)
浅草橋を渡って左手に、「浅草見附跡」の石碑が、
小さな緑地に囲まれて建っている。
(余計な事であるが、さらに左手に公衆トイレがあるので、
御用の方はこれを利用しておきたい。)
(浅草橋3)
(橋の袂のトイレと浅草見附の碑)
見附とは、「見つける」からつながる、「見張りをする」ことで、
城門の外側に置いた見張り番所で、
江戸城には36箇所の見附があったといわれる。
赤坂見附、四谷見附などが現在も残っている。
この浅草見附は、奥州地方から攻め込まれないように、
見張り番を置いた所であるように思われる。
浅草橋の外側で、見張るのには、
都合が良かったのではないだろうか。
(浅草見附の碑)
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浅草橋と言う町名は、神田川に架かる橋の名にちなんで出来た。
昭和九年に名づけられた町名の浅草橋は、
以前は茅町、上、下平右衛門町、榊町、須賀町、新福井町、瓦町、猿屋町、
向柳原町が一つになって出来た。
この浅草橋が造られたのは、寛永13年(1636)のことで、
浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたが、
いつしか浅草橋になった。
(おなじみの人形屋)
(おなじみの人形屋2)
浅草橋の先は、有名な人形の街である。
歩いたのが2月4日であるから、
丁度、桃の節句のお雛様の時期に当っており、
町にはご両親や、じいちゃん、ばあちゃんが、
人形の品定めに沢山集まっていた。
今も昔も、子供の健やかな成長を祈る親の思いは同じだなあ、
と思いながら、ウインドウの中の雛人形を眺めて歩いた。
(本当のことを言うと、人形を眺めるご夫婦やじじばばの顔を、
眺めて通り過ぎた。)
(人形)
(人形2)
(人形3)
ウインドウの人形の姿や顔を眺めていると、
いくら時間があっても足りない。
少し歩くと浅草蔵前である。
左に行けば秋葉原の電気街に、右に行けば蔵前橋にでる。
(蔵前橋)