江戸時代、旧中山道を京に向かう時、
最初の川は荒川で、ここは舟渡しであった。
荒川は文字通り荒れる川で洪水が多く、
特に下流域の朝霞から川下の氾濫原は、
増水すると川幅4kmに及ぶこともあったようだ。
中山道の「戸田の渡し」は、
川幅によって渡し賃が高くなった記録が残っている。
(浮世絵「戸田の渡し」)
荒川には上流から下流までに68カ所の渡しがあった記録が残っている。
「戸田の渡し」上流から数えて64番目で、
すぐ上流の渡しは、「早瀬の渡し」と言い、
上杉氏が板橋の千葉自胤の赤塚城を攻めてきたときに渡った所だ。
「戸田の渡し」のすぐ下流が「浮間の渡し」と言った。
この渡しは、現在の板橋区の「小豆沢水上バス乗り場」であり、
ここから対岸の浮間までが「浮間の渡し場」で、
主に農耕作業用の渡しであったようである。
この渡しを運営する人たちは、年貢や助郷を免除されたと記録にある。
それでも春の桜の頃には、一般の人たちが大勢この渡しを利用した。
この地域から戸田に、そして戸田から秋ヶ瀬にかけての湿地帯に花開く、
さくら草見物に利用した。
前書きが長くなったが、浮間には昔からさくら草が自生していて、
見物客が大勢いたことが解る。
今でも浮間では時期になると「さくら草まつり」が開催され、
大勢の人が集まる。
2015年の今年も4月11日からサクラソウ祭りが行われた。
(さくら草)
(さくら草2)
(さくら草3)
(さくら草4)
(さくら草5)
(八重さくら)
最初の川は荒川で、ここは舟渡しであった。
荒川は文字通り荒れる川で洪水が多く、
特に下流域の朝霞から川下の氾濫原は、
増水すると川幅4kmに及ぶこともあったようだ。
中山道の「戸田の渡し」は、
川幅によって渡し賃が高くなった記録が残っている。
(浮世絵「戸田の渡し」)
荒川には上流から下流までに68カ所の渡しがあった記録が残っている。
「戸田の渡し」上流から数えて64番目で、
すぐ上流の渡しは、「早瀬の渡し」と言い、
上杉氏が板橋の千葉自胤の赤塚城を攻めてきたときに渡った所だ。
「戸田の渡し」のすぐ下流が「浮間の渡し」と言った。
この渡しは、現在の板橋区の「小豆沢水上バス乗り場」であり、
ここから対岸の浮間までが「浮間の渡し場」で、
主に農耕作業用の渡しであったようである。
この渡しを運営する人たちは、年貢や助郷を免除されたと記録にある。
それでも春の桜の頃には、一般の人たちが大勢この渡しを利用した。
この地域から戸田に、そして戸田から秋ヶ瀬にかけての湿地帯に花開く、
さくら草見物に利用した。
前書きが長くなったが、浮間には昔からさくら草が自生していて、
見物客が大勢いたことが解る。
今でも浮間では時期になると「さくら草まつり」が開催され、
大勢の人が集まる。
2015年の今年も4月11日からサクラソウ祭りが行われた。
(さくら草)
(さくら草2)
(さくら草3)
(さくら草4)
(さくら草5)
(八重さくら)