楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

さくら草(浮間の渡し)

2015年04月28日 10時34分29秒 | ひとり歩き旅
江戸時代、旧中山道を京に向かう時、
最初の川は荒川で、ここは舟渡しであった。
荒川は文字通り荒れる川で洪水が多く、
特に下流域の朝霞から川下の氾濫原は、
増水すると川幅4kmに及ぶこともあったようだ。

中山道の「戸田の渡し」は、
川幅によって渡し賃が高くなった記録が残っている。
(浮世絵「戸田の渡し」)


荒川には上流から下流までに68カ所の渡しがあった記録が残っている。
「戸田の渡し」上流から数えて64番目で、
すぐ上流の渡しは、「早瀬の渡し」と言い、
上杉氏が板橋の千葉自胤の赤塚城を攻めてきたときに渡った所だ。
「戸田の渡し」のすぐ下流が「浮間の渡し」と言った。

この渡しは、現在の板橋区の「小豆沢水上バス乗り場」であり、
ここから対岸の浮間までが「浮間の渡し場」で、
主に農耕作業用の渡しであったようである。
この渡しを運営する人たちは、年貢や助郷を免除されたと記録にある。

それでも春の桜の頃には、一般の人たちが大勢この渡しを利用した。
この地域から戸田に、そして戸田から秋ヶ瀬にかけての湿地帯に花開く、
さくら草見物に利用した。

前書きが長くなったが、浮間には昔からさくら草が自生していて、
見物客が大勢いたことが解る。
今でも浮間では時期になると「さくら草まつり」が開催され、
大勢の人が集まる。
2015年の今年も4月11日からサクラソウ祭りが行われた。

(さくら草)

(さくら草2)

(さくら草3)

(さくら草4)

(さくら草5)

(八重さくら)




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東叡山 寛永寺と国立西洋美術館

2015年04月24日 09時02分35秒 | ひとり歩き旅
上野の花見の後、東叡山寛永寺を訪ねました。
東叡山とは比叡山に対抗して、東の叡山すなわち東叡山として、
上野一帯が東叡山寛永寺であることは前回書いた。

比叡山には中心となる根本中堂があるのに、
東叡山の中心となる建物はあるのだろうかと、訪ねた。

どうしてかと言うと、東叡山は維新前夜の上野戦争でほとんどが灰に化したからだ。
しかし、残っている部分もあるらしい。

国立博物館を右折してすぐ左手に
「東叡山寛永寺 開山堂」がある。
門をくぐると右手に阿弥陀堂があり、鐘楼がある。
正面にあるのが開山堂である。

(東叡山寛永寺 開山堂の門)

(門を入ってすぐ右に阿弥陀堂)

(鐘楼)
(東叡山寛永寺 開山堂)

(手洗場の竜)


開山堂の右手に輪王殿があるが、
輪王殿に行くには小さな木の門をくぐらなければならない。
この門は、明治の文豪幸田露伴旧宅の門で、谷中にあったものを移築したもの。
瓦葺の簡素な腕木門で、柱や梁、垂木など総て丸太造りで、
明治期のしもた屋(仕舞屋)の風情をとどめている。
露伴の代表作「五重塔」の主人公(のっそり十兵衛)は、
現在の寛永寺根本中堂を手掛けた大工の棟梁をモデルにしたと言われる。

(幸田露伴の腕木門)


(開山堂の右手に輪王殿)


輪王殿の前庭は広くとられていて、行事のある時の駐車場になるのであろうか。
その広場の先、露伴の腕木門の右手に黒塗りの門がある。
門と言っても出入り専用の門ではなく、
国の重要文化財になって展示してある門「寛永寺旧本坊表門」である。

(寛永寺旧本坊表門)


これは、台東区教育委員会の説明によると、
「江戸時代、東叡山には寛永寺の塔堂伽藍が整然と配置されていた。
現在の噴水地周辺に本尊薬師如来を奉安する根本中堂、
その後の国立博物館敷地内に本坊があり、
「東叡山の山主である」輪王寺宮法親王が居住していた。
慶応四年上野戦争で、
ことごとく焼失した輪王寺も表門だけ残った。ー後略ー」
東叡山には寛永寺と輪王寺があったと言うことか。

輪王殿を出て、国立博物館前を通り過ぎると、
旧因州池田家江戸屋敷の表門(黒門)がある。
これは元は丸の内の大名小路にあったが明治25年、
芝高輪台の常宮御殿の表門として移築された。
その後、高松宮家に引き継がれて、昭和29年現在地に移築されたもの。

(旧因州池田家屋敷表門(黒門)


黒門とは、その家のご主人が通る門である。
奥方が通る門は、赤門で東大の赤門で代表される。

さらに道路を進んで黒田記念館前の路地を右折し、
道に沿って左の方へ行くと寛永寺の前に出る。

(寛永寺)


正面に寛永寺の根本中堂が見え、左手後方に大きな「施無畏」の石碑が見える。
本来の根本中堂は、上野戦争で焼失してしまったので、
現在の根本中堂は、川越の喜多院から移築したとの事。
根本中堂の正面に扁額が架かっていたが、何と読むのかずいぶん苦しんだが
「瑠璃殿」と読んだ。帰って調べた所やはり瑠璃殿で正しかった。

(根本中堂)

(根本中堂の正面)


(根本中堂「瑠璃殿」の扁額)

(施無畏の石碑)


この石碑の「施無畏(せむい)」も読むのに苦しんだ。
「施無畏」というのは、文字通りに考えれば
「恐れを施さない→危害を加えない」と言う意味だろうか、
観世音菩薩の別名のようだ。

根本中堂の右側に、焼失した前の根本中堂の鬼瓦が残っていたが、
かなり大きく立派なものであった。
その前にお墓が一つあるが、これは優れた陶工「尾形乾山深省蹟」と書かれてある。
尾形乾山の焼き物は、「深省」の落款がある。

(尾形乾山深省碩と供養塔)

(元根本中堂の鬼瓦)


さて、人波に疲れて帰ろうとしたら、のぼり旗
「国立西洋美術館 世界遺産登録へ推薦決定」が春の風に揺れている。
美術館そのものが世界遺産とは考えにくい。
世界遺産に登録推薦されるのは、松方コレクションか、ルノアールの絵画か、
或いはロダンの彫刻群か、美術品が世界遺産?・・・頭をひねってみたが、
つたない頭では解るわけがない。

久しぶりに、西洋美術館の前庭のロダンでも見て帰ることにした。
ここまでは入っても無料で、世界的に有名なロダンの彫刻が見られる。

「弓を引く人」彫刻だけは、エミール・アントワーヌの作であるが、
他はすべて オーギュスト・ロダンの作である。

それではどうぞ!

(国立西洋美術館)

(考える人)

(カレーの市民)

(地獄の門)

(アダム)

(イヴ)

(弓を引く人、これだけエミール アントワーヌの作)

(西洋美術館2)


帰宅後調べた所、国立西洋美術館はフランスを代表する建築家によるもので、
フランスが世界にまたがる建築物群を世界遺産に登録申請していることが分かった。

ロダンのアダムとイヴの像、恥ずかしそうに顔を隠しているように見える。

神は、最初にアダムを造った。
その後イヴを造ったが「禁断の木の実」を食べてからは、
お互い裸であることを恥じることを知った。

このアダムとイヴの像は「禁断の木の実」を食べた後のように思える。

コメント (8)
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赤塚公園周辺のニリン草(板橋十景)

2015年04月21日 08時57分35秒 | ひとり歩き旅
ニリン草は、板橋区の花である。
板橋区のマスコットは区内からデザインを募集して決まった。
名前を「りんりんちゃん」と言う。

(マスコットのりんりんちゃん)


この(りんりんちゃん)の命名は、
もちろんニリン草からヒントを得て作ったものである。
そのニリン草は、板橋区の赤塚公園の崖下や
志村坂上から坂下に向かう崖下の湿地帯に群生して、
さくらの時期にやや遅れて満開になる。

(ニリン草)

(ニリン草の群生地)

(ニリン草の群生地2)

(ニリン草の群生地3)




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南蔵院のしだれ桜と志村の一里塚(板橋十景)

2015年04月17日 09時12分34秒 | ひとり歩き旅
(しだれ桜)

板橋区の住民が区内に残したい景観・イベントを選んで投票した。
上位に入った景色の佳い所・残したいイベント十カ所を「板橋十景」とした。
(板橋十景の碑)


1.板橋(旧中山道仲宿を流れる石神井川に架かる橋)
2.石神井川の桜並木
3.しだれ桜の南蔵院
4.にりん草が咲き、梅林がある赤塚公園周辺
5.志村の一里塚
6.松月院
7.東京大仏(乗蓮寺)
8.高島平団地のケヤキ並木
9.板橋花火大会
10.田遊び(徳丸北野神社、赤塚諏訪神社)

の板橋十景である。

その内、板橋と石神井川のさくら並木と梅まつりの赤塚公園はすでに紹介した。
今回は「南蔵院のしだれ桜」ではなく「しだれ桜の南蔵院」と
「志村の一里塚」を紹介する。

(南蔵院入口)


このお寺は「宝勝山南蔵院」と言い真言宗豊山派のお寺で、
しだれ桜と庚申塔としては珍しい地蔵尊の形をした庚申塔があるので知られる。
(本堂)


(地蔵尊の庚申塔)

(本堂の階段上から見た地蔵尊)

(しだれ桜)

(本堂前から見た南蔵院)

(しだれ桜)

(阿弥陀堂前の菊桃)

(南蔵院入口の菊桃)


志村の一里塚は、旧中山道で日本橋から第三番目の一里塚で、
ほぼ完全な形で残っている左右両側にある一里塚。
脇にある荒物店も古いもので、一里塚といつも一緒に紹介され、
板橋の「町並み景観賞」を貰っている。

旧中山道上にある国の史跡に指定されている一里塚は二つあって、
一つは岐阜県にある「垂井の一里塚」、一つは「志村の一里塚」であるが、
「樽井の一里塚」は街道に面して一つしかなく、
左右両方に一対である一里塚は志村の一里塚である。

前にほぼ完全な一里塚と書いたが、一里塚を造るに当たっては、
家康から「塚の上にエノキを植える様に」と言われていたのを、
忠実に守られて残っているからだ。
今残っている一里塚には松の木や、桜、ケヤキなどが植えられている。

一里塚が単体で板橋十景に入っているのは、こうした背景があるからであろう。
(志村の一里塚)


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板の橋=板橋→板橋区(板橋十景)

2015年04月10日 10時22分49秒 | ひとり歩き旅
板橋区の地名になった由来の橋は、
もともとは板でできた橋であった。

(一つ先の橋から見た板橋)


これが板橋宿に架けられていた橋である。
頼朝の時代にも、安房に逃れた後、
頼朝が兵を集めて集合した場所(義経記)として知られるし、
井伊直弼を桜田門で討ち果たした水戸の浪士が、
この板橋を渡って中山道を逃れたことでも名を残している。

幕末には、皇女和宮が江戸幕府の徳川家茂に嫁いでこの橋を渡り、
西洋砲術演習を披露した高島秋帆もこの橋を通過した。

北陸新幹線が開通した金沢の加賀藩下屋敷は、
板橋宿の北に約二十二万坪を占めていて、
参勤交代の時は、江戸に入る手前で、旅の疲れと埃を払い、
身支度を整える場所にもなっていた。

板の橋には関係ないが、間もなくの四月二十五日。
新選組の組長 近藤勇が板橋宿の外れで処刑されていて、
土方歳三が造ったお墓が残っている。
地元の人たちにより、この日に盛大なお祭りが催される。

そんな板の橋=板橋は、
今や桜の名所となっている。
下を流れる石神井川に沿って、飛鳥山のある王子まで、
石神井川の両岸には、びっしりソメイヨシノが植えられている。

日本橋を起点に中山道第一番目の宿場町、
板橋宿までの距離は二里二十五丁三十三間。(十㌔六百四十二米=10.642m)
板橋宿は三つの宿場からなっており、日本橋から平尾宿、仲宿、上宿となる。
今は東京に向かって上ると言うが、昔は京に向かって上ると言ったため、
京都側に近い宿を上宿と言った。

板橋宿の長さは平尾宿から上宿の外れまで2.2kmあり、
本陣は仲宿に脇本陣と共にあり、平尾宿と上宿にも脇本陣があった。
仲宿の本陣・脇本陣は共に飯田さんが、平尾宿の脇本陣は豊田さん、
上宿の脇本陣は板橋さんが運営していた。
中山道 江戸から京都までの間で、板橋宿は最大の宿場であった。

(板橋=板に見せかけたコンクリートの橋)


この橋を境に、後ろが仲宿、橋を渡った先が上宿となる。
板の橋の脇には高札場があり、旅人は笠を取って高札を読んだと言う。

(仲宿の商店街)

(石神井川の桜(ソメイヨシノ)

(花いかだ)

(真っ白にみえる石神井川の花いかだ)

(石神井川の桜2)

(石神井川の桜3)

(元加賀藩下屋敷内にあったので加賀さくら橋)

(加賀藩下屋敷内を表している地名加賀二丁目)

(兼六園をまねた(?)石灯篭=琴柱灯篭「ことじとうろう」)




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