楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

インド独立の父ガンジーの墓―ラージガート(インド紀行最終章)

2021年02月27日 04時31分06秒 | 海外旅行1
(インド独立の父ガンジーの墓―ラージガート)
 
ネパールはインドと違って、
街の雰囲気ががらりと変わると、前回書いた。
お釈迦様の生誕地として、観光地であるのに、
しつこい物売りに悩まされないし、
物乞いにも出会わなかった。
 
第一国境を越えて入国するのにごく簡単に終わったことだ。
検査官がバスに乗り込み、
ひとりひとり眺め回してパスポートを預かっていき、
検印してすぐ返してくれた。
観光客はバスに座ったままですんだ。
観光地であるから、みやげ物やがずらりと並んでいるが、
しつこく買ってくれと、付きまとわない。

公衆便所を使ったが、
出口にチップを入れる箱が置いてあり、
その中に0.2ルピー入れれば事は足りる。
その箱の前には、トイレ掃除をする子ずれの女が、
一人が用を足すたびに、トイレ掃除をするのである。
この仕事で給料を貰っているのか知れないが、
用を足し出てきた人にチップを要求して手を出すわけでもない。
インドとは様子が違っていた。
 
(トイレ前の子供)

英国植民地から独立を果たしたインドを、
マハトマ・ガンジーを差し置いて語ることは出来ない。
今、世界で民族が独立を果たそうとすると
血みどろの戦いが想像される。
インドの独立を勝ち取ったガンジーは、
ハンガーストライキを実行して、
(水は補給したが、絶食ストライキを決行)
無血で英国からの独立を成し遂げた。
 
(ガンジーと九人の弟子たち像)
 
インド独立の父としてインド人から尊敬を集めている。
「インドが誇る偉人です。」と
ガイドさんは本当に誇らしげに胸をたたいた。
 
ボクが
「世界の偉人ですよ」
とヤジを入れると、
 
ガイドさんは照れ笑いしたのが印象に残っている。
続けて「ガンジーはノーベル平和賞を貰いました?」と聞いたら、
ガイドさんから「貰っていない」と首を振った。

ガンジーほどの偉人がノーベル賞を貰っていないのは不思議で、
後で調べてみると、
ノーベル賞の受賞を三回も断っていることがわかった。
 
どこかの国で、「○○○エー森」とかの小説で
ノーベル賞の時期が来ると、こんどこそ自分が受賞するとばかり、
衣装まで取り寄せて待っていた人とは
(これはこれである意味立派な人であるが)
やはり人格が(ガンジーと比較するのが)違うように思える。

もともとヒンズー教が圧倒的多数のインドでは、
死後は火葬されガンジス川に流されるため、
お墓が見当たらない。
(仏教徒のお墓はあるが、仏教徒は全人口の2%に過ぎないというから、
 ほとんどないに等しい)

しかし、皇帝や王様などの墓は、記念碑として残されるという。
デリーの中にある広大な公園の一角に
ガンジーの記念碑はある。
 
(ガンジーの記念碑があるラージガート)
 
(ガンジーの墓)
 
広場の中央にある四角の記念碑は、
中央から途絶えることのない火が灯し続けられ、
ガンジーの業績が輝き照らし出されている。
ガンジーを慕う人々が絶え間なく訪れ、
手を合わせて帰っていく。
 
(ガンジーの墓を訪ねるインド人の流れは絶えない)
 
記念碑の前で写真を撮っているのは、
観光客ぐらいしかいない。
 
この公園に来てから気づいたのは、
あれだけしつこく付きまとった物乞いや
物売りが見当たらなくなったことである。

どうしてであろうか?
ガンジーの偉業をたたえる場所には、
物売りも物乞いも偉大な功績に圧倒されて、
手出しするのに尻込みしているのであろうか?
立ち入り禁止のお触れでも出ているのだろうか?
 
不思議である。

この旅は、
玄奘三蔵を偲び、
釈尊を偲び、
ガンジーを偲び、
毎日をどのように生き延びようかと
必死にもがくインド人を偲び、
わが身になぞらえて、
「生きる」を訪ねる旅になった。
 
(シバ神像)

(なお、ヒンズー教の神様、
シバ神像の石像をご覧になりたい方は、
東京都港区新橋にある松岡美術館を紹介します。
数点のシバ神像の石像をご覧いただけます。
シバ神像が手にもつゴム印のようなものは、
下部の板の部分は女性性器を現し、
柄の部分は男性性器を表現しているといいます。
美術館でシバ神像をよくよく見ると、
女性の裸身を抱き、
時には左手で乳房を持つエロティックなものもあります。
性行為を神聖なものとして表現、
あるいは子孫繁栄を願う霊験あらたかな
神様として表現したのか。)

長々と13回に亘り「インド紀行」をご覧いただき、
ありがとうございました。


コメント (12)
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生きるを訪ねて―釈迦の生誕地(インド紀行12)

2021年02月20日 04時29分24秒 | 海外旅行1
(釈迦生誕地のルンビニ)
 
(釈迦生誕の地 ネパールのルンビニ)

毎年春になると四月八日の花祭りの時期が来る。
子供のころ、悪がきが少しは精神修養になるだろうと
通わされた日曜学校でも、
このときはお釈迦様の像の足元に花飾りでびっしり埋めて、
頭からお茶をかけるお祝いをした。
黄金のお釈迦様像は、片方の手を天に向け、
一方の手で地面を指している。
釈迦生誕後すぐ歩き「天上天下唯我独尊」と言ったといわれる。
その姿である。
 
(生まれた直後の像)
 
そのお釈迦様が生まれた地が、
ネパールのルンビニというところである。
訪問の順序が逆であるが、
この旅の最後の訪問地が釈迦の生誕地となった。
インド国境からネパールに入るのであるが、
街の雰囲気ががらりと変わる。
 
インドでは沢山の人がうようよしており、
生活のために右往左往して、落ち着きがなかったが、
国境を越えてネパールに入ると、人の数が格段に減り、
人々も落ち着いてゆったりした行動をとっているように思えた。

史跡は大きな建物で覆われ、
室内に入ると日干し煉瓦の土台跡が見渡され、
その一角に生まれてすぐ歩いたという、
子供の足跡がガラス箱に囲まれて展示されていた。
 
この場所にお釈迦様が立ち、
天と地を指差して「天上天下唯我独尊」といったというが、
にわかには信じられない。
 
(生誕直後の足跡)

「天上天下唯我独尊」というと、
 
その解釈をこの何十年もの間、
 
「この世で我のみが、もっとも尊い人間だ」
 
という意味だと思っていた。

しかし、仏教学者のガイドさんの解説に寄れば、
「この世で、われわれ人間はそれぞれお互いに、
かけがえのない尊い存在である」と解釈されると言う。
 
人間の尊厳を表したものである。

考えてみれば、お釈迦様として後世に残る教えを説いた人が、
「俺が一番偉い」なんて云う訳が無い。
 
ガイドさんの言うとおりだと思った。
 
外に出ると空は晴れ渡り、
東のはるかかなたには、世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈が、
冷厳な白い姿を見せている。
釈迦が生まれた建物の回りに聳える巨大な菩提樹の葉陰で、
修行僧が瞑目し、赤い僧服を身にまとい、
一心に読経していたのがとても印象的であった。
 
(巨大な菩提樹)
コメント (8)
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祇園精舎の鐘(インド紀行11)

2021年02月13日 04時27分03秒 | 海外旅行1
(祇園精舎の鐘)
平家物語の冒頭、
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり...」の祇園精舎は、
釈迦が説法を行ったところで、
ここで釈迦は24回の雨季を過ごしたとの説明を受ける。

インドで雨季とは年間何回あるのであろうか?
年に一回であれば24年いたことになるが...
今は、綺麗に整備された公園の中に、
祇園精舎の跡が残っているが、仏教徒の聖地として、
信者の訪問が絶えない。
 
(祇園精舎の跡)
(祇園精舎、釈迦が説法をした中壇)
 
バラやそのほかの花びらが、
祇園精舎のレンガの上に敷き詰められて、
足の踏み場もない。
この日も、沢山の仏教徒や修行僧の訪問があり、
干からびた花びらは、
捨てられ新しい花びらが敷き詰められていく。
橙色の花びら、赤い花びらがびっしりと敷いてあり、
神聖な場所のイメージを強く感じる。
 
(釈迦が説法した最上段、赤いバラの花が敷き詰められている)

後方に、途中まで発掘した祇園精舎が続くが、
これは関西大学の教授が、
これ以上発掘しても意味がないと止めたという。
広大な敷地を掘り進めれば、
まだまだ広がりを見せることを容易に想像できる。
 
(掘り進めて広すぎたため止めた祇園精舎の跡)

しかし、日本人には有名な祇園精舎の鐘は、
見渡しても見当たらない。
祇園精舎の跡地に立てば、
どこかから聞こえてきそうに思える。
 
ごぉぉ~~んんん・・・・
 
しかしどこからも聞こえてこない。

祇園精舎を後にして帰路に向かう途中、
ちょっとした林の中にその鐘はあった。
 
(祇園精舎の鐘)

観光バスを止め、
鐘楼まで数十メートルの脇道を入ったところにそれはあった。
 
この鐘は祇園精舎の鐘ではあるが、
昔のものを再現したものでなく、
 
何のことはない、
平家物語の冒頭にある文章に魅せられた経済大国の小金持ちが、
やむにやまれず、寄付した鐘であるということであった。
 
(鐘を突きに集まる人達)

それにしても、やはり日本人ツアー客は競って、
その鐘を鳴らしに鐘楼を昇ったのは云うまでもない。
もちろんボクも鐘を突きに鐘楼を昇った一人である。

ごうお~~~んんんん~~~~!

夕暮れの平原に響き渡る鐘の音は、
寂しい「諸行無常」の響きが伝わっていた。
 
 
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釈迦入滅の地クシナガルと沙羅双樹(インド紀行10)

2021年02月06日 04時25分45秒 | 海外旅行1
(釈迦入滅の地クシナガルと沙羅双樹)
平家物語の出だし、
 
「―――沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす...」
 
は有名であるが、
この沙羅双樹というのはシャラの木をさし、夏ツバキの別名。
夏の時期に、沢山の美しい白い花をつけ、見事に咲いたかと思うと、
椿の花のようにぽとりと、あっけなく花が落ちる。
沢山咲いて、またたく間に沢山落ちていくので、
木の根元に雪が積もったように白く見える。
この様子をさして、
「盛者必衰の理をあらわす」と述べたに違いない。
なるほど、「おごれるもの久しからず」である。

このシャラの木が二本、
釈迦が入滅した場所の両側に植わっていたという。
そのためであろう、
日本では寺院の本堂の入り口の左右に植えられていることが多い。
つまり本堂は極楽浄土を意味し、
その入り口には沙羅双樹が植えられているということになる。
 
(ニルバーナ寺院)

最近、会社の正門前の左右に、
このシャラの木が植えられているのを見かけるが、
(神聖なる場所に入る)を意味しているのであろうか?

さて、副題に(釈迦入滅の地)と書いた。
この文字をはじめて見たとき、
「入滅」とはどんな意味なのか疑問を持ったが、
そのままにしておいた所、
今度は、「釈迦が涅槃に入った...」
という文章に出会った。
「入滅」も「涅槃に入る」も同じ意味と思った。

普通の言葉に直せば、
「死亡」の難しい表現であろう事は推測できたが、
どうもスッキリしない。
そこで今回初めて辞書を引き、はっきりさせることにした。

広辞苑(第四版)によれば、
【涅槃=(梵語)ニルヴァーナ
   =吹き消すこと、消滅の意。
   ・煩悩を断じて絶対自由となった状態。
   ・仏教における悟り。
   ・入滅。
   ・ブッダまたは聖者の死。
 
「入滅」=涅槃に入ること。
     釈尊の死。
 広くは高僧の死をいう。】とある。

つまり涅槃も入滅も同じ意味を持っているということが判った。
普通の人間なら「死亡」ということである。
クシナガルの地に釈迦が死んだ場所があり、
そこをニルヴァーナ寺院という。
全部日本語で書けば「涅槃堂」ということだ。
 
 
この堂の中に巨大な釈迦の涅槃像が横たわっており、
中では読経の見事な低音の声が響いていた。
音を表現できないのが残念である。
 
(横たわる釈尊像)

カメラを向ければ、10ルピーといわれるが、
お布施であるから出しても出さなくても良いとは、
ヒンズー教の信者であるガイドさんの話。

その寺院の裏手に、釈迦の遺骨を納めたストゥーパ(卒塔婆)があり、
左右に沙羅の木があったとされるが、今は違う木が植えられている。
(注:ストゥーパは、記念塔、供養塔、仏舎利塔、墓を意味する)
 
(写真が下手で分かり難いですが、中央が釈迦の墓)
 
両側に沙羅双樹の木が立っていた所に今は違う木が植えてある。 

ところで、釈迦の命日は何時だったのか気になったので、
ガイドさんに聞いてみた。

「日本では何時になっているのですか?」
と逆に質問を受けた。
実はこのガイドさん、最初に紹介されたとき、
仏教学をデリー大学で学んだ仏教学者と紹介されていた。

「インドでは死亡時期については不明とされています。」という。
それが正しいのかもしれない。

ボクが知っている範囲では、
西行法師が詠んだ有名な歌に、

・ねがわくば 花のもとにて 春死なむ
          そのきさらぎの もちづきのころ
 
というのがあって、
その意味は
「どうせ死ぬのなら春の桜が盛りの旧暦2月15日ころに死にたいものだ、
釈迦様みたいに」といっているから、

「日本では2月15日ということになっています」と答えたら、
「ああそうですか」と言ったいた。
本当のところは、果たして何時なのであろうか?

また疑問が増えてしまった。
やはり勉強は死ぬまでついて回るらしい。
 
 
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霊鷲山、竹林精舎(インド紀行9)

2021年01月30日 04時24分14秒 | 海外旅行1
(霊鷲山、竹林精舎)
孫悟空でおなじみのお坊さん、玄奘三蔵法師が、
皇帝に当てた手紙の中で、
霊鷲山、竹林精舎を訪ねたと書いているが、
霊鷲山の山頂は、釈迦が弟子達に自分が悟った真理を説いた聖地であり、
「竹林精舎」は、釈迦が長い期間滞在した場所である。
 
(竹林精舎)
 
(竹林精舎横の池)
 

これらの場所は、沢山の観光客、仏教徒が訪れるためか、
土産物屋が並び、いつものことであるが、
観光客一人に物売りが一人ついてうるさく感じる。
この物売りが、入れ替わり立ち代りしつこくアプローチしてきて閉口する。
 
(霊鷲山の山頂までの道のり)

霊鷲山の山頂までの道のりは比較的なだらかで、
じわりと汗ばむが、
修行僧とすれ違ったり、
野生のサルに出くわしたり、
途中で土産物屋さんに呼び止められたり、ただ昇るだけでなく、
変化があって、健康であれば昇ることはたやすい。
上り下りの間中しつこく物売りがついて歩くのが煩わしいだけである。
 
(野生の猿)

山頂の一角が仕切られており、
今にも崩れそうな聖地を思わせる土台だけが残っているが、
その場所からの見晴らしは、さすがに神々しく感じられた。
ちょうど夕日が山上にきており、その美しさは、
釈迦の時代も今も同じだったろうと感激した。
(残念ながら写真が無い)

その山のふもとに竹林精舎はあるが、
時の王が、釈迦の教団に寄進したもので、
今では塀で囲まれた美しい公園になっている。

竹林精舎の近くに日本山妙法寺があり、
今から80年前の1936年に、釈迦の一生を描いた壁画が、
日本人により描かれている。
仏教を修行する人たちの宿泊所も備えており、
ボクたち日本人観光客が訪れると、
お茶の接待にあずかった。
 
(日本山妙法寺の鐘)
 

住職が在宅であれば説法が行われるというが、
残念といおうか、助かったといおうか、
あいにくお留守で、不謹慎であるが、
ホッと胸をなでおろし安堵したのはボクだけでなく、
ツアー客全員同じ思いであったに違いない。

日本人の仏教への関心は、およそこんな程度である。
以前カンボジアのアンコールワットを訪ねたとき、
 
20歳前後の女性ガイドさんから、
 
「日本は、大乗仏教ですか、小乗仏教ですか?」
 
と問われたとき、ハタと困った。
返事が出来ないのである。

ボクは、15歳のとき弟を失い、
母を22歳で、父を翌年の23歳で亡くし、
当然仏式で葬式を行ったが、
ただ仏式で行ったというだけのこと。
 
仏教については、悪がきだった小学生のころ、
精神修養をかねて隣の家の日蓮宗のお寺の日曜学校に行かされた。
我が家の宗旨は、浄土真宗であったが、
そのお寺で、毎日曜日、
日蓮宗の法華経を朗読させられたことぐらいしか、
仏教についての知識がない。

二問中一問を選択する問題であるから、
間違っても旅の恥はかき捨てと、「小乗仏教」と答えたら、
 
「ブ~~、大乗仏教です」と馬鹿にされた。

ボクを含めて、
およそ日本人くらい宗教にうとい人種は世界に少ないとされる。
 
姪がアメリカに留学して、教授から、
「日本人は何故宗教に弱いのか」の題で、
レポートを出し発表する様に、宿題が出たくらいだ。
 
姪は、解らないので母親に訊ねたら、
母親(ボクの姉)はボクに聞く様にと答えた。
ボクはこの時、恥を掻いた後だったので、
しっかり勉強していた。
解りやすく説明してあげた結果、
姪は、このレポートで95点の合格点だったという。
「不足分の五点は何ですか?」と聞いたら、
彼女の英語力だと言う。
子供に解るように教えたのが、帰って良くなかったらしく、
レポートが幼稚であると言うことだったそうな。
 
話が脱線してしまったが、アメリカ人には、
いえ、世界の国々の人には、日本人の宗教観は、
こんなもんだと思われているのが現実である。
 
日本人の宗教は、
正月は神社に初もうでし、
キリスト教のクリスマスを祝い、
8月は仏式のお盆休み、
そのうちラマダンの断食をして日が落ちると、
ご馳走をたらふく食べてドンちゃん騒ぎのイスラム、
そして都合が悪くなると
「それは神の思し召し」とばかり
「インシャ・アッラー」といいかねないのである。

カンボジアから帰国後、仏教について、
それなりの勉強を試みた。
徹底して勉強した後、今までの不謹慎で、
罰が当たったのか、
すぐ上の姉が亡くなり、長姉が夫を失い、
いずれも仏式で葬式は営まれた。
それにしてもいろんな疑問をいだき、よく勉強した。

みなさん!
次の問題に答えられますか?
真言や天台はなぜ仏教なのに密教というか?
お経には何が書かれているか?
大乗と小乗仏教との違いとか?
そして法然が説いた浄土宗でいう南無阿弥陀仏は
どういう意味を持っているか?
また、親鸞が説いた浄土真宗でいう南無阿弥陀仏とは
どう違うのでしょうか?などなど...
 
(祈る仏教の修行僧 1)
 

(祈る仏教の修行僧 2)

脱線してしまったが、
インドから中国を経て、朝鮮から日本に伝わった仏教については、
ボクが考えるよりもっと奥深いものがあることを、
噛み締めている現在である。
そしてインドの仏教聖地を訪れる修行僧の祈りの声と、
彼らが持つ澄んだ瞳には、誰をも寄せ付けない、
奥深い仏教への帰依が伺われた。
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