ひげ爺の独り言

髪が薄くなり髭はごま塩の「ひげ爺」、旅行会社を定年退職して16年。 高齢となって転居した大宮での隠居ぐらしを投稿します。

郷土北川辺と田中正造翁

2012-11-27 09:07:57 | 地域活動・つながり

24節気の小雪ながら穏やかな日、同年代の男グループが地域の史跡を巡った。
故郷がどこであれ、そこに人の営みがある限り歴史があり足跡が残されている。
くしくも今年は、渡良瀬遊水地がラムサール条約に登録され、その遊水池の歴史
に大きな関わりを持った田中正造翁の99年忌(来年が没後100周年)にあたる。
翁のお墓の一つが北川辺にあり、今回の史跡訪問の最初に敬意を持って訪れた。
田中正造翁は、その一生と私財を鉱毒防除と被害者救済活動に投じた人である。
そのお陰で北川辺地域は廃村を免れ、地域が存続し 現在があると言っても良い。

正造翁は現在の栃木県佐野市に生まれ、県議を経て明治23年の第一回衆議院
選挙に当選し連続当選していたが、足尾銅山の鉱毒流出によって下流地域で作
物の立ち枯れ被害が発生すると、被害民の救済と政策の転換を政府に訴えた。
さらに流域の農民たちは、「大押出し」と呼ぶ陳情デモを実行し警官隊と衝突した。
しかし政府が産業振興を優先して解決を図らないとの思いから、田中正造は明治
34年1月、国会での大演説を残し議員を辞し一身を賭して天皇に路上直訴した。
時の政府は、問題の解決を計るため鉱毒調査委員会を設置して協議したが、その
結論とは公害問題を治水問題にすりかえた「廃村による遊水池化構想」であった。

その翌35年の秋、北川辺では利根川筋の堤防が決壊し全域が水浸しになった。
遊水池構想を持っていた政府は、堤防の補修を意図的に行わず 放置する姿勢を
とったため、北川辺(当時は利島村・川辺村)の村民は、田中正造翁の支援を受け
て協議会を立ち上げ 村民大会を開催。国の堤防補修がなければ村民が自前で堤
防を築くこととし、その代わりに納税と徴兵の二大義務も負わないことを決議した。
この事から政府は、この地の遊水池化を断念 谷中村中心の規模に縮小変更した。
現在の渡良瀬遊水地は、この時の変更に沿って造成され改修されたものになる。
「遊水地には 鉱毒被害 農民運動 谷中村廃村の歴史がある」と、ひげ爺の独り言。
田中翁没後100年の来年には、地域として何らかの行事を行うことになるだろう。

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初冬の渡良瀬遊水地を巡る

2012-11-20 08:38:35 | 地域活動・つながり
加須市が主催する生涯学習セミナーが、渡良瀬遊水地をテーマにして行われた。
そのセミナーは、ラムサール条約登録「自転車で巡る渡良瀬遊水地:遊水池の歴
史と役割(治水・利水)、自然について」と題するもので11月15日に開講した。
今回は渡良瀬遊水池の概要と、ラムサール条約登録の意義を学ぶことになった。
参加者は本庁舎からバスで北川辺総合支所に移動し、用意された自転車に乗り
かえて現地にある「国土交通省渡良瀬遊水池出張所」まで走ることから始まった。

地域の活動組織「北川辺まちづくりの会」は、遊水地とも関わりを持ってきた経緯
から このセミナーに参加することになり、私を含めた会員8名が現地で加わった。
私は自宅から約6キロ先の出張所まで自転車を25分漕いで駆けつけたが、その
道は所によって強い西風にさらされるなど、寒さを忘れる良い運動になった。
先ず国交省の遊水池出張所で、利根川と流路の歴史や渡良瀬遊水池の概要に
ついてのビデオを見た後、アグリ財団の講師から遊水池の役割機能やラムサー
ル条約との関わりについて説明があり、さらに参加者との質疑応答が行われた。

続いて自転車に乗り、講師の誘導と説明を受けながら遊水地内の見学を行った。
地元の私達には承知のことなので、交通整理や補助的説明などをして協力した。
第一排水門と越流堤、次ぎにハート湖の南岸から中之島、さらに野鳥観察台から
旧谷中村史跡、ウオッチングタワーから葦原を見て下宮橋に戻り出張所に帰った。
気温がやや低く風は強かったものの、晴天に恵まれて予定通り日程を消化した。
「自転車に乗って、あちこち見てまわる忙しい半日になった」と、ひげ爺の独り言。
回ったのは自転車だけでなく、 参加者達の 目も口も頭も上手く回っていたようだ。
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秩父札所めぐり 第三回目

2012-11-13 09:16:49 | 旅行・秘湯・巡礼 
立冬翌日の11月8日、家を8時に出発し 秩父の札所を目指して車を走らせた。
穏やかなお天気のもと、紅葉を期待して秩父の最奧にある三峯山まで直行した。
三峯は「かみさん」が初めてと言うので、神社の参拝を日程に加えることにした。
秩父湖から標高が上がるにつれ、道路に沿ったモミジが鮮やかに色づいていた。
三峯神社を参拝して道を戻り、途中 旧荒川村の老舗で「新そば」の昼を摂った。
秩父の市内に戻り、内緒の所に車を停めて二人で歩く観音霊場めぐりとなった。

気温は20度、セーターの上からリックを背負い 袈裟と数珠を掛けての旅姿に。
まずは15番札所少林寺。防火対策からの漆喰塗り土蔵形式の建物は珍しい。
古い街中を歩いて13番札所慈眼寺、雨と飴と眼をかけて「あめ」を売っていた。
町中をジグザグ歩いて14番札所に向かう。途中の今宮神社に立ち寄り樹齢千
年の大ケヤキを見てから札所、そこは明治の廃物希釈の影響を受けた今宮坊。
さらに北に向かい16番西光寺へ、その寺は我が家と同じ真言宗豊山派だった。
いずれも街並みにあるので、境内は狭く建物は小さいものの彫刻が素晴らしい。
東にやや上りの道をとり、秩父神社を見ながら車に戻り徒歩のコースを終わる。

時刻は3時半で万歩計は9400歩、コーヒー店で一息ついて少し買い物をした。
そのあと車で少し走って、帰り道の脇にある18番札所の神門寺に納経をした。
神門(ゴウド)と言う珍しい寺名は、修験道を通じて神社と関わりがあったらしい。
神社と言えば、今回は三峯まで行ったので日の短い中で時間を大分浪費した。
「でも山奥の神社には、『山の神』を感じさせる威厳がある」と、ひげ爺の独り言。
私のかみさんは 奥山の『山の神』でもなく、家内と言っても『おっ家内』でもない。
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今年の柿は形も味も悪い

2012-11-06 09:17:14 | 家庭菜園・庭・花 
我が家には柿の木が3種類3本あり、先月末からそれぞれ収穫をはじめている。
しかし今年の柿は、いずれの品種も実形がやや小さく甘味も例年より弱いようだ。
夏の少雨と猛暑のためか、はたまた 厳しかった残暑の影響なのかは判らない。
・・とは言え、折角の柿をヒヨドリなどに狙われてはと 糸を張って鳥除けしている。
まず私が好きな甘柿は次郎柿、硬めの肉質で歯ごたえがあり甘さも一番の品種。
その昔、何処かの「次郎吉」という人が栽培をはじめた事に由来する名前らしい。
弱点は熟すと実の表皮中心が裂けて割れるため、見映えが悪くなることである。

次ぎは百目柿で、果実が大きく百匁目(375g)あることから名がついたと言う品種。
この柿は基本的には渋柿ながら、時には一部の実が甘柿に変身する「不完全な
甘柿」と言う品種で、果実の尖端に渦巻き状の模様が出来ると甘柿になってくる。
今年の百目は変身が期待できず、「樽抜き」と「干し柿」で食べることにしている。
先月の27日に初収穫した25個を、焼酎で「樽抜き」して食べたり配ったりした。
先週末にも第二回目を収穫し、上手く渋抜きができれば親戚にも届けようと思う。
その後は全量を収穫し、皮を剥き吊して 「干し柿」 にすれば12月に食べられる。

残る1本は 20年前に「種なし身しらずの甘柿」との能書きを信じて植えた木なの
だが、それは種のある甘柿だった。 思えば、種なし柿は渋柿が常識なのだった。
形も肉質も「柿の王様」富有柿なのだが、その柿が今年は形が小さく甘味も弱い。
結局はどの柿も例年ほど甘くはなく、渋抜きをした柿が一番甘い柿と言えそうだ。
「柿を甘くするのは、種もあれば仕掛けもあっての事になる」 と、ひげ爺の独り言。
糖尿病で甘い物を控えている私には、食べる気にならない今年の柿が丁度よい。
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