ひげ爺の独り言

髪が薄くなり髭はごま塩の「ひげ爺」、旅行会社を定年退職して16年。 高齢となって転居した大宮での隠居ぐらしを投稿します。

街なか散歩14〔古河宿②〕

2017-12-19 09:02:31 | 旅行・秘湯・巡礼 

本格的冬を迎え 朝の寒さは厳しいが、16日の日中は風のない穏やかな日であった。
前回は宿場町筋を散策したが、今回は 古河に残る城下町の風情を訪ねて歩いてみた。
長谷町の古河市駐車場に車を留め、毎年元日にお参りをしている「長谷寺」を参拝
この寺の本尊である観音像は、奈良と鎌倉の長谷寺の観音像と同じ一本の楠から刻ま
れたと伝えられ、寺格には 大差があるものの「日本三大長谷観音」と自称している。
南に6分歩くと「蓮池山一向寺」、鎌倉時代の健治2年(1276)創建という古刹である。

東から 北に向かうと「鷹見泉石記念館」として保存している武家屋敷があり、石を
多く配した庭と茅葺屋根の母屋からは、幕末の江戸家老 鷹見泉石の遺徳が偲ばれる。
隣向いは 古河城の出城「諏訪曲輪」跡で、その一角に建てられた「古河歴史博物館
には、許我(こが)をはじめとする古河の歴史や 古河城の概要などが展示されている。
その隣地には 木造の「古河文学館」があり、郷土に縁のある文学者を紹介していた。
北に少し進み 出た江戸町通りを左折すると、「篆刻美術館」「古河街角美術館」に
続いて「永井路子旧宅」があり、いずれも 町屋や石蔵の趣を残した展示をしている。

その先で右折した路地先に「隆岩寺」があり、その少し北側で 武家屋敷の趣を残す
杉並通りに出て、その東角にある「割烹山水」のレストラン「杉並」で昼を摂った。
道を西に取り 間もなく左折し南に向かうと、右手に城主土井家の墓所「正定寺」
あり、その先の江戸町通り(坂通り)を右折し 少し先の右にある「永井寺」を参拝。
南に向かう細道を歩き、「頼政神社」や古河城の跡地を訪ねながら駐車場に戻った。
『河川改修で城跡がなくなり、堀も石垣もない城下町が古河』と、ひげ爺の独り言。
しかし 武家屋敷跡には料亭が多く、若く元気な頃には良く酒宴を張った所でもある。

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田中正造翁終焉の地を訪問

2017-12-05 07:44:46 | 地域活動・つながり
私の住む地には、足尾の鉱毒問題と闘い 北川辺を廃村から救った郷土の恩人
「田中正造翁」の 遺徳を継承する団体「田中正造翁北川辺顕彰会」がある。
その視察会で、群馬と栃木の県境にある「田中正造翁 終焉の地」を訪ねた。
集合地の北川辺から 西北に進んで、館林市の下早川田から渡良瀬川を渡ると
佐野市の船津川に入り、左折して線路沿いにターンすると そこには 今年2
月に有志によって建立された 大きな石碑「田中正造翁終焉の地」があった。
その石碑には、流域の被害民を救おうと奮闘した 正造翁の言葉『真の文明は
山を荒らさず川を荒らさず 村を破らず人を殺さざるべし』が刻まれていた。

そこから南西に歩いて程ない所に、正造翁終焉の家「庭田清四郎宅」がある。
翁は 大正2年8月2日の午後、体調不良を訴えて急遽 庭田家に倒れ込んだ。
名医の投剤や必死の看護も効なく、34日後の9月4日に不帰の客となった。
その庭田家を訪ね、清四郎氏が書き残した「故田中正造翁臨終の記」のコピ
ーを資料としていただき、氏から数えて四代目の当主隆次氏のお話を伺った。

渡良瀬川左岸を西に歩き、掘川を越えると館林市域でその先には「雲龍寺」。
曹洞宗のお寺で、朱門を入ると左に「足尾鉱毒事件被告の碑」があり つづく
石段を上がると、田中正造翁を祀る救現堂と分骨墓といくつかの石碑がある。
寺は北関東4県の鉱毒被害民闘争事務所のあった所で、明治33年の川俣事
件の際には、被害民はここに集結し東京への請願行動「大押出し」を行った。
『曹洞宗の寺だから、騒動の衆が集まった訳ではない』と、ひげ爺の独り言。
不謹慎な駄洒落で失礼!、まじめな公害の話ですから口外しないで下さいね。
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