東北道から磐越道を北に進み、猪苗代インターを降りるころに雨も止んできた。
西空が明るくなってきたので、心配の沼尻元湯の秘湯探索は決行する事にした。
昼食や飲み物などを調達した後、沼尻スキー場から上がった行き止まりに駐車。
霧雨は降っていたが、回復するとの気象予報を信じて着替えし靴を履き替えた。
レインウエアーを身に、ナップザックを背負い安達太良山の登山道に入る。
山道は20分の登り坂に20分の緩いアップダウン、その路端にはツマトリソ
ウ アカモノ イワカガミ マイズルソウなどの高山性植物が迎えてくれた。
最後は急な下り坂を5分ほどで、眼下の霧の中に「沼尻元湯」の全貌が現れた。
それは大きな沢なのだが、昔の硫黄鉱山跡で古ぼけた構造物や木樋等も見える。
谷底まで降りてから川を渡ると木道があり、川に沿った木道を上りながら 湯温
を確認し、座るに適当な岩場に落ち着いて弁当と豚汁とビールの昼食を摂った。
熱湯は川岸のあちこちから出ているが、雨で流量多い本流は適温ではなかった。
そこで、先人が作ったと思われる湯船を修復して 新たな湯船を作ることになる。
岸辺の熱湯と川水を混ぜて適温にし、時には片手で水掻きして調整して入る。
霧中の露天風呂に 無我夢中で浸り、2時間半を楽しんで帰り路は近道の20分。
根まがり竹の子と硫黄の湯ノ花を土産に、本格秘湯沼尻元湯を後にした。
この日の宿泊は幕川温泉、ここも秘湯の宿だが沼尻で圧倒された後で部が悪い。
露天風呂も料理も建物やサービスなど、何んとなく物足りなさを感じてしまう。
そして翌日は土曜日、開催中の福島競馬に立ち寄って 旅費を稼ごうと大穴狙い。
「旅費の倍額を目論んだ三連単も、だれも当たらずにみんな坊主」と、独り言。
稼いで飯坂温泉の芸者総揚げ大宴会、結果は全員持ち出しの寂しい車中だった。
梅雨の晴れ間となった14日、オニバスの自生地で雑草取りなどを行った。
絶滅危惧種のオニバスは、自然自生している場所が全国でも少なくなった。
地元有志によるボランティア団体が、貴重なオニバス自生地を保護し その
花も観賞してもらおうと、自生地と周辺の環境保護活動に協力をしている。
その活動は、行政を軸に置きながらも先輩二人の指導の元に行っている。
指導役の先輩方は、オニバスに特別な愛着と経験と専門知識を持っている。
今回の作業はオニバスの発芽状態を確認、 雑草や水草の除去が目的だった。
発芽は予定通り順調で、2センチほどの幼葉を細い茎で伸ばし始めている。
これからも発芽を続けるのだが、「根つき」が悪く浮いてしまうものもある。
原因はよく判らないが、鴨などの鳥害や天敵ザリガニの害も考えられる。
それらの防御も必要で、糸を張ったり天敵退治の裏技を仕掛けたりした。
雑草取りでは、別の「刈り取り隊」が 周辺道路の雑草を刈ってくれたので、
私達は自生地で掘の雑草取りと池の雑草や水草の処理が仕事になった。
そんな作業も2時間ほどで終わり、今後の対応や予定やらを相談しあった。
指導役お二人には、毎日のように水調整やオニバスの管理をお願いする。
夏に向けて、オニバスの成長を見届けながら雑草や水草の除去を続ける。
そして7月以降は、水面を葉が覆うので日光があたるように葉を間引する。
葉数が少なくては心配で、多過ぎると花付きが悪くなるという矛盾に悩む。
「オニバスが芽を出してくれた、正に芽出たいこと」と、ひげ爺の独り言。
そして開花にあわせ、ボランティアガイドの実施とフェスタの開催になる。
糖尿病の指標であるヘモグロビンA1cが、8.6から7.2に大幅良化していた。
血糖値も234から148へと大幅に低下して、「ホッと一息」と言ったところ。
私と糖尿病との付き合いは、定年退職してから生活スタイルが変わり 運動
量が極端に減ったにもかかわらず 食欲は旺盛だったことで始まった。
対策の基本は、飲食の節制に間食制限と運動によるカロリーの消化になる。
その一端は、08年12月のブログ「万歩計は不満歩計だ」でも公開している。
甘い物を避け食事量を減らしタマネギと黒酢を常用し一万歩の散歩を続けて
きたが、努力の結果に嬉しくはなるものの治るところまで行かなかった。
暑い夏期はカロリーの消化が進んでも、秋から冬は消化量が減ってしまう。
その後も一進一退するなかで、1日1錠の薬を処方され何とか納まっていた。
しかし正月から数値が上昇し、努力や錠剤だけに頼ってはいられなくなった。
1月14日の血液検査では、A1cが8.0で血糖値が212にもなっていたのだ。
節制を約束し経過した3月中頃の結果も、A1c8.3に血糖値248と悪かった。
美人女医は困った表情で、新たな薬1錠を追加し経過観察するとの御託宣。
追加した薬の効能で、「お腹がすくけれど我慢するように」との事だった。
期待していた4月26日の結果は、なんとA1c8.6に血糖値234と最悪状態。
お彼岸に花見に誕生日、春祭りに旅行に宴会など誘惑が多すぎた事にある。
それから6週間、本気になって取り組んだ節制の結果が冒頭の数値だった。
薬の追加と食事の節制、加えて意識的に汗を流したことが良かったようだ。
「これで当面は、インシュリン注射をすることなく済んだ」と、ひげ爺の独り言。
・・・とは言え油断禁物、夏を迎えて気温は上昇するが数値は下降させたい。
田圃の稲も健やかに育つ時、霊場めぐりは今回から最後の千葉県に入った。
利用する高速道路が回り道になるため、朝早い6時過ぎの旅立ちになった。
ついでに回り道して、犬吠埼灯台や鹿島神宮や潮来のアヤメを見て回った。
前川あやめ園の花はまだ四部咲き程度で、一週間後には満開になるだろう。
「アヤメとカキツバタ、花元の綾ノ目(あやめ)がアヤメだ」と、ひげ爺の独り言。
潮来あやめ園、実はアヤメは数少なく花も終わり ハナショウブが多いようだ。
坂東観音霊場二十九番: 海上山 千葉寺 本尊 十一面観世音菩薩
京成千葉寺駅に近い街中にあり、山号やご詠歌から海に縁あることが判る。
和銅2年行基が十一面観音を安置し、聖武天皇の勅願を得て大寺となった。
平安時代に火災で焼失し、中世に下総の豪族千葉氏によって復興がなった。
その後何度かの火災と戦災に遭い、現在の本堂は昭和の再建となっている。
道路に面した壮大な山門をくぐると、整備された境内には銀杏の巨木がある。
坂東観音霊場二十七番: 飯沼山 圓福寺 本尊 十一面観世音菩薩
銚子の利根川河口近くに色鮮やかな五重塔が目に入る。壮大な楼門をくぐる
と正面が観音堂で、漁師の網に掛かったと伝えられる本尊を安置している。
縁起によると神亀5年、漁師が引き上がった観音像を仮堂に奉ったという。
その後弘法大師が訪れ、大師の徳を慕った諸豪族の寄進で大伽藍をなした。
昭和の空襲と戦後の復興のため、境内は二分され本坊は200㍍南にある。
坂東観音霊場二十八番: 滑河山 龍正院 本尊 十一面観世音菩薩
成田市北辺の利根川に沿う滑河、そこに滑河観音と呼ばれる龍正院がある。
寺伝では承和の時、冷害に見舞われた領主が観音菩薩に祈願したと言う。
その時老僧が河から十一面観音像をすくい上げて「河渕より涌く乳水をなめ
よ」と教えたことから、「なめかわ」と称して堂宇を建立したと伝えられる。
茅葺きの仁王門に、火災延焼を止めた事にちなんだ注連縄が下がっている。
4月中旬の事、草餅が食べたくなってお店で手作り風の草餅を買って食べた。
しかし色は濃く形も良いのだが、ヨモギの香りがなく手味も納得ができない。
そこで数日後、もち米と米粉に土手で摘んだ餅草葉で手づくり草餅を作った。
昔のような臼と杵ではなく、摺り鉢と摺りこぎ棒での便宜的な餅つきになる。
夫婦と施設にいる母との三人分7個ほど、それは小さな黄粉草餅だった。
餅の食感もあればヨモギの香りも良く、本物の味覚を味わって満足した。
いずれもう一度作ろうと思い、茹でたヨモギの葉を冷凍保存しておいたのだ。
5月末で草餅の季節とは言えないが、冷凍してあrヨモギが気になっていた。
冷蔵庫は野菜類が増えてきて、冷凍室のヨモギ葉も邪魔物になってきている。
「ならば食べてしまえ」という訳で、少し時期はずれの草餅づくりになった。
材料はヨモギの量に合わせて、もち米1合とうるち米粉3合を用意した。
前日夜に もち米を研ぎ 冷凍ヨモギを解凍しておき、翌日の朝食後に お湯で
でこねた米粉団子と研いだもち米を、布巾に包んで蒸かすことからはじめる。
ヨモギは小さな摺り鉢で摺りつぶし、別にこね鉢とすりこぎ棒を準備する。
蒸かした米粉と餅米を、こね鉢を臼にしすりこぎ棒を杵として行う餅つきだ。
ほどよく餅状態に混ざったら、摺りあげたヨモギの葉を加え良くつきあげる。
最後に手頃な大きさに千切って丸め、片栗粉を塗したトレイで形づくる。
一方で黄粉に砂糖と塩少々を加え、これを餅に絡めて食べると言う具合。
出来た草餅は計15個で、香りは少し落ちるが本物の味に変わりはなかった。
「手づくり草餅は、一時間半で上出来に出来上がった」と、ひげ爺の独り言。
施設にいるお婆ちゃんに届け、美味いと喜ぶ顔にほのぼのとさせられた。