どうして、「自然体験型高齢者福祉施設」を作りたいかと思っているのかというと・・、
万が一、私が生き延びて・・・、もっと歳とって、福祉施設に、シングル、あるいは夫婦で入所・入居することになった時、今ある施設には、入りたくない。だから、自分が利用したい施設を今から試行錯誤しながら作り出したいと、考えているわけで・・・、実に身勝手な発想からスタートしております。
この仕事は、今までの仕事と似て非なるものだろう・・・、だから、新しいライフワークとして本気で位置づけないと実現しないだろう・・。
私が入りたい施設は・・・、
☆ 自然好きな、自然に詳しい人が職員である
☆ もちろん自然体験活動がある
☆ 自然を感じるレイアウトやインテリアがある
☆ 子ども達がいつも訪れる環境、システムがある
☆ 農園がある
☆ 動物がいる
☆ 一人で動けなくなっても、自然体験できるサービスがある。
みなさん、どんなもんでしょうか?
万が一、私が生き延びて・・・、もっと歳とって、福祉施設に、シングル、あるいは夫婦で入所・入居することになった時、今ある施設には、入りたくない。だから、自分が利用したい施設を今から試行錯誤しながら作り出したいと、考えているわけで・・・、実に身勝手な発想からスタートしております。
この仕事は、今までの仕事と似て非なるものだろう・・・、だから、新しいライフワークとして本気で位置づけないと実現しないだろう・・。
私が入りたい施設は・・・、
☆ 自然好きな、自然に詳しい人が職員である
☆ もちろん自然体験活動がある
☆ 自然を感じるレイアウトやインテリアがある
☆ 子ども達がいつも訪れる環境、システムがある
☆ 農園がある
☆ 動物がいる
☆ 一人で動けなくなっても、自然体験できるサービスがある。
みなさん、どんなもんでしょうか?
先ほど映画、リバー・ランズ・スルー・イットを見たばかり。
いつまでもルアーやフライできる川が近くに
あるとなおさらよいです。
私は日本の建築様式的なものもあると嬉しいです。
ex.和室・茶室&庭園:自然を生活空間に取り込む構造
あと、芸術系の設備も欲しいですね。
自然を体感できるからこそ、音楽・華道・茶道・書道・などで感性を表現したいと思います。
勝手な意見を申し上げました。すいません。
PS. パソコンの不調や講座修了間際のドタバタで誕生日の祝メールを送れませんでしたが、改めてお祝い申し上げます。
遅ればせながら 12/15 お誕生日おめでとうございます。
でもね・・、どこでやりましょうかね。
何かの補助金探すかなあ・・・、福祉系? 環境教育系? まちづくり系? なんなのかなあ・・・
補助金なくても、有志で まずはやてみるかなあ・・。
それと、タカダサン 私、最近思うんですが・・・、
昔、関西で カワシマゴフサイが 「死の準備教育」ってワークショップやってたことあったでしょ。 あれね、今こそ・・・必要な時代になって来たような機がするんですよね。
この話すると また 深くなるんですが・・・、
確かに必要性はどんどん増してきていると思われます。私たちの世代で再びやってみますかねえ。若い世代にも必要かも。
昨日高野山に久しぶりに行ってきました。死を弔う場所は生き残っているものにとっては死の準備に通う人々の場ですね。大雪の中をおぼつかない足で参拝する年寄りたちの姿に、そのことを痛感しました。中学校の林間学校以来でしたが、当時は何も考えていなかったなあと、写真に写った自分の顔を眺めながら・・
死の準備教育を大学で研究したこともありました。仕事についてからも、文部省の指定研究で末期病棟の看護婦さんと一緒にさせていただいたことがありました。
死を見つめることは、極めて純粋に「生」を見つめることだと、そのとき教えられました。死を見つめる人たちはまた「おはよう」が言えたことを心から喜ばれるそうです。血がつながっていなくても、自分の周りに存在するたくさんの命を慈しまれるそうです。それが命の重さや温かさなのだろうな、と感じました。
きっと、人によって千差万別であろうと思いますが、死はタブーではなく、生きていることを肯定していくために大きな力をくれる可能性をもつものだと考えています。
自分の命、人の命、自分の命を支えてくれている食べ物の命、たくさんの命のことを考える機会が減ると、なんだか自分も生きている実感がもちにくくなるような気がします。
死の準備教育を通して、人はどんなものもプラスのエネルギーにしていくことができる存在なのだなぁ、ということを実感しました。
まとまらないですが、こんな話ができるワークショップもいいなぁ、と思いました。
当たり前に今、生きている私を含めて、50代60代の人達にこれからの人生を考える機会を改めて提供すること・・・があってもいいと思うのです。
子どもの頃、「死」を妙に意識し身近なこととして感じ、怖さを伴って「死とは何なのか」と悩んだことって、誰にもあると思うんですが・・・、その後、身近な人が亡くなった(例えば、私の母親は私が20歳のときに死にました)時ですら、自分の死と重ね合わせることって、なかったような気がします。 なんかあって・・・「死にたい」なんて思ったことは、ありますが、それって、逃避、あるいは寿命ではなくて、避けられないことではないですよね。
私ねえ・・、50歳を前にした頃より、避けられない寿命や事故による「死」っていうことを、考えるようになりました。 九死に一生を受けた身内の事故も影響しているでしょう。 どっちが先に死ぬのか・・・なんて考えるようになりました・・・
まるで子どものようにね・・。 こんな気持ちは、他の50代の人もきっとあると思うんですよ。 人生は、2回「死」について、不安を持って対峙する時期があるんです。 きっと。
男の更年期障害・・???もあるかもね。
いずれにしても、一応「健康」な 年寄りと呼ばれる前の私達の世代の大人に人生の終焉を改めて考えてもらうことって高齢社会こそ、重要だと思うんです。
死の準備教育というと 広がりすぎてしまいそうですね。
「年寄り入門塾?」 そんなネーミングでは 誰も関心をしめさないなあ・・・。