MRKさんの誕生会で子どもや孫達が久しぶりに大集合。シンガポールから滞在中のリサ&キシュンも加わってのパーティでした。ありがたい限りであります。主役は孫たちで、その元気さは爺さんのエネルギーを吸い上げるのでした。あーあ、疲れたわい。
シンガポールからリサ&キシュンの姉弟が我が家に1週間程滞在中です。
彼らは小学生の時に1か月ほど滞在したことがあり、それから何度も来訪をしてくれています。私達夫婦も彼らを訪ねてシンガポールに旅をしたことがありました。お母さんが日本人ですが、日本に預ける親族がなくて、日本の文化や日本語に触れさせたいということで滞在先を探していたところ、黒松内の我が自然学校にたどり着いてくださいました。 もう20年近いお付き合いともなり、彼らも青年となりました。 こういった国際交流が続いているのもありがたき幸せであります。
前回は冬の始まりの来道だったので雪もあまりありませんが、今回は雪たっぷりです。 今日はこれから黒松内の児童館での節分行事で鬼に扮して登場です。
黒松内ぶなの森自然学校のチーフディレクターをしてくれた元スタッフが家族連れで2週末に訪ねひと泊してくれました。 ぶな森で夏の長期自然体験村活動を展開をしていた当時(3年前に終了・・)は、毎年年末にひとりふたりの若い研修生を時には雇用、時には無償で置いて、半年かけて翌夏のプログラムのディレクター(それぞれ毎日のプログラムの進行責任者)を養成してゆきました。その若いディレクターを束ねるのがチーフディレクターで余裕がある時代は3年目在籍スタッフ位がその役目をになってもらっていました。

その子達も大人となり、結婚し子育ても始めた人もいます。 11月11-12日には 稲垣凛さんがお母さんとなんと彼氏を連れて訪れてくれました。 黒松内を離れたあとも二度ばかり、プログラムのボランティアに来てくれていました。
通称:社体(北海道社会体育専門学院)の経営と教壇に立っていた時代がアタシにはあります。エアロビクスやマシーンジム、スイムなどのスポーツクラブが次々に設立されていた平成の初期の頃でした。
私は昭和の終わりに、札幌に温泉レジャーランド「ビックシップ」という施設開発をし、そのオープン時には4階にあったスポーツクラブの支配人(マネージャー)をしており、その専門学校の学生をアルバイトで受け入れていました。 その経営親会社は不動産会社であり、あの経済急成長のバブル経済と言われていた時代で、不動産会社自身が、観光業に積極的に乗り出していました。ゴルフ場、ホテル、レストラン経営も手を広げていました。が・・・、私は開発、採用、現場営業、さらにはあの「バブルの崩壊」という経済低迷の波を受けて事業のリストラまで担当をしました。その後事業そのものから撤退(売り逃げたとも言われますが・・)。
その直前に この専門学校から経営の立て直しに参画してもらえないかとの打診を受けて転職をしたのでした。その学院は毎年100名程が入学していたのですが、2年次に進級する前に半数ほどが退学してしまうという惨憺たる状況でした。その学務部長として経営に参画して、それまでの講師職員を総入れ替えするような大々的なリストラをし、教育課程をも変えるという大断行をしました。3年目には退学者を数名までに減らして経営の立て直しにも成功をしました。
その頃に新入したMSZさん、今はカナダ在住なのですが、久しぶりの実家帰国帰省にお子さんを連れて9月9-10日と黒松内を訪ねてくれました。
昭和から平成に時代が移る頃は、私にとっては激動の時代で、特に仕事においての人事においては、人をリストラ首切りしたり、リクルート・ヘッドハンティングと阿漕なこともした時代でもあるので、こうやって、今も慕って訪ねてくれる人がいることは、とても幸せなことであります。

私の年代は英国はイギリスと地理で習いました。 英国は、イングランド、スコットランド、アイルランド、そしてウェールズという四つの国から成り立つ連邦共和国(でいいのかな)なのです。 そのウエールズから毎夏、若者がボランティアで滞在始めて、もう6,7年になるかなあ。
この夏もウエールズのカージフ大学から3人ずつの二組が1か月ずつ滞在をしています。 今は、ハリス、スタン、アレッドの三人、それぞれの出自はパキスタン系、スウェーデン系、ウエールズ地元の祖先を持っているそうです。 カージフ大学にはもともと世界中からの留学生もいるそうで人種多様な学問の府なのです。
うちへ来る窓口はNPO国際ワークキャンプNICEになっていて、カージフにある救急救命のNPOの社会人一団が来日したこともありました。
8/21-23はTYSさん一家のファミリーキャンプ対応でした。 TYSさんは私の高校山岳部時代の1年後輩で、昨年はその代の連中が5,6人でひと泊してくれ懇親を懐かしくしました。その折、彼が「来年は家族で来たい」と言っていたのですが、それを実現してご夫婦、娘さん、お孫さん連れで来訪をしてくれました。
こちらの事業も重なっていたので、一日目は砂浜海岸の場所だけご案内。二日目は朱太川河口付近でカヌーをし、夜はスタッフと一緒にBBQをしました。 プライベート家族キャンプのオーダーメイド対応でした。 旧交を温めつつ、こちらも楽しませてもらい(お金もいただき)ました。
自然学校では、こういったオーダーメイドなアウトドア体験もアレンジ・アテンド致します。


投稿がまた間が空いてしまいました。ごめんなさい。
さて、コロナ禍も収束したわけではないが、感染対策も5類とかいうインフルエンザ並みになり、世の中の動きも戻ってきました。 昨年の子どもキャンプでは、参加した子どもに濃厚接触者がいることがわかり、急遽地域の医療機関で滞在者全員の検査をしてみな陰性であることを確認したうえで解散という事態もありました。
当自然学校のこの夏はコロナ以前のように来訪者、ボランティアが戻ってきています。台湾やシンガポールからの団体受け入れや町内外の受け入れや主催事業も続き、7月からは忙しくしています。
いったい年間に何人を迎え送っているだろう。 子ども達ばかりではなくて、スタッフとして、何年ぶりかして大人になって来てくれる大学生、海外の大学生も単位実習、国際ワークキャンプの仕組みを通じたり、ワーキングホリディで来てくれる社会人も続いています。
「シン田舎づくり実践研究所所長」なる肩書きを勝手に作って名乗っているのですが、リピートする人が現れてきて、それを嬉しく思っています。先日、私の人生「何故にして自然体験活動を仕事にしてきたか」みたいな聞き取りインタビューを受けて、それを文章化、冊子にして頂きました。 その中で、なぜにして「黒松内に移住したのか?なぜにして黒松内に自然学校を作ったのか?」という質問がありました。
当時の仕事の中心だったNPOねおすの経営上の流れが最大の理由、国の施策支援があった、黒松内町としての事情もありましたが、私自身の内なる理由は・・・、
都会育ちのアタシはおじいちゃん、おばあちゃんが居る、いわゆる「田舎」、自然豊かな農山地という居場所を持っていなかったのです。 無いなら、自分で創ろうという、自分がその田舎の居場所になろうという気持ちが強く有り、今になったのです。
いろいろと仕事をなしてきたうえで、「ではこれからはどーしてゆきますか」なる質問があったのですが・・・、
死ぬまでここに住み暮らして、そのときど記にやってくる人を受け入れ続けたいというのが、今の願いだな。