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女性マーケターから見た日々の出来事

東京オリンピックで感じた変化

2021-08-11 19:34:42 | スポーツ

今回の東京オリンピックで、これまでとは違う光景が幾つも見られた。
その一つが、新種目となったスケートボードだ。
特に10代の選手の活躍が目立った、スケートボードでは優勝候補の筆頭に挙げられていた選手が、大技に挑戦し失敗したためメダルを取ることができなかった。
にもかかわらず、メダルを獲得した選手だけではなく、参加した選手たちが駆け寄り抱き上げる、という場面があった。
J-castJニュース:涙のスケボー岡本碧優を「ライバルたち」が、抱え上げる 五輪競技後の写真に反響

スケートボードのようなスポーツとしての歴史が浅く、指導者たちの年齢も他の競技と比べ若いスポーツでは、このような「結果」ではなく、競技そのものについて選手たちが互いに讃え合う、という場面が見られた。
スケートボードのような新しいスポーツだけではなく、今回が初めてとなった「空手の演武」等は、試合後相手コーチに対して挨拶に行くなど、「空手」というスポーツファミリーのような場面もあった
日本の様に「勝利至上主義」的なスポーツ思考が強い国では、ある意味新鮮な驚きとなる場面だったはずだ。

これはJOC理事をされていた山口香さんがスポーツ紙に「本来の五輪の精神を体現している」とコメントをされていることでもある。
スポニチ:山口香氏「本来の五輪の精神を体現した」と感じたシーンとは…「スポ根から脱却するのかな」

メディアが「本日もメダルラッシュになりました」と、メダルの獲得数を報告するよりも、ラグビーでいうところの「ノーサイド」の精神をいくつもの競技で見ることができたことは、オリンピックという「勝敗を決める場」ではなかなか見ることができなかった。

トランスジェンダーの選手が出場が認められた、という点も今回の東京オリンピックは画期的であった、と思う。
もちろん、男性から女性へ性を変えた選手が、ウェイトリフティングのような競技に女性として出場するのは、いかがなものか?という、問題提議はあっても良いと思う。
むしろ、そのような問題がクローズアップされることで、競技そのものの形態が変わっていくことになるかもしれない。

そして、高飛び込みでメダルを獲得したイギリスの選手は、競技ではない所でも注目を浴びることになった。
同じイギリス代表の選手たちの競技を見ながら、観客席で熱心に編み物をする姿がテレビ中継等でとらえられていた。
最初は「男性が編み物?」と、いぶかしがる方も多かったのではないだろうか?
出来上がった作品を見ると、手編みの上手な方が編んだカーディガン。
ユニオンジャックと日の丸のついた「メダルを入れるポーチ」まで、編んでいらっしゃった。

実は、男性で編み物をされる方は、以前からいらっしゃった。
作家の故・橋本治さんは、編み物の本を出していらっしゃったし、NHKの「すてきにハンドメイド」の編み物だけではなくビーズ刺繍等も男性講師が10年位前から登場されている。

イギリスの選手は、自分にとって「集中と癒しの時間」として、編み物をしていただけであった、ということが分かりこれから「編み物は女性のもの」という、世間の見方が変わっていく切っ掛けとなるかもしれない。
そもそも趣味の領域のものを、女性・男性と区別すること自体、ズレているのでは?という、ことを気づかせてくれたような気がする。

このような「勝利至上主義からの脱却」や「LGBTとジェンダーの問題」等、もしかしたら「東京オリンピック2020」は、エポックメイキング的な大会として後々言われるようになるかもしれない。

 


2020東京オリンピックは、日本の「現場力」によるものだ

2021-08-09 12:38:27 | アラカルト

昨日で、2020東京オリンピックが閉幕した。
開会中は、日本人選手の活躍が連日のように報道され、開幕前のネガティブな雰囲気を打ち消すのに十分すぎるほどだった。
特に、新種目となった競技の10代アスリートたちの活躍は、未来を感じさせてくれるものだったように思う。
そして忘れてはならないのは、オリンピックを支えたボランティアや現場で黙々と働いていた関係者の姿だろう。

閉幕が近づくにつれ、Yahoo!のトピックスでは帰国する海外選手たちが残してくれた、様々なメッセージやコメント等が取り上げられるようになった。
帰国するために乗車したバスを関係スタッフ一同が、見送る姿に感動したり、メディアセンターなどに詰めているメディア関係者に「お疲れ様でした」と、労をねぎらうボランティアスタッフ等々、粛々とキビキビした動きで、会場設営をするヤマト運輸のスタッフ等にも「日本人の勤勉さ」のような姿として、選手や競技スタッフたちだけではなくオリンピックを取材するために来日したメディア関係者に「日本での開催は成功であった」と感じさせ、参加各国に配信された。
そしてこのような海外に配信された情報を、フィールドバックされるかのように日本で紹介されると、ボランティア等で参加をしていない人であっても「日本人として誇らしい」という気分になったのではないだろうか?
だからこそ、閉会式で参加国の選手たちが、日本に感謝をするような態度が自然に起こったのだろう。

今回の東京オリンピックに限らず、日本は「現場力」によって様々なことが維持されているのでは?と、感じることがある。
組織の上の人がエアコンの効いた部屋でまったりとしていたとしても、様々な出来事は現場で起きている。
いちいち指示を待っていては、対応できないことも数多くある。
判断の裁量云々ではなく、「困っている人がいたら、何とかしてあげたい」、「全力で力を発揮できるような環境を整えてあげたい」という気持ちが、自然と行動に現れることができるのは、日本人の良いところだろうし、そのような志があるからボランティアに参加したい!、仕事として関わりたい!という、気持ちにもなったのだと思う。

そのような人たちに支えられた2020東京オリンピックだったのだと思うのだが、何を見ていたのかIOCのバッハ会長は、菅首相と小池都知事に「最高勲章」を与えると、発表している。
スポニチ:バッハ会長が菅首相と小池都知事に「最高勲章」 国民感情逆なで表彰にネット大荒れ「2人は戦犯」

この報道を聞けば、ネット民だけではなくオリンピックに熱狂した国民の多くが、反発をすると思う。
というより、反発しないはずがない、と思ってしまうのだ。
それは上述した通り、参加国の選手や競技団体関係者たちだけではなく取材に来ていたメディア関係者がこぞって賞賛をしているのは、「現場で働く人たち」だからだ。
賞賛されるべき人達は別にいて、今回の混乱を招き、時には無責任な態度で会期中を過ごしてきたと感じる人達が、賞賛されようとしているからだ。

おそらくバッハ会長をはじめIOC関係者の方々は、日本の「現場力」によって支えられている、という社会システムが理解できないのだと思う。
指示命令系統の長となる人達の元、ボランティア一人ひとりが統一された考えを持ち、意識的に行動をしていた、と考えているのではないだろうか?
そしておそらく、日本以外の開催地では、そのような状況だったのではないだろうか?
IOC側が理解をしていないのであれば、菅首相と小池都知事は、大会に関わったすべての人たちに対して「賞賛されるべきは皆さんであり、皆さんの活躍が大会を良きものにしてくれた原動力である」と、声明を出すべきだと思うのだ。


 


体育の授業に「空手・形」を取り入れても良いのでは?

2021-08-07 19:28:43 | スポーツ

一昨日、昨日と、東京オリンピックの中継で多くの人が、印象に残ったのでは?と感じたのが、空手の形だった。
「空手」そいうスポーツが、沖縄発祥の地ということも初めて知ったし、組手で勝負をする「空手」とは違う、迫力と一つひとつの動きの力強さとしなやかさのようなものを感じた方は多かったのではないだろうか?
というのも「空手の形」そのもののを見たことが無い、という理由が大きいと思う。

そして「空手・形」を見ながら、思ったことがある。
それは平成20年から、教育指導要領で「体育の授業で武道が必須」になったため、多くの学校が柔道の授業を行うことになり、実施校が増えれば増えるほど、体育の柔道の授業中に起こる事故が急増していることを考えれば、空手・形の授業を行ったほうが良いのでは?と、感じたのだ。

柔道の授業で事故が多い理由として挙げられるのが、「柔道を教えることができる体育教師がほとんどいない」という点にあるという指摘がある。
確かに、背負い技や寝技等数々の技があることは知っている。
そしてそれらの「技」を受けるにしても、掛けるにしても、それなりの指導者の元で行わなくては、事故の元になるのでは?と、素人目から見てもわかる。
Livedoor News:柔道で亡くなる中高校生が出るのは日本だけか 海外との「決定的な違い」

とはいうものの、学校の授業で柔道を教えることができる柔道経験者は圧倒的に少ないだろうし、全国の柔道強豪校と呼ばれる学校の多くは、元々柔道の大会等で実績を残している経験者で、学生時代既にそれなりの試合経験がある教師が、指導しているはずだ。
インターハイ等の常連校等を見てみると、そんな気がしている。

しかし多くの学校、特に公立学校では、そのような柔道経験のある体育教師が、教鞭をとっているわけではない。
バレーボールやテニス経験者が、柔道の指導をするというケースもあるのでは?
そのために、授業中に事故が起きているのだとすれば、それでは「体育の授業に武道をする意味がない」ということになる。
そもそも「武道=柔道」と決まった訳ではないのに、何故か?柔道を武道の授業に選ぶ学校が多いのは、柔道が剣道等と違い道具を必要としないからなのでは?と、考えている。

であれば、「空手の形」も同じなのでは?
もちろん、そのためには外部から指導者を招聘する必要があると思う。
学校の体育の授業で行われている、柔道の事故を減らすためには、専門の指導者による授業が一番良いのでは?という指摘が、以前からあることを考えれば、「空手の形」も同じ条件なのでは?
まして「空手の形」は、仮想の相手と戦うために、組手による事故は無くなる。
何より、オリンピックで見られた「礼を大切に試合に臨む」という姿勢は、「武道」の授業に合っているのでは?

そもそも、体育教師だからと言って、すべてのスポーツが得意な訳ではない。
それぞれの得意な分野があり、それらの指導を「部活」という場で行ったほうが良いのでは?
もしくは、それぞれのスペシャリストを、授業に合わせてきてもらう方が、安全な体育の授業が行われるような気がするのだが…。

「体育の授業における武道の授業」については、柔道でなくてはならないと書いてはいないと思う。
であれば、個々の学校の事情に合わせて、学校側が「武道」を選ぶ必要があるはずだ。



元々、やや下品なところがあった人だけど…

2021-08-06 18:57:13 | 徒然

3日前だっただろうか?東京オリンピックで金メダルに輝いた、日本女子ソフトボールの選手が金メダルの報告に訪れた、名古屋市役所で河村市長が、選手の金メダルを首にかけてもらい、その金メダルを噛む、ということがあった。
その経緯については、既に様々なところで報道され、河村市長の謝罪等も報道されている。
しかし、河村市長が謝罪をしても、一度炎上したこの問題は収束とは程遠い状況にある。
Huffpostu:河村市長のメダルかじり、波紋広がる  トヨタが社長名で抗議文

そもそも河村市長の場合、決して「市長」という行政の長らしいタイプの人ではない、ということだけ先に述べたいと思う。
特にイベント等で呼ばれて、挨拶をする時等はいきなり「燃えよドラゴンズ」という、地元プロ野球団・中日ドラゴンズの応援歌を歌いながら、登場する、ということ等はほぼ定番となりつつある。
そして演壇に登壇して話す時等も、市民がいる時等は「名古屋弁」を、まくしたてるようにして話すことが、多い。
「名古屋弁」と言っても、タレントのタモリさんが揶揄するような、あるいは含み笑いをするような表情で話す、あの「名古屋弁」だ。

生まれも育ちの名古屋の人が、あのような「名古屋弁」を話しているわけではない。
相当「誇張」した「名古屋弁」を、実は話しているのだ。
それは、おそらく「庶民派」というイメージをつくる為の「演出」なのだろう、と思っている名古屋人は多いと思う。
もちろん、そのような態度や言葉遣いを「下品」と、感じる方も多くいる。
特に生まれも育ちの名古屋の下町、という人などは「あんな下品な言葉遣いはしない」と、憤慨する人も少なくない。

その傍若無人さも含めて「河村たかし」という人物像を作ってきた、ということなのだ。
そのため、あのような暴挙に出た時でも「あ~~、やっちまったな~」感を持った名古屋の人は、少なくないと思う。
私も「あ~~、やっちゃったよ。相手のことも考えず、下品を庶民派と勘違いして(苦笑)」というのが、最初の感想だった。

何となくだが、河村さん自身は「金メダル」を掛けてもらい、テンションマックス!という状態になったのだろう。
元々自分と相手の距離感も考えず、ズタズタと相手の心理的テリトリーに入ってくる人なので、メディアで報道される「メダルを噛む写真」を見て、自分もやりたくなった、というところが本当のところなのでは?と、思っている。
ただやはり選手が努力をして得た「金メダル」を、テンションマックス!だからと言って、このような「暴挙」をしてよい、などということはない。

今のトヨタ自動車の社長である豊田章夫氏は、「スポーツ」を切り口に自社の製品イメージを作ってきている。
例えば、それまでの「ファミリーカー」という位置づけで、若い母親世代をユーザーの中心として考えてきた「シエンタ」を、いきなり「スポーツ」を言う切り口でCM展開をする等、やり過ぎ感がありながらも「スポーツ」ということにこだわってきたし、スポーツ支援もしてきた。
その一つが今回のソフトボールであったり、選手のサポートだったのだ。
これまでのスポーツ支援を穢された思いがあるからこそ、抗議文を社長名で出す、ということにもなったはずだ。

今回の件で、河村さんが「男尊女卑的考えを潜在的に持っている」等の指摘をする記事等もあるようだが、男尊女卑というよりも、これまで作り上げてきた「セルフイメージ=庶民派」を勘違いし、自分と選手を同化したような感覚で、あのような暴挙に出たのでは?と、考えている。
元より、その「庶民派」のイメージ演出には、どこか下品なところがあり、それが一部の人たちに受けていたことが、成功体験としてあったのでは?

そもそも、今の日本の国政に携わってきた政治家って、それほど品格のある人がいらっしゃったのかな?と思うのだ。






ペットフード市場の変化は、飼い主のペットに対する思いの変化か?

2021-08-04 20:40:43 | ビジネス

ファッション専門誌のWWDに、ファッションとは関係のない記事が掲載されていた。
WWD Japan:スープストックから”猫のためのスープ"が登場 ねこと暮らすシェフ開発の2種類

「ペットフードの高級化」は、随分前から言われてきた。
10年以上前から、ペットフードを扱うテレビCMには豪華なイメージを与えるような演出が多かった。
特にその傾向が強かったのが、猫のペットフードだった。
当時は、ペットとしての猫と犬の割合は犬の方が多かったはずだが、数年前に逆転をし今では猫を飼っている人のほうが、多いという。
2017年12月22日掲載 朝日新聞:ペット数、猫が犬を初めて逆転 飼い主の数は犬が多数

記事中にもあるが、猫を飼っている人の多くは「多頭飼い」と言って、複数の猫を飼っている人が多いからだ。
犬の場合、犬種にもよるが1頭であっても飼い主にかかる負担が大きく、また室内で飼うことができないという理由があるからだろう。
それに比べ、個体そのものが小さく家の中で飼うことができる猫は、複数飼っても世話がしやすい、ということなのでは?と、考えている。

とはいうものの、ペットとして飼われている犬や猫に関するトラブルや問題は後を絶たない。
その多くはブリーダー、ペットショップ、そして飼い主それぞれが、「ペット=愛玩動物」の「愛玩」にだけに価値を見出している、というモラルの問題だろう。
「愛玩動物」と言っても、「動物」なのだからその「命を飼う」という考えと覚悟、経済的余裕が無くては、やはり「ペットを飼う」ことはできないのでは?ということなのだと思う。
同じように「愛玩」という見方なのかもしれないのだが、飼い主と同じ食卓で、飼い主と同じもの(お刺身等)をペットに食べさせている、というペットの動画等が数多くある。
飼い主にとって、ペットとはいえ自分の子どものような感覚で、同じ食事を与えているということなのだろう。

そう考えると、スープストックトーキョーのシェフが「猫用スープ」を作ったことは、なんとなくだが理解できる。
「自分と同じスープストックトーキョーのものが、食べられる」というだけでも、猫を飼う人達にとっては、日常的で高い満足を与えることができるのでは?と、考えられるからだ。

ペットフードの開発では、実際に開発者がペットフードを食べる、ということがあるという。
ペットケアの専門学校等でも、同様のことが授業の一環としてある、という話も聞く。
「人と同じように安心・安全な食事」ということなのだろう。
ただ「ペットフード」と「人の食事」という区分が無くなり、「人と同じ食事のペットフード」が一般化するのでは?と感じている。
そしてその市場は、拡大し続けるのではないだろうか?




気合と根性で始まった「新型コロナ」対策。次は「命の選別」か?

2021-08-03 19:51:11 | 徒然

昨夜、政府から「重症者以外は、自宅療養が基本」という、発表があった。
時事通信:重傷者以外は自宅療養が基本 感染急増地域で適用ー政府

このニュースを聞いた時、「命の選別が始まるのでは?」という、気がしたのだ。
これまでも、野党議員さんが治療を受けることなく亡くなった頃、与党の派閥の領袖と言われる人物は症状が出ていなくても「既往症があるので」という理由で、入院をしていた。
この出来事も「命の選別」という気がするのだが、今度はそれがより拡大した状況になる。

そもそも生活者がイメージしている「感染時の症状レベル」と医療者が考えている「感染時の症状レベル」には、イメージの相違のようなモノがあるのでは?と、感じている。
例えば「味覚が無くなり、高熱が出た」というのは、生活者にとっては「重症」という状態かもしれない。
しかし、厚労省の「新型コロナ治療ガイドライン」では下図のようになっている。


この「治療ガイドライン」を見て、「酸素投与が必要」でも中等症Ⅱのレベルなの?と、驚かれる方のほうが多いのでは?
それほど、生活者と厚労省が定めた「治療ガイドライン」とでは、違っているのだ。
「重症者=ICUで治療する」というレベル、ということになる。
それほど、爆発的に感染者が増えている地域では、入院できる病床が逼迫している、ということでもあるのだ。

考えてみれば、この1年政府が行ってきたことは「新しい生活様式」というネーミングで、様々な自粛を要請し、生活者に我慢を強いりながら「気合と根性」で「安心・安全」を繰り返してきた。
しかし1年以上経ち、政治家の方々が「政治資金パーティー」を開いたり、監督官庁である厚労省の官僚が遅くまで飲食をしていた、などという報道があるたびに、真面目な生活者は「自分たちはこれだけ我慢しているのに」という気持ちを、重ねてきたはずだ。

それが、東京オリンピック開催により、ある意味生活者の「箍が外れた」という状況になっているのが、今現在である、ともいえる。
その中で「重症者以外は自宅療養を基本とする」などと言われたら、「また、与党議員は軽症でも入院できるのに、自分はICU入院レベルでも治療が受けられないのかもしれない」という、気持ちになるのではないだろうか?
事実上の「医療崩壊」という状況であるにもかかわらず、政府側は東京オリンピック期間中ということもあってか?「医療崩壊」という言葉は使わない(だろう)。

「感染症の蔓延」で重症者が増えると、医療の現場では「命の選択」を迫られる場合が出てくる。
少なくとも厚労省をはじめ政府は「症状に応じた治療の受け皿」を、用意して欲しい。
それが生活者の「安心」にもなるだろうし、何より社会不安を抑えることに繋がるからだ。
そんな当たり前の政策が、何故示されることなく「重症者以外は自宅療養を基本」という、乱暴な話をしてしまうところが、一番の問題のような気がしている。


 

 


8月と慰霊

2021-08-02 13:33:15 | 徒然

昨日だったか?IOCのバッハ会長とJOC、組織委員会は「広島原爆投下による犠牲者に対する黙とう」を拒否した、というニュースがあった。
Yahoo!ニュース(共同通信):広島原爆の日、黙とう呼び掛けせず  IOC、閉会式で共有

広島の被爆者団体等から、IOCのバッハ会長の訪問に対して反対があったのを強行するカタチで、先日広島訪問を果たしている。
その時は神妙な表情で花輪を記念碑にささげたはずだが、原爆が投下された日の黙とうは拒否するらしい。
噂レベルではあるが、バッハ会長が、広島を訪問したのは「オリンピックが平和の祭典である」というアピールだけではなく、「ノーベル平和賞」を狙ってのパフォーマンスだったのでは?という指摘は、既に各所からされているようだ。

IOC側は「閉会式で共有」と言っているが、これまでの「閉会式」は開会式以上のお祭り騒ぎが、自然発生的に起きている。閉会式で選手が入場する時点で、競技や国という壁を越え、アスリートとしてともに讃え合い、競技が無事終了したことに安堵したかのように、選手たちが思い思いに入場するのが恒例となっている。
そのような雰囲気の中で、「広島・長崎の原爆に対する思いを共有する」ということが、できるのだろうか?
おそらく、出場した選手たちと「広島・長崎の原爆被災」に対する思いを共有すること自体、無理だろう。

日本にとって(というか、日本人にとって)、8月は「慰霊の月」でもある。
元々8月は旧暦のお盆があり、そのために「お盆休み」が多くの企業で設けられている。
元々「お盆」は、遊びに出かける事が目的ではなく、ご先祖供養のための期間だったのだ。
興味深いことに、神道の中心である皇室においても、かつては「お盆行事」が行われていたと、三笠宮彬子女王殿下がエッセイに書かれている。
和楽Web:宮中でのお盆行事を通じて感じた、お盆に伝えたい思い

日本文化に造詣の深い彬子女王殿下らしい、流麗でありながら分かりやすいエッセイだな~と思いながら、拝読させていただいたのだが、庶民のお盆行事を皇室でも取り入れていた、という点はとても興味深いだけではなく「先祖を敬い、故人に思いをはせる」ということは、宮中であっても同じなのだな~という発見と意味は、大きかった。
そして彬子女王殿下は、「伝統は伝燈」であり「その伝統は文化の灯である」と書かれている事に、ハッとさせられたのだ。

上述したように、日本人にとって8月は「慰霊」の月であり、それが一つの文化なのだ。
しかし、海外の人たちにとっては、8月は12ヶ月の内の一月でしかない。
だから、IOCは「原爆の日に黙とう」という、慰霊の気持ちが理解できないのだ。
ただただ残念なのは、JOCやオリンピックの組織委会がそれを理解してもらうような努力をしていない、という点だ。

広島の原爆によって失われた命は、日本人だけではなく捕虜として広島にいた連合軍の関係者たちもいた。
決して「日本」だけのことではなく、世界唯一の被爆国として、原爆によって失われた命への「慰霊」というアプローチがあれば、また違ったカタチとなったかもしれない、と考えるのだ。



「ごはん論法」で、ごまかすのはいい加減にして欲しい

2021-08-01 20:54:50 | 徒然

「新型コロナ」の感染拡大が、止まらない。
止まらないどころか、感染者数は毎日記録更新という状況だ。
オリンピック等のスポーツの記録更新は、心躍るモノがあるが、「感染者数」の記録更新は、社会不安を呼び起こすだけだと思う。

そしてこのような状況を受け、一昨日菅総理大臣が記者会見を行っている。
そこである記者の方から、鋭い質問が出たようだ。
Buzz Feed Japan:「辞職する覚悟はありますか?」緊急事態宣言の会見で…菅首相が答えたこと、答えなかったこと

「辞職する覚悟はあるか?」という質問は、確かに相当手厳しい言葉の様に思う。
思うのだが、安倍さんの時から自民党幹部の方々は「ごはん論法」と呼ばれる、「ああいえば、こういう」的な返答をすることで論点をずらし、議論を避け、発言に対する責任を避けてきた。
そして「安心・安全」という言葉のみが、何度も繰り返し言われてきたのだが、その「安心・安全」の根拠は何か?ということになると、やはり「ごはん論法」か専門家に発言を丸投げるかのどちらかだった。

確かに専門家の意見は、重要だ。
ただ、専門家の意見を聞き、対応策や政策としてどうするのか?を決めるのは、政治家の仕事だったはずだ。
にもかかわらず、本来すべき仕事を半ば放棄し、終始かみ合わない議論を国会で見せられ、会見で見せられ続けてきた。
時には、菅首相の1964年の東京オリンピックの思い出感動話を延々と聞かされる、ということもあった。

このような事が繰り返されると、生活者の多くは「関心が無くなる」し、質問をする記者さん達もやる気を無くすだろう。
それが、狙いだとすれば、その「狙い」は成功している、ということになる。
ただ「狙い」は成功したが、その結果として生活者は「このような政治家に政治を任せてよいのか?」という疑問がわくようになり、疑問が確信へと変わり「政権与党に政治は任せられない」という気持ちになりつつある。
もちろん、政治家は立候補をした地域の代表でもある、という点から「地方への利益誘導」に対する期待によって、当選を繰り返してきた大物政治家も数多くいる。
「全国区」の名簿には、タレントとして活躍をした人達が名を連ねさせる事で、「政治家」としての期待ではなく「集票」と「議員になった時の頭数」という役割を持たせている。
そんな「選挙戦略」が、今の日本の政治手法であるとすれば、有権者は随分見下されている、ということになる。
「見下されている」からこそ、政治そのものへの関心が薄れ、「議員との利害関係がある人達」や昔馴染みの人たちが、選挙を動かし、そのような政治家を当選させてきたということなのだろう。

それにしても、生活者の想像を上回るほどの酷さが、菅首相の「ごはん論法」にはある。
菅首相の場合、「ごはん論法」だけではなく、「思いで語り+根拠なき楽観」が加わっているようにも感じている。
そしてこのような発言ができるのは、やはり国民をどこかで舐めているからだろう。
「どうせ、政治のことなど、国民には分かりっこない」という、考えがあるのでは?
それどころか、オリンピックの開会式では、今上天皇に対する不敬な態度まであった。

「思考が発言や行動に影響を及ぼす」と言われているが、正にその場しのぎの言葉や態度で、やり過ごせば何とかなる、という考えが今の政権与党(だけではなく、すべての政党かもしれない)にあるのだと感じている。
政治の劣化は、社会保障を中心に国民生活の劣化に繋がる。
有権者は、その当たり前に気づき、行動を起こす必要があると思う。