先日、朝日新聞のWebサイトを見ていたら、イーロン・マスク氏の「共感性」に対する敵意、という趣旨の記事があった。
朝日新聞: ( 藤田直哉之ネット方面見聞録)「共感は弱さ」マスク氏の敵意どこから
有料会員向けの記事なので、全文を読めないのだが、この記事の元となったCNNの記事は、マスク氏の「共感」に対する考えをまとめた内容になっている。
CNN:イーロン・マスク氏は西洋文明を「共感」から救いたい
CNNの記事を読んでみると、マスク氏は「共感」ということに対して、敵意というよりも嫌悪感を持っている、という印象を受けた。
それが表れているのが、「共感という武器」という言葉だ。
「共感」が武器になるか否かは別にして、人が共感をする時はどのような時なのか?と考えると、「武器」という表現は大袈裟な気がする。
確かに過去、人の共感性を使い「全体主義」へと導き、「全体主義」から「独裁者を生む」結果になったことはある。
ヒットラー率いるナチスの発展の中には、困窮化する生活の中で、ヒットラーの考えに共感し、親衛隊に入った若者たちが数多くいた、という事実はある。
それだけではなく、当時のドイツの大衆はヒットラーの考えに共感し、支持をしたことで、ドイツは全体主義的な社会となり、ヒットラーという独裁者を生んだのだ。
他にも、地下鉄サリン事件を起こした「オウム真理教」なども、教団代表者である麻原彰晃の考えに共感した高学歴の若者たちが次々と犯罪に手を染め、最終的には、地下鉄サリン事件という前例のない事件を引き起こした。
だからと言って「共感=武器」と、言い切ってしまい、「西洋文明の弱さ」ととらえるのは、違うような気がするのだ。
というのも、ビジネスの世界の中で「共感(性)」はとても重要な事として、考えられているからだ。
商品やサービスを購入するとき、多くの人は選ぶ基準の中に「共感する部分がある」と感じるから、それらの商品やサービスを購入している体。
それが意識的・無意識関係なく「共感することで、納得できる」という、心理的なステップを踏んでいるのでは?
その「共感(性)」を、失ってしまえば、生活者の消費行動は「価格」のようなわかりやすいモノになる。
わかりやすいから良いのではなく、その商品やサービスの「価値」を考えずに、表面的なモノだけになってしまうのでは?
逆にそのような視点で、これまでのマスク氏の行動を見て見ると、確かに「共感(性)」を排除してきた、ということが分かる。
例えば、Twitter社を買収した時、マスク氏は大規模な首切りを断行した。
組織として必要な仕事なのか否か、ということを全く考えずに、とにかく人を減らすことで、マスク氏が得られる利益を大幅に増やす、という考えだったように感じている。
トランプ米大統領の懐刀のようなポジションを得たことで、同様のことを米国内の政府機関で行おうとしている。
そもそも「共感」という感情は、他者との関係性の中で生まれるものだ。
それを排除していくと、残るものは「他者との関係を排除した孤立」ということになる。
「孤独」ではなく「孤立」だ。
他者から信頼も信用もされない、という人間関係ということになるだろう。
果たしてそのような社会が、幸せな社会と言えるのだろうか?
自己益だけを追及する社会は、ナチスとは違う独裁的な要素を含んでいるように思えて仕方ない。