はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

森安秀光の早石田 “3四飛”

2013年08月19日 | しょうぎ
 今日は1975年(昭和50年)の新人王戦の将棋を鑑賞します。

桜井昇-森安秀光 1975年 新人王2
 これはその決勝戦(三番勝負)の第2局の出だしですが、この後手番の森安秀光の“3四飛”をみなさん、どう思いますか?
 「早石田」そのものが少なかった時代(しかし名人戦で1971年に升田幸三が使って話題になった)、しかもさらに少ない後手番での「早石田」、そしてこの“3四飛”。これは誰も指したことのない、“新手”なのです。この将棋は、勝負の結果自体は決勝戦ですから注目されていましたが、しかし「早石田」という戦法がプロでは指すことがあまりなかったこともあって他のプロ棋士の研究対象にもならず、この森安新手“3四飛”はその後特に話題にもなっていないように思います。
 しかし、改めて今見ると、これはたいへんに意欲的な手だと思います。

菅井竜也-谷川浩司 2010年
 これが2010年11月(3年前)に指された“菅井新手7六飛”です。
 これを指した菅井竜也さんの著書『菅井ノート先手編』の中に、〔私が初めて実戦で指したことから、「菅井流」と呼んでいただくこともあるが、なんと江戸時代に7六飛が指されたという記録もあるようだ。〕とある。しかし、「江戸時代」というのは、あるいは間違っているかもしれない。
 僕は「棋譜でーたべーす」の中からはこの早石田7手目の“7六飛”の江戸時代の棋譜は見つけることができなかった。以前にも僕はこれを調べて、江戸時代の実戦例は見つからなかったけれども、でも江戸時代の「定跡書」の中で見つけたような記憶がおぼろげながらあったので、今回改めて探してみたが、しかし見つからない。これは僕の記憶違いかもしれない。(伊藤家の定跡書だった気がするのだが…。)

吉田一歩-坂田三吉 1906年
 見つかった最も古い“菅井流7六飛”は、明治時代1906年の「吉田一歩-坂田三吉戦」である。吉田一歩という人物が坂田三吉を相手にこの手を指している。
 ここでの“7六飛”には、「8八角成、同銀、4五角」があり、「吉田-坂田戦」も、上の「菅井-谷川戦」もそう進んだ。「4五角」に、吉田一歩は「5八玉」、菅井竜也は「6六飛」と応じている。(どちらの手も同じ展開になる。勝負は、坂田、谷川の勝ち。)
 「菅井竜也-谷川浩司戦」の3カ月後、棋王戦五番勝負の第1局で、久保棋王がこの“菅井流7六飛”を採用した。(結果は久保勝ち。) その対局の自戦記を、その挑戦者だった渡辺明さんが『将棋世界』誌に書いているのだが、そこで渡辺は、〔明治時代にすでに指されていたという話を聞いたことがあります。〕と記している。
 このように確かに明治時代には指されている。これは間違いない。あるいはその情報が間違って伝わって、菅井さんは「江戸時代に」と書いているのかもしれない。
 どうも現役棋士にとっては、この“7六飛”が戦術的に有効であるかどうかが重要で、それを昔だれが指したというようなことは関心がうすいらしい。

 〔追記; 早石田の“7手目7六飛”、その手が指された江戸時代棋譜も、確かに存在することが後日確認できました。1734年「有浦印理-三代伊藤宗看戦」に現われています。詰将棋で有名な宗看(七世名人)が指している。ただしこれは「左香落ち」の将棋で、だから上手7手目3四飛となるのですが、それでなかなか見つからなかったのです。
 また大正時代に出版された阪田三吉著の『将棋秘手』という書物があって、これは阪田三吉が小林東伯から教わった定跡を語るという形式の将棋定跡本で、この中には、石田流“7手目7六飛”の変化も触れられている。つまりおそらく江戸時代から伝えられてきた定跡手だったのだと思われる。阪田三吉も、吉田一歩も、“定跡の一手”として知っていて指していたのである。〕


 その“菅井流7六飛”の有効性だが、「7六飛、8八角成、同銀、4五角」の展開は、どうやら“振り飛車、自信あり”のようだ。それなら、ここで飛車を浮く“7六飛”はアリだ。これで優勢というわけではないが、指し手の幅が広がる。具体的には、次に「6六歩」という手を見せて、後手にここで角交換をするかどうかの決断を迫る意味がある。

森けい二-中川大輔 2002年
 “菅井流”は7手目だが、先手石田流でいったん4八玉とした後9手目に“7六飛”とするのは、すでに前例があった。指したのは森けい二、2002年である。

 以上のように、先手早石田の7手目“7六飛”は相当な話題を呼んだ手なのですが、森安秀光の後手早石田での“3四飛”はすっかり忘れ去られている模様。まあ、後手番早石田自体が指されていませんからね。(後手番早石田がなぜ少ないかについては、先月こちらで書いています→『林葉の振飛車part6』)
 「桜井-森安戦」、この将棋の続きは最後にお伝えします。



 1975年新人王戦のトーナメントのベスト4に進出したのは、真部一男(23歳)、桜井昇(34歳)、田丸昇(25歳)、森安秀光(26歳)の4人です。このうち、森安秀光はすでに一度の新人王戦の優勝経験があり、ここで優勝ならV2となり、他の三人のだれかが優勝なら初優勝となります。
 彼らの闘いをこれから見ていきましょう。



真部一男-桜井昇 1975年
 真部一男の「5五歩位取り中飛車」。23歳の真部はプロ棋士3年目。
 現代の「ゴキゲン中飛車」とこの時代の「5五歩位取り中飛車」とのはっきりした違いは、昔はすぐに「6六歩」としていたというところ。現代ではなるべくその手を保留する。
 「6六歩」は角の頭を守るためにも自然な指し手である。ここでは真部もそう指した。


 後手の居飛車の桜井は、7三銀~6四銀と右銀を進出させる。これも、振り飛車の角頭をねらう自然な作戦で、次に7五歩と攻めるつもり。
 で、真部は後手の7五歩が来る前に、6五歩。これは同銀に、6八角と引いて、次に7七桂とすれば銀が取れる、という意味である。
 桜井は、真部の手に乗って、6五同銀と指した。
 この中飛車の「6五歩」は、現代では、またさっきとは別の“菅井流”として受け継がれている。(これについては、後で軽く触れる。)


 銀を取らせる代わりに、桜井は竜をつくった。
 図から、8五竜、4六角、6五竜、8二歩、7三桂、8一歩成、8五竜、9一と、8六歩。


 後手は銀一枚のまる損。しかしこの局面は後手優勢のようだ。
 先手は歩切れなので、次の8七歩成が受けにくい。後手は、9九の香はいずれ取れそうだし、6五桂の桂馬の活用も見込める。
 6七銀、8七歩成、5六銀、7七と、9三と、8九竜、5九金、4三銀、4八金上、4五歩、同銀、6七と、5六飛、3三桂。


 3六銀と逃げると、4四桂がある。
 6八歩、4五桂、6七歩、4四桂、5八飛、9九竜、5四歩、5六香以下、桜井の勝ち。そつのない指し回しだった。

 こうして桜井昇が、うれしい初の決勝進出。
 それにしても、34歳、プロ11年目の桜井昇が新人王戦に参加できているのは、謎だ。当時の参加規定はどうなっていたのだろう?



先崎学-泉正樹 1990年
 さて、1990年には、こんな将棋も指されている。中飛車での銀の捕獲構想自体は、1975年以来、ずっとあったということだ。

渡辺明-菅井竜也 2011年
 これが「ゴキゲン中飛車」における“菅井流”。2011年1月NHK杯の準決勝で初披露された。(勝負は渡辺勝ち)
 先手の“星野流”(奨励会三段の星野さんが編み出したゴキゲン対策。6八玉型のまま右銀を3七~4六と繰り出していくアイデアで、多くのプロ棋士の支持を得て大流行の指し方。「超速」という呼び名もある。)の「3七銀」をみて「4四歩」とし、居飛車の右銀の進出をけん制する指し方を“菅井流”と呼ぶ。それでも4六銀と出てくるのなら、図のように4五歩とする。同銀に3二金(銀)として、次に4三金として、やはり後から3三桂跳ねからの銀桂交換が後手のねらいとなる。これはいい勝負となるようだ。
 それで、「3七銀、4四歩」となった時、4六銀とすぐには出ないで、7八銀という手がある。これは2012年2月の朝日オープン準決勝で菅井を相手に羽生善治が指した新手だが、羽生さんの考えた新手というよりも、この手は関東若手が研究していた手のようだ。7八銀の意味は、7七銀~6六銀~5五銀と、後手の5五の歩を左の銀で取りに行くねらい。(羽生の勝ち)
 この“菅井流4四歩”の攻防は、菅井竜也著『菅井ノート後手編』が発行された昨年の9月では、先手後手どちらもやれるようだったが、今はどうなっているか筆者は知らない。先手に作戦の選択肢が多く、振り飛車側が苦しめな印象はある。
 それにしても、菅井竜也さんは、次々と新手を披露してすばらしい。毎年、安定して勝っているし、きっといずれタイトル戦にも出てくるだろう。とくに評価すべきと僕が思うのは、相振り飛車の三間飛車での「菅井流」である。(これについて触れるのは今回はやめておく。) 今のプロの振り飛車党は、菅井さんのように、アイデアをたくさん持っている人でないと生き残れないところがある。


 話がずいぶん本筋から逸れてしまった。本筋は「1975年新人王戦」である。

森安秀光-田丸昇 1975年
 もうひとつの準決勝戦。これがたいへんな熱戦なのだ。
 先手森安秀光の「三間飛車」に、後手田丸昇は「5三銀左型」の陣形から、4四角と独自の工夫をして仕掛けた。
 4四角、同歩、6六銀、6四歩となり、ここから第二次の駒組みへ。結果的に「角交換振飛車」になった。


 田丸の2三桂に、森安も2七桂と打つ。この桂馬は左で交換したものだ。
 僕はこういう展開の将棋――あまり見ない形の陣形で、がっぷり四つという感じの将棋――を鑑賞するのが大好きである。しかし自分で指していてこういう展開になることは少ない。


 森安は4八角と打った。これは後手からの2五歩、同歩、同桂、同桂、2六歩を警戒した意味があるらしい。しかし田丸はこの角を見て、「ありがたい」と感じたようだ。
 4八角は、攻めの狙いもある。8六歩、同歩、8四歩だ。
 田丸はそれが来る前に、攻めたい。


 ここで1五歩と田丸は攻めを開始した。
 この1五歩では、6四銀からの攻めもあって、森安はそれで苦しいかと感じていた。田丸もそれが本筋とわかってはいたが、1五歩から行きたくなったようだ。


 1、2筋で何度も桂香の交換が繰り返された後、図のようになった。この3三桂はもう106手目になる。
 ここから、2三歩成、同銀、同香成、同玉、1四銀、3二玉、2四香、1一桂、2三歩、2一歩、8三歩成、8八歩、7九飛、1五歩、2八玉、2五桂打。


 後手陣の1一桂。こういう手は、いかにも踏ん張って受けている感じで、見ていて嬉しくなる。
 田丸の2五桂打に、森安は1八歩と受けた。
 これを見て田丸は1二香。田丸はこれで優勢になったのではないかと思った。先手は歩を1八に打ったので、銀が後手の質駒だ。
 1八歩、1二香、7二と、6三飛、2二銀。


 しかし7二とから2二銀とされてみると、後手玉は“挟撃”の形になっており、これは容易ならざる将棋と、田丸は思い知らされた。
 1四香、2一銀不成、4一玉、2二歩成、8三銀。


 「8三銀」と田丸はまた踏ん張る。この「と金」を外してしまえばいい。
 ここでと金を逃げているわけにもいかないと、森安は1四桂。133手目。森安秀光は長期戦を苦にしない。
 将棋は、またしても“仕切り直し”の様相である。 


 森安の149手目5七金上。これは6八金を上がったもの。
 6八銀と後手から打つ手が見えるが、これは森安の“誘いの罠”なのか? 
 田丸は2七歩、同銀と効かし、6八銀と打ち込んだ。以下森安は、働いていない飛車を取らせる展開に。


 169手目、森安の4一角。これは詰めろ、5二金の1手詰だ。
 田丸は5二金としっかり受けた。


 森安、5七金、7八竜に、角をスッと引いて、4六角。
 4六角は後手のねらいの3七桂成を防いだものだが、それだけではない。
 仮に後手が3七桂成、同角、4五桂と攻めると、7三角成で先手の勝ちが決まる、同飛なら、後手玉は6四銀以下の詰み。
 残り時間、田丸は4分。森安は18分残していた。
 1分使って田丸、3七香。森安は時間を使わず、2九玉。
 「ここで一歩あったら勝ちだったのに…」と田丸は局後に言った。一歩あれば、2八歩、1九玉、3八香成で後手が勝ちだ、と。しかし…。
 田丸は6九竜。森安の4八金に、6五竜と竜を引いて、さらに“もうひと勝負”を望む。


 しかし森安が寄せ切った。総手数199手の大熱戦を制して、森安秀光がこれで3度目の新人王戦決勝の舞台への登場を決めた。

 (田丸昇の活躍はこちらで→『戦術は伝播する5筋位取りのプチ・ブーム』)



森安秀光-桜井昇 1975年 新人王1
 さて、決勝三番勝負、その第1局である。
 森安秀光の「中飛車」に、後手の桜井昇は「6四金戦法」。
 後手のこの戦法は、中飛車に対して用いられたもので、先手の場合には「4六金戦法」となるが、昭和の時代プロの一流棋士にも愛用され当時の定跡本によく解説されていた。しかし今では見ることがめったにない。ノーマルな(つまりゴキゲンでない)中飛車自体が少ないことと、居飛車側の「穴熊」が人気のためである。この「4六金戦法」の創始者は加藤治郎さんである。


 後手の7五歩の仕掛けに、森安は6五歩。
 これで角交換になる。昭和の時代、「振り飛車には角交換をねらえ」というようなセオリーが振り飛車攻略の側にあったが、森安秀光とか、大山康晴のような一流の振り飛車の使い手は、「角交換将棋」をまったく苦にしていなかった気がする。


 7三角と打ち込む。これで手になるなら、居飛車もつらいが…。
 以下、7三同桂、同歩成、8一飛、4五桂、4四角、5三桂成、同銀、6三と、同金、7二銀。


 8四飛、6三銀成、5四銀、7五金。


 さてこの局面。あなたはどちらを持ちたいですか?
 桜井はここで飛車を見限って、6三銀。
 結果、先手の金得である。ただしその金は8四で遊びそうだ。
 桜井は1五歩と、端から攻めた。これがあるから、後手優勢。


 桜井昇、1七銀。
 これを見て森安は「寄せられたか」と思った。この攻めは厳しい。こういう激しい攻めを選んでくるのは、きっと自信があるからだろう。
 しかし結果的には、過激な1七銀より、6六歩、同歩、5六歩でほぼ後手の勝勢になっていて、それがより確実な勝ち方だった。6六歩~5六歩は、次に6四角(竜取りと、3六桂の両狙い)がある。


 ここで桜井の手番。
 桜井は、2五桂、2八玉、1七角、2九玉に、7三歩と打った。7三歩は、同金なら
6四角で、金が手に入るので、その金を2八金と打って後手が勝つ。
 ということで、森安は2五香とし、7四歩に、2八桂。
 桜井はこうなってしまったことを後悔する。2五桂を跳ねる前に、7三歩が正着だったなと。先に7三歩として、相手の金を8三金などと使えなくさせておいて、2五桂、2八玉、1七角、2九玉、2六角行、同歩、同角成。これでよかった、と。


 しかしもう後悔しても始まらない。“今”に集中すべきところ。
 ところが桜井は前のミスを引きずってしまったらしい。


 5六香が桜井の敗着。ここは6一香と打てばまだまだわからなかったという。
 とはいえ、5六香は部分的には良い手である。相手に5七歩と打たせれば、先手からの5三歩のうるさい攻めはなくなるし、先手の5九の飛車も使えない。
 しかし、森安は冷静だった。4分考えて「5七歩」と桜井の求め通りに応じた。桜井は3五歩。銀取りだ。5六歩、3六歩とすすむ。
 そこで森安は、2六香。もらった香車を打つ。この香車の二段ロケットが痛烈に厳しかったから、先の5六香はいけなかったというわけなのだ。
 以下、3四銀、2三香成、同銀、3五桂、4五馬、2三桂成、同馬、3六桂。


 2八に受けのために打った桂馬をぴょんと跳ねて、攻め駒を足し、桜井の5三角に、4一竜、同銀、2三香成以下、先手勝ち。
 三番勝負の第1局は森安秀光が勝った。

 




桜井昇-森安秀光 1975年 新人王2
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △3五歩 ▲2五歩 △3二飛(図) ▲4八銀 △3四飛
 そして、第2局。 森安秀光の「後手番早石田」である。


▲4六歩 △6二玉 ▲4七銀 △7二玉 ▲1六歩 △8二玉 ▲9六歩 △7二銀
▲6八金 △3二金 ▲6六歩 △4二銀 ▲3八金 △5四歩 ▲2七金 △4四角
▲2六金 △3三桂 ▲6九玉 △2四歩
 ここで、森安新手“3四飛”である。
 この場合、先手の「2二角成、同銀、6五角」は、後手大丈夫なのか?
 先手早石田での菅井流“7六飛”の場合とは一手違う。この場合、居飛車の手が4八銀と一手多く指されているが、それでどう変わってくるか。
 「2二角成、同銀、6五角」に、菅井流の場合には4四飛と受ける手が有力だったのだが、4八銀と居飛車に備えられているので、その手はない。
 そこで、5二玉と受けて、8三角成に、7四歩。こういう展開を森安は想定していたのだろうか。(あるいは6五角に、8四飛なのか!?)
 あっ、そうか! 6五角に、4四飛、8三角成、5五角で、次の9九角成をみて、後手良し、かな?
 実戦は、桜井昇は、「2二角成~6五角」を選ばず、穏やかに進めた。昭和のこの頃(つまり高度成長期だが)、大事な対局ではプロは乱戦を避けて序盤は穏やかに進める傾向があった。しかし森安秀光はどうやら、「力戦も歓迎」というタイプのようだ。


▲2四同歩 △同飛 ▲2五歩 △2一飛 ▲4五歩 △6二角 ▲6五歩 △7四歩
▲5六銀 △5一銀 ▲7八玉 △9四歩 ▲2七飛 △4二金 ▲6六角 △3一飛
▲1七香 △8四歩 ▲7七桂 △2一飛 ▲8六歩 △8三銀 ▲6四歩
 先手のほうから6六歩と角道を止めている。そして後手の森安は4三歩型を生かして駒組をしている。森安の「力戦好み」がここにも表われている。
 先手の桜井の作戦は「棒金」。昔から石田流に対してよく使われる戦法で、これは後手からの攻めを封じてじわじわと押していく「押さえ込み」が狙いである。この金が遊んでしまうと、後手のペースとなる。


△6四同歩 ▲3六歩 △2五桂 ▲3五金 △2六歩 ▲同飛 △2四歩 ▲6三歩 △7一角
▲4四歩 △同歩 ▲8五歩 △5三金 ▲8四歩 △7二銀
 今、後手森安が8三銀としたところ。これはチャンス!とみて、桜井は6四歩、同歩、3六歩と仕掛ける。8三銀は、これも相手の攻めを誘った意味もあるようだが。
 しかし対振り飛車で、こんなにうすい陣形のまま攻めていくというのも、現代にはあまりないセンスという気がする。


▲4五歩 △5二銀 ▲4四歩 △6三銀左 ▲2三歩 △5五歩 ▲2二歩成 △同飛
▲5五銀 △2一飛 ▲2三歩 △5一飛 ▲2四金 △5四歩 ▲2五飛 △5五歩 ▲8三桂
 8四歩の拠点ができて、先手の方が良さそうに見える。しかし先手の3五の金はこのままでは働かず、その意味では戦いを誘った後手の主張も通っている。先手玉もうすいし、これからの勝負だろう。
 ではあるが、この後手を持って、僕は勝てそうな気がしない。実際、先手優勢のようだ。
 観戦記者の奥山紅樹氏は、森安秀光の将棋の特徴を、“柔構造”と書いている。〔タテゆれ、ヨコゆれの衝撃をビル全体で受けとめ、吸収してしまう「柔構造」〕と。
 「だるま流」と呼んだのは、原田泰夫だったか。「鋼鉄のマシュマロ」と言ったのは…、誰だっけ?


△5四金 ▲7一桂成 △同金 ▲5六歩 △6五歩 ▲4八角 △8六歩
▲4二角 △6六桂 ▲8八玉 △8七銀
 8三桂に、どうするのか。5四金。森安は角を取らせた。
 そして8六歩と、森安のほうも敵陣に歩を垂らす。
 角と交換に桂馬をもらったので、後手からは次に6六桂という手がある。
 しかし8六歩は、4二角~8六角成が絶好に見える。そうなれば先手が万全だが、4二角の瞬間に、森安は6六桂、8八玉、8七銀と先手玉を押し込む。
 さて、後手の6六桂を、先手は「6六同角」と取る手はなかったか。実のところ、桜井昇はそう指そうかと迷った。
 6六角、同歩、5一角成、8七角、8九銀、6二銀。これでどうなるか。
 参考図
 ここで8三歩成という手があった。同玉は8五飛が絶好なので、後手は同銀と取るが、そこで2二飛。これで森安に適当な受けがなく、明解に先手が勝てる将棋だった。
 桜井はこの8三歩成が見えず、6六角を見送って8八玉としたのだった。


▲8九玉 △4一飛 ▲8六角成 △4四飛
 森安、4一飛と角取りに当てる。
 こうしてみると、森安はずっと前から、先手に4二角を打たせる構想で対応を組み立てていたのかもしれない。
 8六歩から、4四飛までの一連の流れは、振り飛車らしいあざやかなカウンター攻撃だ。
 しかしそれで振り飛車が優勢かどうかといえば、それは別問題で、ここはまだギリギリの勝負だったのだ。次の桜井の指し手で、勝負の明暗が定まった。


▲8七馬 △4八飛成 ▲6九歩 △5六歩 ▲4九歩 △5九龍 ▲6五桂 △5七歩成
▲7七金 △5六角 ▲9八玉 △5八龍 ▲9七玉 △8九角成 ▲8八馬 △6七と
▲8三銀 △同銀 ▲同歩成 △同玉 ▲8四歩 △同玉 ▲8七金 △8八馬 ▲同銀 △8五歩 ▲5一角 △6二歩 ▲4二角成 △5三歩 ▲8九歩 △6四角
 ここで後手の飛車の捌きを先手で止めようと4五歩などと指すのはヘボである。4五歩には、2四飛と金を取られ、8八歩、同銀、7八金でトン死する。
 ところが、桜井昇もまた、ここに来るまで、4四飛には4五歩で止まる――とそう考えていた。この前提があったので、この順を選んだのだ。これが大失敗。
 「4五歩が利かない」となれば、これまでの読みの前提がひっくり返ることになる。さあ、大変だ!
 桜井昇、残り時間は18分。
 ここでの正着は6六角だった。以下、8八歩、同銀、4九飛成、6九歩、6六歩、8七馬、8六歩、7八馬…。この変化を、森安はまだ難しいと考えていた。
 桜井はしかし、8七馬。
 ここからは桜井にチャンスはなかった。2筋の飛金が悲しい…。


まで130手で後手の勝ち

 こうして、2-0で桜井昇に勝って、森安秀光が新人王戦の2度目の優勝者となりました。
 森安は2年後にまた優勝して、新人王戦V3を達成しています。
 
 こうして棋譜を並べてみると、森安秀光の「崩れない強さ」が光ります。こういう将棋はだいたい終盤は熱戦になるので、並べていても楽しい。
 あと、気づいたことは時間の使い方のうまさと、それから対局姿勢の良さ。背筋がスッと伸びている。
 森安さんはしかしえらく不調な時期もあって、そういう時は酒びたりになり、ちょっと危険を感じる様子があったようです。先崎学のエッセイに出てくる、将棋に負けて酒場で妻の名前を叫びながら泣いている棋士というのは、(それが誰かは書いていないのですが)たぶん森安さんではと僕は思っています。


 桜井昇は残念でした。
 桜井さんは2007年に現役を引退されましたが、お弟子さんがたくさんいます。中田宏樹、飯島栄治、藤倉勇樹、横山泰明、村山慈明、伊藤真吾、千葉涼子です。プロになった弟子がこれだけ多いと、なんだか幸せそうなイメージしか浮かんできませんね。



 おっと、書き忘れるところでした。
 森安新手“3四飛”のほうは、江戸時代に前例が一つ見つかりました。


 はい、これです。1843年「八代伊藤宗印-庄川安五郎戦」。
 八代伊藤宗印というのは、明治時代になって十一世名人になったお方。将棋御三家最後の名人で、関根金次郎十三世名人の師匠でもあります。1826年生まれなのでこの対戦時は17歳ですか。
 後手番の、早石田を指しているのは、庄川安五郎さん。どんな人なんでしょう。


 早石田の記事
  『“ほんとうの立石流”の話
  『林葉の振飛車 part6

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