荒川を上流にさかのぼると、埼玉県の西部に達する。この山岳地域を「秩父」といい、ここに「和銅遺跡」がある。ここで「和銅」が発見されたので、それが大和朝廷に献上された。それが「おめでたい!」というので、元号が「和銅」になり、刑に処せられていた人が解放されたり、和同開珎が造られて発行された。708年のことである。
「和銅」とは、なにか?
3世紀ぐらいに、日本列島では、銅剣、銅矛、銅鐸がいくつも造られたことが判っている。青銅器である。銅にいくらかすずをまぜたもので、そうすると丈夫なものになる。ところが、その青銅の材料になる「銅」をどこで採掘したかとなると、日本には見当たらない。(鉄は出雲などで採れた) どうやら、朝鮮などで造られた青銅器を溶かして造りなおしたらしい。この時期、青銅や鉄の精錬技術は、朝鮮半島で発達していた。
まあ、それで、日本でも「銅を発見せよ」と全国におふれを出した。
そしたら、秩父で見つかって、見つけた朝鮮人がそれを大和に献上した。これがめでたい「和銅」である。しかもこの和銅は80パーセント以上が銅という超良質な自然銅で、だからむつかしい精錬技術を必要としなかった。その意味でも、大変におめでたかったのである。 (つまりこの銅山は鉱毒も発生しない)
ちなみに「和銅」の次の元号は「霊亀」で、この時には、大変めずらしい亀が献上された。「左の眼は白く、右の目は赤く、…背に七星を負い、…」 たしかに、めでたい。(ほんとうなのか?)
8世紀初頭のこの時期、権力を掌握していたのは藤原不比等(ふじわらのふひと、中臣鎌足の息子)だと言われている。
701年(大宝元年)には「大宝律令」が完成し、712年(和銅5年)には『古事記』を完成させている。梅原猛は、この『古事記』の作者もこの不比等だと言っている。(この説がどれほどの支持を得ているのかはしらない) 「不比等」とは「ほかに比べるものがないほどのすごいやつ」というような意味らしい。(自分で付けたのか?)
藤原不比等という男は、この「律令政治」を完成させた、いわば「権力のデザイナー」だったのである。「銅の鉱脈をさがせ」というのも、元号を「和銅」と呼びお祝いしたのも、その一環であろう。
この不比等から1世紀をさかのぼれば、聖徳太子がいる。聖徳太子にしても、不比等にしても、日本の「文字による文明」の基盤をデザインしたのである。(聖徳太子の記した歴史書は焼失して残っていないそうだ)
この古い時代、強い豪族は大和だけではなかったはずだ。一地方の一豪族である大和の「天皇」が、今も日本の中心に位置しているのは、この大和の豪族が「すすんだ文字文化」を持っていたからではないだろうか。記紀(『古事記』と『日本書紀』)は歴史書であり、同時にすぐれた文学でもある。文字は後世に残る。すぐれた文学が残れば、その家系が正統のものであるように輝いて見えるものである。
聖徳太子や、柿本人麻呂、菅原道真という人が、その死後も畏れられたのは、かれらが「文字をあやつる大魔法使い」だったからだろう。
ん? 銅のはなしが、なぜか文字のはなしになった。
現在の日本は、銅輸入国である。その半分以上は「銅線」として電線に使っているらしい。
10円玉は95パーセントが銅なんだと。その図案の建物は平等院鳳凰堂で、京都にあるこの建物は、不比等の子孫の藤原氏が11世紀に建てたものである。「不比等」←→「平等院」というつながりが、おもしろい。
それにしてもワタシは、なぜにこんなことを書いているのか。
「和銅」とは、なにか?
3世紀ぐらいに、日本列島では、銅剣、銅矛、銅鐸がいくつも造られたことが判っている。青銅器である。銅にいくらかすずをまぜたもので、そうすると丈夫なものになる。ところが、その青銅の材料になる「銅」をどこで採掘したかとなると、日本には見当たらない。(鉄は出雲などで採れた) どうやら、朝鮮などで造られた青銅器を溶かして造りなおしたらしい。この時期、青銅や鉄の精錬技術は、朝鮮半島で発達していた。
まあ、それで、日本でも「銅を発見せよ」と全国におふれを出した。
そしたら、秩父で見つかって、見つけた朝鮮人がそれを大和に献上した。これがめでたい「和銅」である。しかもこの和銅は80パーセント以上が銅という超良質な自然銅で、だからむつかしい精錬技術を必要としなかった。その意味でも、大変におめでたかったのである。 (つまりこの銅山は鉱毒も発生しない)
ちなみに「和銅」の次の元号は「霊亀」で、この時には、大変めずらしい亀が献上された。「左の眼は白く、右の目は赤く、…背に七星を負い、…」 たしかに、めでたい。(ほんとうなのか?)
8世紀初頭のこの時期、権力を掌握していたのは藤原不比等(ふじわらのふひと、中臣鎌足の息子)だと言われている。
701年(大宝元年)には「大宝律令」が完成し、712年(和銅5年)には『古事記』を完成させている。梅原猛は、この『古事記』の作者もこの不比等だと言っている。(この説がどれほどの支持を得ているのかはしらない) 「不比等」とは「ほかに比べるものがないほどのすごいやつ」というような意味らしい。(自分で付けたのか?)
藤原不比等という男は、この「律令政治」を完成させた、いわば「権力のデザイナー」だったのである。「銅の鉱脈をさがせ」というのも、元号を「和銅」と呼びお祝いしたのも、その一環であろう。
この不比等から1世紀をさかのぼれば、聖徳太子がいる。聖徳太子にしても、不比等にしても、日本の「文字による文明」の基盤をデザインしたのである。(聖徳太子の記した歴史書は焼失して残っていないそうだ)
この古い時代、強い豪族は大和だけではなかったはずだ。一地方の一豪族である大和の「天皇」が、今も日本の中心に位置しているのは、この大和の豪族が「すすんだ文字文化」を持っていたからではないだろうか。記紀(『古事記』と『日本書紀』)は歴史書であり、同時にすぐれた文学でもある。文字は後世に残る。すぐれた文学が残れば、その家系が正統のものであるように輝いて見えるものである。
聖徳太子や、柿本人麻呂、菅原道真という人が、その死後も畏れられたのは、かれらが「文字をあやつる大魔法使い」だったからだろう。
ん? 銅のはなしが、なぜか文字のはなしになった。
現在の日本は、銅輸入国である。その半分以上は「銅線」として電線に使っているらしい。
10円玉は95パーセントが銅なんだと。その図案の建物は平等院鳳凰堂で、京都にあるこの建物は、不比等の子孫の藤原氏が11世紀に建てたものである。「不比等」←→「平等院」というつながりが、おもしろい。
それにしてもワタシは、なぜにこんなことを書いているのか。
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