渡辺明竜王が表紙の、『将棋世界』1月号。 2か月前に出たものです。
この中に「双龍戦」という良い企画があるのですが、この1月号に載った「清水上徹‐永瀬拓矢戦」が面白かった。清水上さんは有名なアマ強豪で、永瀬さんは昨年秋に、新人王戦、加古川青流戦と2つの棋戦で優勝したばかりの若手実力者。
清水上徹‐永瀬拓矢
こういう出だしでした。初手より、7六歩、3四歩、9六歩。
これはお互いに振飛車党の場合、割とある出だしなんですね。先手の清水上さんも、後手の永瀬さんも振り飛車が得意です。
ところがその後が違った。永瀬の4手目1四歩に、清水上9五歩。
これはつまり、徹底的に「居飛車と振飛車の対抗形にはしないぞ」という清水上さんの考えてきた方針なんです。後手の永瀬さんが「対抗形」を得意としているとみた清水上さんは、向こうが振り飛車なら自分も振って「相振飛車」にする、向こうが居飛車でくれば「相居飛車」でと、そういう作戦を立ててきたわけです。
端歩を突いた場合、この場合は居飛車が得、この場合は振飛車が得、といった細かな損得が生じますが、それが勝敗に直結する場合も、こういうトップの実力者同士ではあるのです。
結局、後手永瀬拓矢さんは、6手目に8四歩とし、そこで清水上さんは予定通り2六歩から相居飛車の「相掛かり」の戦型となりました。
この観戦記には、永瀬さんが「△7六飛」と横歩を取るのは、「2二角成、同銀、3四飛の相横歩をやられて損だと思った」と言ったことが書いてあります。
ということでこの「清水上徹‐永瀬拓矢戦」は、後手が横歩を取らず8四飛と引き、図のようになります。お互いに浮き飛車です。この後も面白い展開になるのですが、興味がある方は図書館などで『将棋世界』1月号をお読みください。(結果は清水上さんの勝ち)
ちなみに、後手の永瀬さんが8四歩とせずに、「1五歩」だったら、先手の清水上さんの予定は、2六歩だったとのことです。その場合、後手が振り飛車にすれば“対抗形”になるのですが、すると居飛車の「9五歩」と振り飛車の「1五歩」とでは、玉に近い「9五歩」のほうが働いている、というのが清水上さんの主張だと思われます。
永瀬拓矢さん、先月の順位戦の対局(牧野光則戦)では振り飛車ではなく、相居飛車で闘っていました。「横歩取り」の後手番でしたが、この将棋は永瀬五段が勝ちました。あるいは、この清水上さんとのこの対局の経験があって、「居飛車も指しこなせないとだめだ」と思ったのかもしれませんね。
さて、「9六歩型相横歩」の棋譜を調べています。その第3回目。
今日は次の2つの棋譜を紹介します。
(1)塚田正夫‐大山康晴 1962年 棋聖戦
(2)塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦
実はこの(2)の将棋は「9六歩型相横歩」にはならなかった将棋ですが、冒頭で紹介した「清水上徹‐永瀬拓矢戦」と同じオープニングで始まる将棋だったのです。
(1)塚田正夫‐大山康晴 1962年 棋聖戦
まず、こちらから。
これは第1回の「棋聖位」を決めるためのリーグ戦(塚田、大山、升田の三者によるリーグ戦)の一局。
おそらくはこれがプロ公式戦初の「9六歩型相横歩」。仕掛け人は塚田正夫だったのですね。
ここから、8八飛、7二金、3八金、2六飛、2七歩、と進みます。
8八飛と先手が引いたのは、後手からの7五角を避けるためで、この手の代わりに5八玉も考えられます。
後手は「7二金、3八金」としてから、2六飛と回りましたが、これは後手一手損になります。
というのは、先手はすでに3八金としているので、2六飛に、「2七歩」と打てる。「7二金、3八金」の手の交換の前に2六飛なら、先手は2八歩とするしかない。この形は2筋を守るため、2七歩とする手が後で必ず必要となるので、2八歩と打たせる方が結果的に一手、後手は得になるのです。
まあ、後手の大山康晴は序盤のその程度の損得は気にしていないかもしれません。
大山康晴はこの時、名人、十段、王将、王位とすべてのタイトルを保持していました。結局、新しくできたタイトル、棋聖位も収めて五冠王になるのですが。
先手の塚田元名人は、「6六歩~6七銀型」に構えました。
このように、この「9六歩型相横歩」の戦型は、後手の銀が前進して先手が受け身になりがちです。後手大山名人の「4五銀」は、飛車の横利きを通すとともに、先手の指したい「3六歩」という手を指させない、という意味があります。
ということで、先手は指す手がないように見える。塚田さんの次の手は?
塚田、4九飛。 対して、大山、4四飛。
塚田さんは4九飛として、次に4六歩であの銀を後退させようとしましたが、大山さんは、そうはさせませんよと、4四飛。意地悪ですね~。
ということで、塚田さんはここで2六歩~2七銀とします。
後手は7四歩~7五歩。
この戦型、先手に苦労が多いように見えます。
後手の7六歩を防いで、先手は6五角と、角を手放しました。
角を打っている分、それが目標にされて先手がつらい感じ。
銀交換になりました。
ここで7五角と大山も角を打ちます。先手の玉頭が寒すぎる!
先手も攻め合ってと金ができました。
図から、6六歩、5五歩、4四歩、5六歩、同角、5七銀、4九玉、3七歩。
4五角、3八歩成、同玉、4四飛、5三銀、同角、同と、同玉、3五角。
塚田、王手飛車を敵玉にかけました!
まあでも、これは大山名人の読み筋なのでしょう。
4六銀打、5六桂、3五銀、4四桂、同銀、7二角成、4二玉。
5四馬、4五桂、8二飛、5二歩、8一飛成に、3七歩、同桂、同桂成、同玉、4五桂、3八玉、3七金、2九玉、2七金。
「4五桂」と打つのが早い寄せになるんですね。
投了図
2七金まで、大山康晴の勝ち。
棋聖リーグの結果、あらためて大山・塚田の五番勝負が行われて、大山が制し、第1期棋聖位に就きます。五冠王です。もちろん、当時のタイトルの全てです。
どうも「9六歩型相横歩」、先手がうまくいきませんねえ。「9六歩」と突いた手があまり有効手になっておらず、後手の左銀に中央で威張らせてしまいます。
永瀬さんは「(7六飛は)相横歩をやられて損だと思った」と言ったのですが、「9五歩型」だと状況が変わるのでしょうか。
(2)塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦
塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦
この将棋は『升田幸三選集』に解説があります。
升田〔 角筋をお互いに開けて▲9六歩。塚田さんは先番のときによくこの手を指す。△8四歩か△4四歩かの様子見だ。手将棋を得意とする塚田好みの一手である。それならこっちもで△1四歩。するとまた▲9五歩だ。これ以上はつき合い切れんから△8四歩とした。△1四歩はともかく、△1五歩はちょっと早い。 〕
上の「清水上徹‐永瀬拓矢戦」とまったく同じ手順です。しかし図から、8四飛、2八飛、3三桂と進み、ここでは別れています。
升田〔 私は塚田さんの▲9五歩をとがめる手はないかと思いながら指し手をすすめていたが、手拍子に△2五歩と打ってから気づいた。次の順である。▲9四歩△同歩▲9六歩△同香▲8六飛(参考図)。このあと▲8二歩△同銀▲9三歩成△同桂▲同香成△同香が予想されるが、香を持てば△2六歩(▲同飛は△2五香)などの筋が生じるからこっちが優勢だ。塚田さんはこの筋に気づいていなかった。 〕
参考図
升田〔 チャンスを見逃したために将棋はがらりと変わって塚田ペース。 〕
こうなりました。先手の塚田さんが将棋を楽しんでいる感じです。
4四歩が後手升田のミス。塚田に7五金と出られて6四の歩を取られてしまう。4四歩では先に3四飛が正着。
7四飛に、8六飛、3六歩、5六金、5四飛。
7五歩、6二銀、4四歩。
塚田の7五歩が大胆な手で、後手からの4六角、同金、5七飛成は、5八歩で大丈夫と見ている。升田はそれが予定だったが、塚田に「やってこい」とされると行く気がしなくなった。しかしそれが失敗だった。
升田〔 それにしても△6二銀は手拍子としかいいようがない。 〕
6六歩、同飛、8四飛、7八銀、7四歩。
升田〔 ▲7八銀がしゃれた手である。 〕
塚田正夫、好調。
升田〔 △7四歩は盤上この一手。歩切れを補い△7三桂の活用を図った。 〕
升田もなんとかバランスを取って、勝負形になってきた。
升田〔 狙いはわかっていた。△6四銀で△5四銀とすればこの狙いは消せたが、それでは勝負所どころを失う。 〕
塚田の「狙い」とは、4三歩成、同銀、3三角成、同金、6六桂。
升田の飛車が死んだ。 わかっていて打たせるのがプロの技。
升田、6三角。
しかし取った飛車を打ち込まれて、升田陣、大丈夫か。
升田〔 ▲1一飛成で私に手番が回ってきたが、△2七歩成が突っ込みに欠けた手で、せっかくの好機を取り逃がしてしまった。単に△1五角である。▲1六歩は△2七歩成▲1五歩△3八と。これは私のほうがよい。だから△1五角には▲6八玉であろうが、そこで△2七歩成▲同歩△7六桂▲5八玉△5六角▲同歩△6八金▲4七玉△5九角成となる。途中、△5六角と切らずに△5五銀もあるから有力な順だった。 〕
実戦は2七歩成を塚田が「同金」と取って、升田の1五角に4八歩と受けた。以下4六桂、4七銀、5五銀、1六歩。
歩をなる前に1五角なら、先手が4八歩と受ければ、4六桂が金取りになるので全然違ったということです。実戦は2七歩成を同金と取って、4六桂が空を切ったわけです。
1六歩に、升田5一角と退却。
升田〔 まったくもってどうかしている。これで勝負どころをなくした。 〕
7二金、同玉、5二竜、まで119手で塚田正夫の勝ち。
この期、1962年度のA級順位戦は二上達也(羽生善治の師匠)が優勝し、名人挑戦権を獲得。二上の名人挑戦はこれが2回目でした。二上さんは32歳で絶好調の時期でしたが、大山康晴名人はさらに強く、4―2で大山名人の防衛となっています。
内藤国雄‐大山康晴 1969年
さてこれは1969年の内藤国雄‐大山康晴戦。先手番の内藤国雄の「空中戦法」になっています。(本来は「空中戦法」は後手番)
一般には、「空中戦法」は1969年12月の中原誠対内藤国雄の棋聖戦五番勝負第2局で誕生したということになっていますが、実際にはこのように、それよりも半年ほど早い同じ年の5月に、内藤さんは大山名人との対局で「空中戦法」を指しています。
でも、どうして先後が逆になっているのか。また、なぜ大山さんが「横歩取り」を指しているのか。
その内藤‐大山戦の出だし。初手から、7六歩、3四歩、9六歩。
内藤さんも、大山名人も、「何でも指す」というタイプです。ですがどちらも「あまり好きではない」という戦型があり、それが内藤さんの場合は「矢倉」、大山さんの場合は「相振飛車」。
ということで、先手の内藤さんは大山名人の嫌がる「相振飛車」をさそい、後手の大山名人はそれを感じ取って、ここで8四歩と指します。
この頃の大山内藤戦はだいたい「どちらかが飛車を振る」という将棋だったのです。
ところがこの日の内藤さんは2六歩…。
となって、後手大山の横歩取り、先手の内藤は「7七角」で空中戦という流れです。
結果は内藤勝ち。大山名人に分の悪かった内藤国雄ですが、この対局の経験で、「横歩取り、いけるで!」と思ったかもしれません。(はっきり確証はとれていないのですけど、これが内藤さんの対大山戦7戦目での初勝利ではないかと思います。)
ところで、こういう「端歩のかけひき」はもっと昔からあります。
塚田正夫‐大山康晴 1948年 名人戦4
これはあの「高野山の決戦」で、大山康晴が升田幸三に勝って、名人の塚田正夫に挑戦した時の第7期名人戦、その第4局。
「相掛り」の先手番で、塚田正夫がここで「1六歩」と突いています。
これはどういう意味でしょうか。当時の観戦記によれば、これは塚田が「考えてきた作戦」とのこと。その観戦記を読むと、これは塚田正夫の考えたオリジナルの作戦のように思えるのですが…。
大山康晴‐塚田正夫 1948年 名人戦1
ところが妙なことに、その同じ名人戦の第1局で、この7手目の「1六歩」は大山康晴の手によって、先に指されているではありませんか!
最近出た『大山康晴名局集』にこの将棋の大山自身の解説があります。それを読むと、
〔 ▲1六歩も早い感じだが、当時の流行手で、急戦含みの指し方といえるものだった。 〕
とあります。
僕なりにこの手の意味を考えてみますと、この早い「1六歩」は、先に2四歩から飛車先交換をしてしまうと先手は「2六飛型」にするか、「2八飛型」にするか選択しなければならない。その選択を保留にして「1六歩」とし、相手の態度をみたのかと思います。
まあ、こういう駆け引きがこの当時(戦後まもなく)、流行っていたということです。(しかしこの時期は振り飛車はほとんど指されていなかったので、初手から7六歩、3四歩、9六歩の出だしはありませんでした。)
この将棋(第7期名人戦第1局)は、先手の大山がこのような戦術を取ります。
後に戦法に名前を付けるのが大好きな加藤治郎氏が、この浮き飛車で右銀を3七~4六と繰り出して3五歩からの仕掛けをねらうこの戦法を「大山式」と命名したのですが、今ではこの指し方、「中原流」と呼ばれていますね。実は大山康晴が「中原流」の創始者だったのです。(世相を反映して「殴り込み戦法」などと当時は呼ばれていたと大山自戦記には書かれている。当時はみんな心が荒れていたということでしょうか。他の誰かがこう指しているのをみて、大山さんが採用したのかもしれません。)
以前から、「相掛かり」で4六銀から3五歩をねらう仕掛けはあったのですが、戦前のそれは5筋の歩が「5六歩」と突いてありました。そこを突かずに4六銀から3五歩、というのが新しい形なのでした。
この第1局は大山勝ち。 名人位は、4―2で塚田名人が防衛しました。
深浦康市‐羽生善治 1996年 王位戦1
「初手9六歩」という将棋もいくつかありまして、タイトル戦で現れたのはこれ。
1996年王位戦、羽生善治王位を相手に、挑戦者深浦康市(当時五段、24歳)が初手9六歩!
以下、3四歩、5六歩、8四歩、5八飛、6二銀、5五歩。
これは漫画つのだじろう作『5五の龍』で、主人公が得意としていた「5五龍中飛車」というやつ。深浦さん本人は漫画の方は知らず指していたそうですが。
しかしタイトル戦初登場で「初手9六歩」とは、深浦、やりますな。 当時の羽生さんは六冠王でした。
おもしろい将棋でした。結果は後手の羽生王位の勝ち。
【追記】 『升田幸三選集』をよく読めば、(2)塚田‐升田戦の序盤について、次のように説明が書いてありました。
〔 △7六飛を誘っているのがわかった。以下▲2二角成△同銀▲3四飛△3三銀▲3六飛の交換強要だ。飛車を持てば▲9四歩から▲9二歩で▲9一飛がある。 〕とあったが、これはどうなのだろう?
▲3六飛以下、飛車角交換するとこの図になる。
現代の定跡手(端歩の突いていない型の場合)は△6四角だが、この△6四角からの激しい将棋になれば、先手からの▲9四歩~▲9二歩はとても間に合う展開にはならない気がするが。(この『升田幸三選集』の発行は1980年代後半である。)
この中に「双龍戦」という良い企画があるのですが、この1月号に載った「清水上徹‐永瀬拓矢戦」が面白かった。清水上さんは有名なアマ強豪で、永瀬さんは昨年秋に、新人王戦、加古川青流戦と2つの棋戦で優勝したばかりの若手実力者。
清水上徹‐永瀬拓矢
こういう出だしでした。初手より、7六歩、3四歩、9六歩。
これはお互いに振飛車党の場合、割とある出だしなんですね。先手の清水上さんも、後手の永瀬さんも振り飛車が得意です。
ところがその後が違った。永瀬の4手目1四歩に、清水上9五歩。
これはつまり、徹底的に「居飛車と振飛車の対抗形にはしないぞ」という清水上さんの考えてきた方針なんです。後手の永瀬さんが「対抗形」を得意としているとみた清水上さんは、向こうが振り飛車なら自分も振って「相振飛車」にする、向こうが居飛車でくれば「相居飛車」でと、そういう作戦を立ててきたわけです。
端歩を突いた場合、この場合は居飛車が得、この場合は振飛車が得、といった細かな損得が生じますが、それが勝敗に直結する場合も、こういうトップの実力者同士ではあるのです。
結局、後手永瀬拓矢さんは、6手目に8四歩とし、そこで清水上さんは予定通り2六歩から相居飛車の「相掛かり」の戦型となりました。
この観戦記には、永瀬さんが「△7六飛」と横歩を取るのは、「2二角成、同銀、3四飛の相横歩をやられて損だと思った」と言ったことが書いてあります。
ということでこの「清水上徹‐永瀬拓矢戦」は、後手が横歩を取らず8四飛と引き、図のようになります。お互いに浮き飛車です。この後も面白い展開になるのですが、興味がある方は図書館などで『将棋世界』1月号をお読みください。(結果は清水上さんの勝ち)
ちなみに、後手の永瀬さんが8四歩とせずに、「1五歩」だったら、先手の清水上さんの予定は、2六歩だったとのことです。その場合、後手が振り飛車にすれば“対抗形”になるのですが、すると居飛車の「9五歩」と振り飛車の「1五歩」とでは、玉に近い「9五歩」のほうが働いている、というのが清水上さんの主張だと思われます。
永瀬拓矢さん、先月の順位戦の対局(牧野光則戦)では振り飛車ではなく、相居飛車で闘っていました。「横歩取り」の後手番でしたが、この将棋は永瀬五段が勝ちました。あるいは、この清水上さんとのこの対局の経験があって、「居飛車も指しこなせないとだめだ」と思ったのかもしれませんね。
さて、「9六歩型相横歩」の棋譜を調べています。その第3回目。
今日は次の2つの棋譜を紹介します。
(1)塚田正夫‐大山康晴 1962年 棋聖戦
(2)塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦
実はこの(2)の将棋は「9六歩型相横歩」にはならなかった将棋ですが、冒頭で紹介した「清水上徹‐永瀬拓矢戦」と同じオープニングで始まる将棋だったのです。
(1)塚田正夫‐大山康晴 1962年 棋聖戦
まず、こちらから。
これは第1回の「棋聖位」を決めるためのリーグ戦(塚田、大山、升田の三者によるリーグ戦)の一局。
おそらくはこれがプロ公式戦初の「9六歩型相横歩」。仕掛け人は塚田正夫だったのですね。
ここから、8八飛、7二金、3八金、2六飛、2七歩、と進みます。
8八飛と先手が引いたのは、後手からの7五角を避けるためで、この手の代わりに5八玉も考えられます。
後手は「7二金、3八金」としてから、2六飛と回りましたが、これは後手一手損になります。
というのは、先手はすでに3八金としているので、2六飛に、「2七歩」と打てる。「7二金、3八金」の手の交換の前に2六飛なら、先手は2八歩とするしかない。この形は2筋を守るため、2七歩とする手が後で必ず必要となるので、2八歩と打たせる方が結果的に一手、後手は得になるのです。
まあ、後手の大山康晴は序盤のその程度の損得は気にしていないかもしれません。
大山康晴はこの時、名人、十段、王将、王位とすべてのタイトルを保持していました。結局、新しくできたタイトル、棋聖位も収めて五冠王になるのですが。
先手の塚田元名人は、「6六歩~6七銀型」に構えました。
このように、この「9六歩型相横歩」の戦型は、後手の銀が前進して先手が受け身になりがちです。後手大山名人の「4五銀」は、飛車の横利きを通すとともに、先手の指したい「3六歩」という手を指させない、という意味があります。
ということで、先手は指す手がないように見える。塚田さんの次の手は?
塚田、4九飛。 対して、大山、4四飛。
塚田さんは4九飛として、次に4六歩であの銀を後退させようとしましたが、大山さんは、そうはさせませんよと、4四飛。意地悪ですね~。
ということで、塚田さんはここで2六歩~2七銀とします。
後手は7四歩~7五歩。
この戦型、先手に苦労が多いように見えます。
後手の7六歩を防いで、先手は6五角と、角を手放しました。
角を打っている分、それが目標にされて先手がつらい感じ。
銀交換になりました。
ここで7五角と大山も角を打ちます。先手の玉頭が寒すぎる!
先手も攻め合ってと金ができました。
図から、6六歩、5五歩、4四歩、5六歩、同角、5七銀、4九玉、3七歩。
4五角、3八歩成、同玉、4四飛、5三銀、同角、同と、同玉、3五角。
塚田、王手飛車を敵玉にかけました!
まあでも、これは大山名人の読み筋なのでしょう。
4六銀打、5六桂、3五銀、4四桂、同銀、7二角成、4二玉。
5四馬、4五桂、8二飛、5二歩、8一飛成に、3七歩、同桂、同桂成、同玉、4五桂、3八玉、3七金、2九玉、2七金。
「4五桂」と打つのが早い寄せになるんですね。
投了図
2七金まで、大山康晴の勝ち。
棋聖リーグの結果、あらためて大山・塚田の五番勝負が行われて、大山が制し、第1期棋聖位に就きます。五冠王です。もちろん、当時のタイトルの全てです。
どうも「9六歩型相横歩」、先手がうまくいきませんねえ。「9六歩」と突いた手があまり有効手になっておらず、後手の左銀に中央で威張らせてしまいます。
永瀬さんは「(7六飛は)相横歩をやられて損だと思った」と言ったのですが、「9五歩型」だと状況が変わるのでしょうか。
(2)塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦
塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦
この将棋は『升田幸三選集』に解説があります。
升田〔 角筋をお互いに開けて▲9六歩。塚田さんは先番のときによくこの手を指す。△8四歩か△4四歩かの様子見だ。手将棋を得意とする塚田好みの一手である。それならこっちもで△1四歩。するとまた▲9五歩だ。これ以上はつき合い切れんから△8四歩とした。△1四歩はともかく、△1五歩はちょっと早い。 〕
上の「清水上徹‐永瀬拓矢戦」とまったく同じ手順です。しかし図から、8四飛、2八飛、3三桂と進み、ここでは別れています。
升田〔 私は塚田さんの▲9五歩をとがめる手はないかと思いながら指し手をすすめていたが、手拍子に△2五歩と打ってから気づいた。次の順である。▲9四歩△同歩▲9六歩△同香▲8六飛(参考図)。このあと▲8二歩△同銀▲9三歩成△同桂▲同香成△同香が予想されるが、香を持てば△2六歩(▲同飛は△2五香)などの筋が生じるからこっちが優勢だ。塚田さんはこの筋に気づいていなかった。 〕
参考図
升田〔 チャンスを見逃したために将棋はがらりと変わって塚田ペース。 〕
こうなりました。先手の塚田さんが将棋を楽しんでいる感じです。
4四歩が後手升田のミス。塚田に7五金と出られて6四の歩を取られてしまう。4四歩では先に3四飛が正着。
7四飛に、8六飛、3六歩、5六金、5四飛。
7五歩、6二銀、4四歩。
塚田の7五歩が大胆な手で、後手からの4六角、同金、5七飛成は、5八歩で大丈夫と見ている。升田はそれが予定だったが、塚田に「やってこい」とされると行く気がしなくなった。しかしそれが失敗だった。
升田〔 それにしても△6二銀は手拍子としかいいようがない。 〕
6六歩、同飛、8四飛、7八銀、7四歩。
升田〔 ▲7八銀がしゃれた手である。 〕
塚田正夫、好調。
升田〔 △7四歩は盤上この一手。歩切れを補い△7三桂の活用を図った。 〕
升田もなんとかバランスを取って、勝負形になってきた。
升田〔 狙いはわかっていた。△6四銀で△5四銀とすればこの狙いは消せたが、それでは勝負所どころを失う。 〕
塚田の「狙い」とは、4三歩成、同銀、3三角成、同金、6六桂。
升田の飛車が死んだ。 わかっていて打たせるのがプロの技。
升田、6三角。
しかし取った飛車を打ち込まれて、升田陣、大丈夫か。
升田〔 ▲1一飛成で私に手番が回ってきたが、△2七歩成が突っ込みに欠けた手で、せっかくの好機を取り逃がしてしまった。単に△1五角である。▲1六歩は△2七歩成▲1五歩△3八と。これは私のほうがよい。だから△1五角には▲6八玉であろうが、そこで△2七歩成▲同歩△7六桂▲5八玉△5六角▲同歩△6八金▲4七玉△5九角成となる。途中、△5六角と切らずに△5五銀もあるから有力な順だった。 〕
実戦は2七歩成を塚田が「同金」と取って、升田の1五角に4八歩と受けた。以下4六桂、4七銀、5五銀、1六歩。
歩をなる前に1五角なら、先手が4八歩と受ければ、4六桂が金取りになるので全然違ったということです。実戦は2七歩成を同金と取って、4六桂が空を切ったわけです。
1六歩に、升田5一角と退却。
升田〔 まったくもってどうかしている。これで勝負どころをなくした。 〕
7二金、同玉、5二竜、まで119手で塚田正夫の勝ち。
この期、1962年度のA級順位戦は二上達也(羽生善治の師匠)が優勝し、名人挑戦権を獲得。二上の名人挑戦はこれが2回目でした。二上さんは32歳で絶好調の時期でしたが、大山康晴名人はさらに強く、4―2で大山名人の防衛となっています。
内藤国雄‐大山康晴 1969年
さてこれは1969年の内藤国雄‐大山康晴戦。先手番の内藤国雄の「空中戦法」になっています。(本来は「空中戦法」は後手番)
一般には、「空中戦法」は1969年12月の中原誠対内藤国雄の棋聖戦五番勝負第2局で誕生したということになっていますが、実際にはこのように、それよりも半年ほど早い同じ年の5月に、内藤さんは大山名人との対局で「空中戦法」を指しています。
でも、どうして先後が逆になっているのか。また、なぜ大山さんが「横歩取り」を指しているのか。
その内藤‐大山戦の出だし。初手から、7六歩、3四歩、9六歩。
内藤さんも、大山名人も、「何でも指す」というタイプです。ですがどちらも「あまり好きではない」という戦型があり、それが内藤さんの場合は「矢倉」、大山さんの場合は「相振飛車」。
ということで、先手の内藤さんは大山名人の嫌がる「相振飛車」をさそい、後手の大山名人はそれを感じ取って、ここで8四歩と指します。
この頃の大山内藤戦はだいたい「どちらかが飛車を振る」という将棋だったのです。
ところがこの日の内藤さんは2六歩…。
となって、後手大山の横歩取り、先手の内藤は「7七角」で空中戦という流れです。
結果は内藤勝ち。大山名人に分の悪かった内藤国雄ですが、この対局の経験で、「横歩取り、いけるで!」と思ったかもしれません。(はっきり確証はとれていないのですけど、これが内藤さんの対大山戦7戦目での初勝利ではないかと思います。)
ところで、こういう「端歩のかけひき」はもっと昔からあります。
塚田正夫‐大山康晴 1948年 名人戦4
これはあの「高野山の決戦」で、大山康晴が升田幸三に勝って、名人の塚田正夫に挑戦した時の第7期名人戦、その第4局。
「相掛り」の先手番で、塚田正夫がここで「1六歩」と突いています。
これはどういう意味でしょうか。当時の観戦記によれば、これは塚田が「考えてきた作戦」とのこと。その観戦記を読むと、これは塚田正夫の考えたオリジナルの作戦のように思えるのですが…。
大山康晴‐塚田正夫 1948年 名人戦1
ところが妙なことに、その同じ名人戦の第1局で、この7手目の「1六歩」は大山康晴の手によって、先に指されているではありませんか!
最近出た『大山康晴名局集』にこの将棋の大山自身の解説があります。それを読むと、
〔 ▲1六歩も早い感じだが、当時の流行手で、急戦含みの指し方といえるものだった。 〕
とあります。
僕なりにこの手の意味を考えてみますと、この早い「1六歩」は、先に2四歩から飛車先交換をしてしまうと先手は「2六飛型」にするか、「2八飛型」にするか選択しなければならない。その選択を保留にして「1六歩」とし、相手の態度をみたのかと思います。
まあ、こういう駆け引きがこの当時(戦後まもなく)、流行っていたということです。(しかしこの時期は振り飛車はほとんど指されていなかったので、初手から7六歩、3四歩、9六歩の出だしはありませんでした。)
この将棋(第7期名人戦第1局)は、先手の大山がこのような戦術を取ります。
後に戦法に名前を付けるのが大好きな加藤治郎氏が、この浮き飛車で右銀を3七~4六と繰り出して3五歩からの仕掛けをねらうこの戦法を「大山式」と命名したのですが、今ではこの指し方、「中原流」と呼ばれていますね。実は大山康晴が「中原流」の創始者だったのです。(世相を反映して「殴り込み戦法」などと当時は呼ばれていたと大山自戦記には書かれている。当時はみんな心が荒れていたということでしょうか。他の誰かがこう指しているのをみて、大山さんが採用したのかもしれません。)
以前から、「相掛かり」で4六銀から3五歩をねらう仕掛けはあったのですが、戦前のそれは5筋の歩が「5六歩」と突いてありました。そこを突かずに4六銀から3五歩、というのが新しい形なのでした。
この第1局は大山勝ち。 名人位は、4―2で塚田名人が防衛しました。
深浦康市‐羽生善治 1996年 王位戦1
「初手9六歩」という将棋もいくつかありまして、タイトル戦で現れたのはこれ。
1996年王位戦、羽生善治王位を相手に、挑戦者深浦康市(当時五段、24歳)が初手9六歩!
以下、3四歩、5六歩、8四歩、5八飛、6二銀、5五歩。
これは漫画つのだじろう作『5五の龍』で、主人公が得意としていた「5五龍中飛車」というやつ。深浦さん本人は漫画の方は知らず指していたそうですが。
しかしタイトル戦初登場で「初手9六歩」とは、深浦、やりますな。 当時の羽生さんは六冠王でした。
おもしろい将棋でした。結果は後手の羽生王位の勝ち。
【追記】 『升田幸三選集』をよく読めば、(2)塚田‐升田戦の序盤について、次のように説明が書いてありました。
〔 △7六飛を誘っているのがわかった。以下▲2二角成△同銀▲3四飛△3三銀▲3六飛の交換強要だ。飛車を持てば▲9四歩から▲9二歩で▲9一飛がある。 〕とあったが、これはどうなのだろう?
▲3六飛以下、飛車角交換するとこの図になる。
現代の定跡手(端歩の突いていない型の場合)は△6四角だが、この△6四角からの激しい将棋になれば、先手からの▲9四歩~▲9二歩はとても間に合う展開にはならない気がするが。(この『升田幸三選集』の発行は1980年代後半である。)
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