はんどろやノート

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小堀流、名人戦に登場!

2013年01月08日 | 横歩取りスタディ
 1950年頃の大山康晴(15世名人)の将棋の観戦記を読んでいたら、「ますます湯川に似てきた」というような記述がありました。具体的にどの対局だったかわからないのですが。「湯川」とは湯川秀樹博士のことであります。たしかにまあメガネと御凸が似てますか。(おでこって、御凸と書くんですなあ、今知りました。)
 湯川秀樹さんがノーベル物理学賞を受賞したのは1949年。(『“核力”の正体は?』)




塚田正夫‐升田幸三 1953年2月


 前回の続き、“小堀流4二玉”の棋譜調べ。
 初手より、7六歩、3四歩、2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金、2四歩、同歩、同飛、4二玉(上図)。これが“小堀流”。
 1953年2月、塚田正夫‐小堀清一戦で初めてA級順位戦に現れた“小堀流4二玉”、これが同じ月の2月28日のA級順位戦の対局、塚田正夫‐升田幸三に出現しました。後手の升田幸三がこの重要な対局(名人戦挑戦権争い)で“小堀流”を用いたのです!

 上図で、先手に「3四飛」と横歩を取らせるのが、“小堀流4二玉”のねらい。前局の塚田‐小堀戦はそう進みました。これは横歩取りの将棋によく見られる「空中戦」のような将棋になります。



 しかし、今回の塚田正夫の選んだ指し手は「7七金」です。“小堀流”に対する指し方としては、この当時「3四飛」よりも、「7七金」を選ぶ人の方が多かった。
 「7七金」に、8四飛(横歩を取らせない)がこれまでは指されていたが、升田幸三は新手を出しました。
 「6二銀」。 横歩は取ってもいいよ、というのです。
 それならと塚田は横歩を取った。
 さあ、どうなるか。  


 そして図のようになりました。
 後手の升田は「棒銀」で「中住まい玉」。 先手塚田の「2五飛」は、後手のねらう仕掛け7五歩を防いだもの。
 先手は「7七金型」なので、そのまま角を引き角で使うためには、「7八銀」とすることとなり、この先手の金銀の並びはいつもと逆さまなので「逆形」と呼ばれ、あまりよくない姿とされています。ということで最近ではこの「7七金型」はすっかり見なくなったのですが、この頃は後手が「横歩取らせ」を誘ってきた場合の対策として「7七金」はわりと人気の対策でした。


 上の図から、先手の塚田の飛車は、2八~8八~5八と動き、この図となりました。


 先手が7五金とぶつけて駒交換を迫った手に、後手の升田は6三銀とかわす。
 塚田正夫は、出るかと思ったら引っ込んで…という駒の使い方をして周囲の意表を突くことが多かったので、「塚田の屈伸戦法」と呼ばれました。始めは「屈折戦法」とされたのですが、屈折だと折れてばかりじゃないかそれは違うと本人からクレームがきて、「屈伸」に変更されたようです。ただし具体的に「屈伸戦法」はこれだ、というものは存在しませんので探しても無駄。
 この後手升田の6三銀は、塚田ではなく、升田の「屈伸戦法」。


 今、先手7四桂に、後手5二金、そこで塚田が5三歩、升田5一金としたところ。
 解説がないのでよく判りませんが、これは先手が勝つんだろうな、とここで僕は思いました。自分なら後手をもって、勝てる気がしない。


 角交換後、後手の4三銀打で塚田の飛車は捕獲されました。しかし、塚田は2七角という手を用意していた。なんというか、升田幸三の指すような角打ちです。
 以下、7六と、7二角成、8八飛成、3八金、4四銀、6二成桂、同金、同馬、3一玉… 
 あれれ…? 

投了図
 140手、升田幸三の勝ち。
 (なんとあてにならない自分の形勢判断。)


 この1952年度のA級順位戦は、升田幸三、塚田正夫、松田茂行の3人が6勝2敗で並び、名人挑戦権を賭けてプレーオフ決戦となりました。前年度の成績により、まず塚田‐松田戦が行われ、その勝者が升田と三番勝負を行うという仕組みです。
 塚田‐松田戦は塚田正夫が勝ち、升田幸三‐塚田正夫で三番勝負となりました。
 その第1局は矢倉で、升田幸三が快勝。

 そして名人戦挑戦者決定三番勝負第2局、それが次の将棋です。
 なんと、今度は後手番で塚田正夫が、“小堀流4二玉”!!!


升田幸三‐塚田正夫 1953年3月
 升田は後手塚田の“小堀流”にどう対処したか。
 升田幸三は「2六飛」。 横歩を取らなかった!


 ということで、普通の「相掛り」になり、「4五銀」。“ガッチャン銀”というやつです。

 「相掛り」で、「5筋の歩を突かず5六銀と腰掛銀にする」指し方を、初め(1940年代大戦中)は小堀清一のみ指していたので、これも“小堀流”と呼ばれていたことは以前の記事でも書きました。
 戦後になって、升田幸三、大山康晴、木村義雄といったトップ棋士もこの「相掛り腰掛銀」の“小堀流”を使い始め、流行しました。すると先手も後手も「腰掛銀」という対局も増え、そこで必然敵に“ガッチャン銀”が生まれました。
 僕が知っている棋譜の中で一番古い“ガッチャン銀”の棋譜は、これ。
大和久彪‐小堀清一 1949年
1949年の順位戦(B級)大和久彪‐小堀清一戦です。大和久彪(おおわくたけし)、千葉出身、石井秀吉門下。

 
投了図
 升田‐塚田戦、この将棋は、升田、塚田ともに好手の出た内容のある将棋だったようですが、勝利を収めたのは升田幸三でした。この結果、名人戦への出場権は升田のものとなり、前年度に新名人となった5歳年下の弟弟子、大山康晴名人と七番勝負を闘うことと決まりました。


 そして、その名人戦の檜舞台でも、また“小堀流4二玉”が出たのです!!!
 仕掛けたのは升田幸三です。


 その1953年の大山・升田の名人戦に行く前に、この頃の「横歩取り」の戦型について。
 木村義雄が塚田正夫を破って名人位に返り咲いたのが、1949年。翌年の挑戦者は大山康晴で、この時は4-2で木村が防衛を果たすのですが、このシリーズの第1戦が「横歩取り」になりました。
木村義雄‐大山康晴 1950年名人戦1
 これです。「2三歩型」の横歩取りです。木村が先手で横歩を取り、大山の2五角に、定跡通り3二飛成、同銀、3八銀、3三銀、4五角と進みます。
 木村名人が勝利しました。
 この将棋の観戦記を読むと、「横歩取りには2つのパターンがあって、一つはこの形で、あと一つは…」と説明があり、次の将棋が示されていました。

塚田正夫‐木村義雄 1947年名人戦7
 これは当ブログですでに解説してきた「後手5五歩位取りvs先手横歩取り」の型。そしてこの将棋の中でも最も激しい“超急戦”で先手の塚田正夫が名人位奪取を決めました。 (『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り』『新名人、その男の名は塚田正夫』)

 ということは、この当時は「横歩取り」といえば、この2つの将棋と認識されていたということです。すると“小堀流”は、当時の3つ目の「横歩取り」の戦術ということになりますね。
 しかし、江戸時代までさかのぼると、「横歩取り4五角戦法」なども指されており、決して2つのパターンしかなかったわけではない、つまり、1950年当時の流行りとしてその2つだったということです。
 ついでに言えば、1960年代になると「相横歩取り戦法」が登場します。その中心となった人物が、塚田正夫です。



 1953年、大山・升田の名人戦に戻りましょう。
 升田幸三の名人挑戦はこれが2度目でした。1度目は木村義雄が名人だった1951年。木村が4-2で防衛。
 そして52年に大山康晴が新名人となり、翌53年に升田が挑戦者に、という流れ。
 第1戦、第2戦と、升田がいい将棋をつくりながら、最後にポキッと折れてしまう内容で大山が2連勝。次を升田が勝って、2-1のスコアになり、第4戦。その将棋が“小堀流4二玉”の将棋でした。

▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩  ▲7八金 △3二金
▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △4二玉  ▲7七金
大山康晴‐升田幸三 1953年5月名人戦4
△8四飛 ▲2六飛 △2三歩 ▲5八金 △6二銀  ▲4八銀 △7四歩
▲4六歩 △7三銀 ▲4七銀 △6四銀  ▲2五飛 △5二金 ▲3六歩 △4四角
▲6六歩 △2二銀  ▲7八銀 △7五歩 ▲6七銀 △5四歩 ▲9六歩 △5三角
▲3七桂 △3一玉 ▲4八玉 △4二金右 ▲6五歩 △3三桂
 升田幸三の「4二玉」。 “小堀流”です。
 大山名人、3四飛とはせず、「7七金」でした。
 この“小堀流”に対する「7七金」は、次に‘横歩’を取ろうという手ですが、8四飛として、後手は横歩を取らせません。すると先手番なのに、先手のみ「7七金」という愚形を強いられたということになり、これなら後手作戦成功ではないか、と僕などは思います。まあ、将棋はそんなに簡単に優劣が決まるものではなく、これからが勝負なのですが。それに、大山康晴の棋風は、少しくらいの苦労をなんとも思っていませんから。大山さんは自分でも「変形が好き」と言っていますし。「変形」というのは、「7七金」のような手の事。


▲2九飛 △6五銀 ▲7五歩 △5五歩 ▲9七角 △9四歩  ▲7四歩 △7五歩
▲6六銀 △7四銀 ▲3五歩 △同角  ▲7五銀 △同銀 ▲同角 △7四飛
▲7六歩 △2一玉  ▲6九飛 △6四銀 ▲6六角
 大山名人は、「右玉」に玉を囲った。「2五飛」は、後手の7五歩からの攻めを防ぐため。これは上の塚田‐升田戦でも出ました。後手の升田は3三桂で、この飛車を追います。
 大山は、9七角から角を使いました。


△2六角 ▲2九飛 △4四角 ▲4五歩 △7一角 ▲6七金寄 △1四歩
▲7七桂 △1五歩  ▲6五歩 △5三銀 ▲5五角 △7三歩 ▲7二銀
 図の6六角が好手でした。次のねらいは、6五歩、同銀、5五角ですが、後手はそのねらいをもう防ぐことができません。7三桂とすると、8三銀で飛車が死にます。
 升田の2六角は、次に2五桂がねらいで、2七歩なら、3七角成、同玉、5四桂で勝負する手がある。しかし局後の感想で升田は「2六角は悪手。1四歩から端攻めをみせて焦りを誘うのが本手。」と言っています。


△9三角  ▲8五桂 △5四銀 ▲8八角 △8四飛 ▲8六歩 △8二飛
▲8一銀成 △同飛 ▲9三桂不成 △同香 ▲4六桂
 なるほど、実戦は後手の1筋の歩突きが間に合っていない。大山が優位を拡大したようだ。
 先手、7二銀から角を追う。升田の8四飛に、8六歩が冷静な対応。あせって角を取ると8七飛成で、升田にもチャンスが狙える展開になる。


△6五銀  ▲9二角 △8六飛 ▲7七角 △2八銀
 升田、苦しい。6五銀と逃げた。この手は9二角で両取りになるため、当時の控室の検討では一切考えてなかった手。(控室は4五銀以下を検討していた。) 両取りを承知で、それをおとりになんとかならないか、と升田は考えたようだ。


▲8六角 △2九銀成 ▲6五角成 △8九飛 ▲8一飛 △3一銀 ▲2二歩 △1二玉 ▲5九金
 「2八銀」に勝負を賭けた。同飛は、8九飛成、6五角成、1九竜だ。
 大山名人は8六角。


△7四桂 ▲1四銀 △8六桂 ▲3一飛成  まで107手で先手の勝ち
 「5九金」で先手玉は寄らない。

投了図
 大山名人、勝って3勝目。

 次の第5戦も勝って、大山康晴は名人位を防衛。


 『升田将棋選集』には、この1953年の名人戦の棋譜は1局も載っていません。ここで紹介した塚田正夫との挑戦者決定戦の棋譜の解説で、「後日談になるが、私はこの決定戦に快勝し、名人戦に挑んだが、このころから体調が悪化して、名人戦はなすところなく敗れた。」とあります。


 次回は、“小堀流4二玉戦法”のその後の棋譜を。

丸田祐三‐大山康晴 1954年
 翌年には大山名人も“小堀流”を指している。


 小堀流4二玉戦法の記事
  『横歩を取らない男、羽生善治 3
  『横歩取り小堀流4二玉戦法の誕生
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「将棋の虫」と呼ばれた男
  『その後の“小堀流”と、それから村山聖伝説
 中川流4二玉戦法の記事
  『横歩を取らない男、羽生善治 4
  『中川流4二玉戦法、その後
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2 コメント

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すばらしいページ (へいさん)
2014-05-03 08:39:42
将棋ファンのへいさんと申します。
ネットサーフィンをしていてたまたまこのページを拝見しました。
すばらしいページですね。詳しい情報も貴重だと思いました。ブックマークして、じっくり読ませていただきます。
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はじめまして、へいさん (handoroya)
2014-05-05 09:29:45
コメントありがとうございます。
ネットは便利ですが、情報量としては図書館で本を調べる方が何倍も多いと気づきました。初めは「横歩取り」に限定して1年間将棋の記事を書こうと思っていたのですが、いつのまにかその枠をはみ出してしまい、書きたいことが多すぎて、これはいつまでたっても終わらないとわかりました。
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