今日は“立石流”について書きたいと思います。
立石流とは、アマチュアの強豪の“立石さん”が発案したという力戦四間飛車のことで、90年代から将棋道場などでもよく見られるようになった戦法です。アマチュア将棋では今でもよく指されます。
僕が調べたところ、この戦法がアマの一部の人達のあいだで流行ったのが1991年で、プロが「ちょっとやってみた」のが1992年と思われます。
田尻隆司-横山公望 1991年6月
これは『将棋年鑑』の平成4年版に掲載されていた棋譜で、アマチュア竜王戦の準決勝。
『将棋年鑑』の解説には、この将棋の序盤を、〔珍型だが、これが最近よく見られる“立石流”。〕と書いてあります。
これを読んで僕はちょっと驚いたのです。3五歩~4二飛として、4四歩を突かない――「この形が“立石流”の本来の姿だったのか!」、と。
僕は、3五歩~4二飛として、玉を安定させた後、そこで3二飛~3四飛とする作戦があることを知っています。2002年に発行された『島ノート』(島朗著)の中で「3・4・3戦法」として紹介されていたからです。
それに似た出だしですが、これはそうではなかった。
玉を美濃囲いに囲ったあとは、4四歩~4五歩~4四飛。
これが“立石流”。 かっこいいですよね!
この後、3四飛として、3六歩をねらいます。
ここではくわしくやりませんが、この仕掛けのあたりで千日手もにらんだ長々としたやりとりが展開されています。アマチュアのトップの将棋は仕掛けから中盤にかけての迫力のある応酬が見ごたえがあります。プロと違って持ち時間が少ないという条件で「仕掛け」をつくらなければならないし、「負けたくない」という気持ちがこの「仕掛け」のあたりの中盤にガツンガツンとぶつかり合うのです。
後手の横山さんが攻勢です。ここで7七同馬と切って――
8五金。これではっきり後手良しに。
横山公望さんの勝ち。
横山さんは次の決勝戦でも勝って(立石流ではありません)、アマ竜王戦優勝です。
今はもうありませんが、横山さんは横浜駅近くのビルで「ハマ公望」という将棋道場を開かれていました。禁煙にして清潔感を売りにしていた将棋道場で、僕は2度だけ、訪れたことがあります。2000年頃だったと思います。
最初に僕が行った時、席主の横山さんは作務衣姿でした。驚いたのは、僕が料金を払って自分の名を告げようとした時、まず苗字を言ったときに、横山さんが反射的に僕の下の名を続けて口にされたのです。僕はびっくりして、どうして知っているのかと聞くと、『将棋世界』の「棋友ニュース」を眺めるのが自分の趣味なのだとおっしゃいました。つまりそこに僕の名前が出ていて、それを憶えていらっしゃったのです。(もちろんそれ以前に面識はありません。) 僕は平凡な棋力で強いわけでもなく、道場では「二段」で指していましたが、一時期、数か月の間にふしぎなほどに連続して優勝できたことがありまして、それがその時期なのです。優勝といっても小さな地方大会のB級(二段以下)のカテゴリーだったり、道場の10人くらいのトーナメント戦だったりなのですが。そういう成績の内容を、主催者が『将棋世界』誌に知らせて、それが「棋友ニュース」に掲載されていたのですが、それを横山公望さんは熱心に眺めておられたんですね。
「ハマ公望」は、僕の印象では子供が適度にいて(ここ大事、多すぎるとかなわん)、活気のある道場だったという印象です。
それにしても、あの頃行った将棋道場も、その半分以上、7~8割は廃業していますね。
話がそれました。今日のテーマ、“立石流”に戻りましょう。
プロでこの“立石流”が登場したのはいつか。はっきりしませんが、僕の調べでは、次の将棋ではないかと思います。
劔持松二-加瀬純一 1992年1月
加瀬純一さんはこの1992年に“立石流”を何局か指しています。
図のように、4四歩と角道を止める「ふつうの振り飛車」から、タイミングを見て、まず、4五歩。
そうそう、これが私たちが良く知っている立石流です。
3五歩と突き、7七角成と角交換、そして3三桂。3二金として、そこで4四飛。
この手順は、わりと私たちがよく見るタイプの“立石流”の組み立てです。
この図から、先手の劔持さんは4六歩と反発しました。
4六歩、3六歩、同歩、4六歩、3五角。
ここから戦いとなり――
投了図
勝利したのは、“立石流”。
以下に紹介する立石氏の将棋は、「棋譜でーたべーす」から拾ってきたものです。
Pさん-立石さん 1992年2月
本家“立石さん”の立石流。
初手から、「7六歩、3四歩、2六歩、3五歩、2五歩、4二飛」。
驚きませんか? 1992年のこの段階で、この指し方。立石氏はこの当時から、「角道を止めない振り飛車」を指向していたのです。
ここで立石氏、8八角成と角交換します。いつでもこれができるようにと、「4三歩型」で構えているわけなのですね。
そして、飛車を浮く。
先手P氏は「棒金」作戦。手持ちの角を、6八角と打って次に3五金を狙います。
それを防ぐべく、後手も6二角と角を打って受ける。
飛車交換となり、終盤へ。
投了図
立石さんの勝ち。
神崎健二-豊川孝弘 2004年
後手のこの出だしはプロでは21世紀になって指されるようになった。これがおそらくプロ1号局。2004年の順位戦の一局。「元気モリモリ」の豊川さん。
後手の豊川孝弘さんは、この場合は“立石流”を指すつもりではなく、上でも述べた「3・4・3戦法」がねらいだ。島朗さんが名付けたものだが、戦法自体はアマチュアの発案によるもの。これもまた“立石さん”発かもしれない。
これは簡単に言えば、飛車を4二で途中下車させて、あとで3二飛と三間飛車(石田流)にするというもの。いきなり3二飛とするのは、2二角成~6五角があって、これがどうも後手としては具合がわるいということで、こうやって後手番石田流をやろうという工夫。
7二まで玉を移動したら、これでもう2二角成~6五角の攻めは大丈夫なので、そこで3二飛。
まず「3五歩」と突く → 次に「4二飛」 → 玉を移動して「3二飛」、というわけで「3・4・3」。
先手神崎健二の「棒金」に、豊川も同じく「金」をくり出してきた。
神崎は4六銀。次に7九角とすれば、確実に3五の地点は先手が制圧できる。
投了図
将棋は先手の勝ち。
Qさん-立石さん 2000年
この将棋は、“立石さん”の「3・4・3戦法」。
後手のこの構えは、つまり3二飛からの三間飛車もあるし、4四歩~4五歩の立石流もあり、そしてさらに8八角成の「角交換四間飛車」もある。もちろん4四歩という「ノーマル四間飛車」もある。そう考えると、万能な、きわめて優れた構えとも思えてきます。
ところで、最近戸辺誠さんが著書に記した『4→3戦法』(冒頭の写真)は、「3・4・3戦法」と同じく三間飛車を指向する作戦ですが、その場合、「3五歩」は後回しにしたほうが良いだろう、という考えのもと、初めは3四歩型のままですすめていく。いわば「改良型3・4・3戦法」です。
3二飛から3四飛。得意の「石田流」に。
3六歩で開戦。3六同歩に、6二角と打って、2八飛に、3六飛と捌いていく。
次に2六飛があるので、もう決戦は避けらそうもない。
4八銀、5六飛、6七銀、3六飛、2四歩、同歩、同飛、3八飛成…
投了図
振り飛車の勝ち。
Rさん-立石さん 1990年
1990年の“立石さん”の将棋。この将棋は3五歩をまだ突いていない。
玉を囲って、それから3五歩を突き、8八角成。
その後、3二飛なら、「4→3戦法」だが――
角交換した後、4四歩~4五歩。“立石流”だ。
まあ要するに“ほんとうの立石流”など存在せず、ただいろいろな手順があるのである。
自陣角。6五角と2五角の両ねらい。
投了図
“立石流”の快勝。
立石さん-Sさん 1990年
「7六歩、3四歩、6八飛」。この3手目6八飛のオープニングを1990年にすでに指していたことに注意。
この3手目6八飛がプロ棋士の間で“普通の手”として指されるようになったのはここ数年のこと。藤井猛が「角交換四間飛車」を指すようになってから。
いったんこの3手目6八飛を受け入れてみると、後手が振り飛車をやって「相振り飛車」となったとき、6六歩を突いていない方が作戦的に良いのではないかということで、むしろ最近はこの3手目6八飛を本筋として考えている人が今、多くなってきている。特にアマチュアでは。(プロでは四間飛車そのものが減少してきているらしい。)
後手が5五歩と角道を止めたので、これは角交換をしない立石流になった。
元々は、角交換してそれから6六歩~6五歩だったのかもしれない。それが、相手が角道を止めるなら、それはそれで振り飛車も伸び伸び駒組みができるということで、どちらでもいけるのである。まったく、自由自在な面白さがある。
7~9筋から攻める。
図の8三歩に、同飛、8四歩、7七桂成、8三歩成、6七成桂、7二歩成、1五歩、7三と引、1六歩、6三と、1七歩成、という攻め合いになった。
投了図
“立石流”の勝ち。
窪田義行-先崎学 1995年
3手目6八飛のプロ公式戦1号局と思われるのがこの対局。
窪田義行さんが指した。
でもすぐに6六歩としたので「ふつうの振り飛車」に。
井上慶太-長沼洋 1992年
4手目4二飛のプロ公式戦1号局はこれだと思われます。
長沼洋さんが指した。
石田流に。つまりこれは戸辺流の「4→3戦法」の1号局。(戸辺さんはこの時5歳小学1年生だったわけだが。)
Tさん-立石さん 1989年
1989年の“立石さん”の将棋。
初手より「7六歩、3四歩、2六歩、8八角成」。
立石氏は角交換して、「4二飛」。つまりこれはプロでも今、よく指されている「角交換四間飛車」である。
アマチュアの棋士は、もともと一手損など気にせず角交換する人は昔からいた。とくに多かったのが角交換して、その角をすぐに筋違い角(この図でいえば△6五角)に打つ「筋違い角」の作戦である。そしてこれと振り飛車を組み合わせる作戦はよく見られた。
だが、その角を手持ちにしたまま「4二飛」というのは昔はほとんどなかったのではないだろうか。なんとなく、振り飛車の角交換は模様が取りにくくてつまらない、という先入観を皆が共有していたと思う。
そういう意味で、“立石さん”は、自由だったのである。
銀冠に組んで、仕掛ける。
投了図
“立石さん”の勝ち。
『“ほんとうの立石流”の話』と題して、“立石流”の初期の将棋を調べてみましたが、つまるところ、立石さんは「角交換振飛車」を指したくて、そこからはじまったのではないだろうかと感じました。
そのうちに、(後手番の場合)4二飛として、相手が角交換して来れば一手得だし、すぐに角交換する必要もないということで、いろいろ試行されていった。そういう過程から“立石流”が生まれてきたのだと思います。
昔のプロ棋士の「角交換四間飛車」では、こういうのもあります。
芹沢博文-佐藤大五郎 1971年
後手番佐藤大五郎さんの「角交換四間飛車」ですね。順位戦(B1)の対局。
ただし、この場合は、「初手から7六歩、3四歩、2二角成」と、先手(居飛車)からいきなりの角交換をするという将棋なので、現代のように「振り飛車自ら角交換して振り飛車にする」というのとは、少々意味が変わりますけれども。
この将棋を勝って佐藤大五郎はこの年度を7勝4敗で3位。次の年度はついに昇級してA級棋士に。35歳の時でした。佐藤さんは、河口俊彦の本によれば、このクラスの人達に嫌われていて、まあつまり“いじめ”のような状態で、あいつだけには負けるな、昇級させるな、というような雰囲気だったそうです。そういう中を勝って昇級するのだから、この人もたいした棋士ですな。
そうそう、佐藤大五郎といえば、“宇宙流”という戦法もあるようで。いつか調べてみましょう。
早石田の別の記事
『林葉の振飛車 part6』
『森安秀光の早石田 “3四飛”』
立石流とは、アマチュアの強豪の“立石さん”が発案したという力戦四間飛車のことで、90年代から将棋道場などでもよく見られるようになった戦法です。アマチュア将棋では今でもよく指されます。
僕が調べたところ、この戦法がアマの一部の人達のあいだで流行ったのが1991年で、プロが「ちょっとやってみた」のが1992年と思われます。
田尻隆司-横山公望 1991年6月
これは『将棋年鑑』の平成4年版に掲載されていた棋譜で、アマチュア竜王戦の準決勝。
『将棋年鑑』の解説には、この将棋の序盤を、〔珍型だが、これが最近よく見られる“立石流”。〕と書いてあります。
これを読んで僕はちょっと驚いたのです。3五歩~4二飛として、4四歩を突かない――「この形が“立石流”の本来の姿だったのか!」、と。
僕は、3五歩~4二飛として、玉を安定させた後、そこで3二飛~3四飛とする作戦があることを知っています。2002年に発行された『島ノート』(島朗著)の中で「3・4・3戦法」として紹介されていたからです。
それに似た出だしですが、これはそうではなかった。
玉を美濃囲いに囲ったあとは、4四歩~4五歩~4四飛。
これが“立石流”。 かっこいいですよね!
この後、3四飛として、3六歩をねらいます。
ここではくわしくやりませんが、この仕掛けのあたりで千日手もにらんだ長々としたやりとりが展開されています。アマチュアのトップの将棋は仕掛けから中盤にかけての迫力のある応酬が見ごたえがあります。プロと違って持ち時間が少ないという条件で「仕掛け」をつくらなければならないし、「負けたくない」という気持ちがこの「仕掛け」のあたりの中盤にガツンガツンとぶつかり合うのです。
後手の横山さんが攻勢です。ここで7七同馬と切って――
8五金。これではっきり後手良しに。
横山公望さんの勝ち。
横山さんは次の決勝戦でも勝って(立石流ではありません)、アマ竜王戦優勝です。
今はもうありませんが、横山さんは横浜駅近くのビルで「ハマ公望」という将棋道場を開かれていました。禁煙にして清潔感を売りにしていた将棋道場で、僕は2度だけ、訪れたことがあります。2000年頃だったと思います。
最初に僕が行った時、席主の横山さんは作務衣姿でした。驚いたのは、僕が料金を払って自分の名を告げようとした時、まず苗字を言ったときに、横山さんが反射的に僕の下の名を続けて口にされたのです。僕はびっくりして、どうして知っているのかと聞くと、『将棋世界』の「棋友ニュース」を眺めるのが自分の趣味なのだとおっしゃいました。つまりそこに僕の名前が出ていて、それを憶えていらっしゃったのです。(もちろんそれ以前に面識はありません。) 僕は平凡な棋力で強いわけでもなく、道場では「二段」で指していましたが、一時期、数か月の間にふしぎなほどに連続して優勝できたことがありまして、それがその時期なのです。優勝といっても小さな地方大会のB級(二段以下)のカテゴリーだったり、道場の10人くらいのトーナメント戦だったりなのですが。そういう成績の内容を、主催者が『将棋世界』誌に知らせて、それが「棋友ニュース」に掲載されていたのですが、それを横山公望さんは熱心に眺めておられたんですね。
「ハマ公望」は、僕の印象では子供が適度にいて(ここ大事、多すぎるとかなわん)、活気のある道場だったという印象です。
それにしても、あの頃行った将棋道場も、その半分以上、7~8割は廃業していますね。
話がそれました。今日のテーマ、“立石流”に戻りましょう。
プロでこの“立石流”が登場したのはいつか。はっきりしませんが、僕の調べでは、次の将棋ではないかと思います。
劔持松二-加瀬純一 1992年1月
加瀬純一さんはこの1992年に“立石流”を何局か指しています。
図のように、4四歩と角道を止める「ふつうの振り飛車」から、タイミングを見て、まず、4五歩。
そうそう、これが私たちが良く知っている立石流です。
3五歩と突き、7七角成と角交換、そして3三桂。3二金として、そこで4四飛。
この手順は、わりと私たちがよく見るタイプの“立石流”の組み立てです。
この図から、先手の劔持さんは4六歩と反発しました。
4六歩、3六歩、同歩、4六歩、3五角。
ここから戦いとなり――
投了図
勝利したのは、“立石流”。
以下に紹介する立石氏の将棋は、「棋譜でーたべーす」から拾ってきたものです。
Pさん-立石さん 1992年2月
本家“立石さん”の立石流。
初手から、「7六歩、3四歩、2六歩、3五歩、2五歩、4二飛」。
驚きませんか? 1992年のこの段階で、この指し方。立石氏はこの当時から、「角道を止めない振り飛車」を指向していたのです。
ここで立石氏、8八角成と角交換します。いつでもこれができるようにと、「4三歩型」で構えているわけなのですね。
そして、飛車を浮く。
先手P氏は「棒金」作戦。手持ちの角を、6八角と打って次に3五金を狙います。
それを防ぐべく、後手も6二角と角を打って受ける。
飛車交換となり、終盤へ。
投了図
立石さんの勝ち。
神崎健二-豊川孝弘 2004年
後手のこの出だしはプロでは21世紀になって指されるようになった。これがおそらくプロ1号局。2004年の順位戦の一局。「元気モリモリ」の豊川さん。
後手の豊川孝弘さんは、この場合は“立石流”を指すつもりではなく、上でも述べた「3・4・3戦法」がねらいだ。島朗さんが名付けたものだが、戦法自体はアマチュアの発案によるもの。これもまた“立石さん”発かもしれない。
これは簡単に言えば、飛車を4二で途中下車させて、あとで3二飛と三間飛車(石田流)にするというもの。いきなり3二飛とするのは、2二角成~6五角があって、これがどうも後手としては具合がわるいということで、こうやって後手番石田流をやろうという工夫。
7二まで玉を移動したら、これでもう2二角成~6五角の攻めは大丈夫なので、そこで3二飛。
まず「3五歩」と突く → 次に「4二飛」 → 玉を移動して「3二飛」、というわけで「3・4・3」。
先手神崎健二の「棒金」に、豊川も同じく「金」をくり出してきた。
神崎は4六銀。次に7九角とすれば、確実に3五の地点は先手が制圧できる。
投了図
将棋は先手の勝ち。
Qさん-立石さん 2000年
この将棋は、“立石さん”の「3・4・3戦法」。
後手のこの構えは、つまり3二飛からの三間飛車もあるし、4四歩~4五歩の立石流もあり、そしてさらに8八角成の「角交換四間飛車」もある。もちろん4四歩という「ノーマル四間飛車」もある。そう考えると、万能な、きわめて優れた構えとも思えてきます。
ところで、最近戸辺誠さんが著書に記した『4→3戦法』(冒頭の写真)は、「3・4・3戦法」と同じく三間飛車を指向する作戦ですが、その場合、「3五歩」は後回しにしたほうが良いだろう、という考えのもと、初めは3四歩型のままですすめていく。いわば「改良型3・4・3戦法」です。
3二飛から3四飛。得意の「石田流」に。
3六歩で開戦。3六同歩に、6二角と打って、2八飛に、3六飛と捌いていく。
次に2六飛があるので、もう決戦は避けらそうもない。
4八銀、5六飛、6七銀、3六飛、2四歩、同歩、同飛、3八飛成…
投了図
振り飛車の勝ち。
Rさん-立石さん 1990年
1990年の“立石さん”の将棋。この将棋は3五歩をまだ突いていない。
玉を囲って、それから3五歩を突き、8八角成。
その後、3二飛なら、「4→3戦法」だが――
角交換した後、4四歩~4五歩。“立石流”だ。
まあ要するに“ほんとうの立石流”など存在せず、ただいろいろな手順があるのである。
自陣角。6五角と2五角の両ねらい。
投了図
“立石流”の快勝。
立石さん-Sさん 1990年
「7六歩、3四歩、6八飛」。この3手目6八飛のオープニングを1990年にすでに指していたことに注意。
この3手目6八飛がプロ棋士の間で“普通の手”として指されるようになったのはここ数年のこと。藤井猛が「角交換四間飛車」を指すようになってから。
いったんこの3手目6八飛を受け入れてみると、後手が振り飛車をやって「相振り飛車」となったとき、6六歩を突いていない方が作戦的に良いのではないかということで、むしろ最近はこの3手目6八飛を本筋として考えている人が今、多くなってきている。特にアマチュアでは。(プロでは四間飛車そのものが減少してきているらしい。)
後手が5五歩と角道を止めたので、これは角交換をしない立石流になった。
元々は、角交換してそれから6六歩~6五歩だったのかもしれない。それが、相手が角道を止めるなら、それはそれで振り飛車も伸び伸び駒組みができるということで、どちらでもいけるのである。まったく、自由自在な面白さがある。
7~9筋から攻める。
図の8三歩に、同飛、8四歩、7七桂成、8三歩成、6七成桂、7二歩成、1五歩、7三と引、1六歩、6三と、1七歩成、という攻め合いになった。
投了図
“立石流”の勝ち。
窪田義行-先崎学 1995年
3手目6八飛のプロ公式戦1号局と思われるのがこの対局。
窪田義行さんが指した。
でもすぐに6六歩としたので「ふつうの振り飛車」に。
井上慶太-長沼洋 1992年
4手目4二飛のプロ公式戦1号局はこれだと思われます。
長沼洋さんが指した。
石田流に。つまりこれは戸辺流の「4→3戦法」の1号局。(戸辺さんはこの時5歳小学1年生だったわけだが。)
Tさん-立石さん 1989年
1989年の“立石さん”の将棋。
初手より「7六歩、3四歩、2六歩、8八角成」。
立石氏は角交換して、「4二飛」。つまりこれはプロでも今、よく指されている「角交換四間飛車」である。
アマチュアの棋士は、もともと一手損など気にせず角交換する人は昔からいた。とくに多かったのが角交換して、その角をすぐに筋違い角(この図でいえば△6五角)に打つ「筋違い角」の作戦である。そしてこれと振り飛車を組み合わせる作戦はよく見られた。
だが、その角を手持ちにしたまま「4二飛」というのは昔はほとんどなかったのではないだろうか。なんとなく、振り飛車の角交換は模様が取りにくくてつまらない、という先入観を皆が共有していたと思う。
そういう意味で、“立石さん”は、自由だったのである。
銀冠に組んで、仕掛ける。
投了図
“立石さん”の勝ち。
『“ほんとうの立石流”の話』と題して、“立石流”の初期の将棋を調べてみましたが、つまるところ、立石さんは「角交換振飛車」を指したくて、そこからはじまったのではないだろうかと感じました。
そのうちに、(後手番の場合)4二飛として、相手が角交換して来れば一手得だし、すぐに角交換する必要もないということで、いろいろ試行されていった。そういう過程から“立石流”が生まれてきたのだと思います。
昔のプロ棋士の「角交換四間飛車」では、こういうのもあります。
芹沢博文-佐藤大五郎 1971年
後手番佐藤大五郎さんの「角交換四間飛車」ですね。順位戦(B1)の対局。
ただし、この場合は、「初手から7六歩、3四歩、2二角成」と、先手(居飛車)からいきなりの角交換をするという将棋なので、現代のように「振り飛車自ら角交換して振り飛車にする」というのとは、少々意味が変わりますけれども。
この将棋を勝って佐藤大五郎はこの年度を7勝4敗で3位。次の年度はついに昇級してA級棋士に。35歳の時でした。佐藤さんは、河口俊彦の本によれば、このクラスの人達に嫌われていて、まあつまり“いじめ”のような状態で、あいつだけには負けるな、昇級させるな、というような雰囲気だったそうです。そういう中を勝って昇級するのだから、この人もたいした棋士ですな。
そうそう、佐藤大五郎といえば、“宇宙流”という戦法もあるようで。いつか調べてみましょう。
早石田の別の記事
『林葉の振飛車 part6』
『森安秀光の早石田 “3四飛”』
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