ウルトラホーク1号を描いてみました。『ウルトラセブン』に登場、ウルトラ警備隊の主力戦闘機です。なんといっても3つに分裂するのが子供心をときめかせましたね。分裂した3機の戦闘機はそれぞれα号、β号、γ号と呼ばれ、アルファ、ベータ、ガンマという語感もかっこよかった。
「合体する飛行機」にはたしかに魅かれるものがあります。
ですが、こういう戦闘機がなぜ現実の世の中に存在しないかといえば、合体したり分裂したりしても意味ないからでしょうね。 最初から3機で活動したほうがラクそうですもん。
さて「放射能」とか、「半減期」とか、「量子力学」とかの話を書きます。
α、β、γの3つの放射線が天然の放射性元素から放射されていることから、放射能を示すマークは3方向に放射した形を成している。 (ただし「放射線」にはそれ以外にも、中性子線とかX線とかいろいろある。)
別の記事(『ウラン』)ですでに述べたように、「アルファ線」とか、「半減期」とかの命名はアーネスト・ラザフォード(ニュージーランド人)による。 それは19世紀から20世紀への変わり目、1900年頃のことで、このときラザフォードの研究室はカナダ・マクギル大学、その時の助手には、フレデリック・ソディ(イギリス人)やオットー・ハーン(ドイツ人)などがいた。
その「半減期」について書いてみる。
今度の件で話題になっている「ヨウ素131」の「半減期」は8日だという。
僕は『ウラン』の記事の中で、「ウランは半減期が数億年以上なので放射能は弱く、ラジウムはその100倍以上も放射能が強く半減期は1600年」、ということを書いた。
そしてこのたびの「ヨウ素131」は半減期8日で、「セシウム137」の半減期は30年と報じられている。
ということはどういうことになるかというと、半減期30年の「セシウム137」の放射能はラジウムよりもはるかに強く、半減期8日の「ヨウ素131」は、さらに強い放射能をもつ、ということになるのである。
「えっ、じゃあ大変だ!!」ということなのかというと、そうでもない。
というのは、こういうことだ。 上で言っている“放射能の強さ”は、「原子1個当たりの強さ」を示しているのだ。 だから被害を考える場合は放射能の「全体量」が重要になる。「ヨウ素131」原子1個あたりの放射能はものすごくすご~く強力なのだけれども、その前提の上に、日本政府が「人体に影響を与えるレベルではない」と発表したということは、漏出した「ヨウ素131」の量(原子の数)は“ものすご~く少ない”ということになるのである。
(ただこれが増え続けるということになるとホントにモンダイなのだが。)
「ヨウ素131」の半減期は8日だという。
もしもあなたが、「あっ、じゃあ16日たてばすっかり消えるわけね!」と思っているとしたら、それは間違いだ。まったくちがう。
半減期が8日なら、8日で「ヨウ素131」は半分消える。半分残る。 で、また8日たつと、残った半分の「ヨウ素131」はまた半分になる。つまり、16日後には1/4になるということだ。
また8日たつと半分消えて、やはり半分残る。つまり最初の1/8になる。
で、また次の8日で1/16、さらに1/32、1/64、1/128… という具合になる。
「ヨウ素131」の場合、80日後には、“(2の10乗)分の1”、すなわち“1/1024”の量になる。大体1000分の1になるというわけで、それならほとんど「ない」と言ってもいい――。
しかし――たしかに「ほとんどない」と言っていいのだけれど――「1024分の1」とはいえ、「まだある」ということも正しい事実。 そうすると、この放射性物質は、「理論的にはずっと無限に近い時間存在しているのか?」という疑問が湧いてくるかもしれない。――じつは、その通りなのである。その放射性物質のある一部は、いつまでたっても“崩壊”しないで残る。
このあたりが「半減期」の性質の不思議な、おもしろいところである。
これを、よくよく考えていくと、もっと不思議な事実に直面することになる。
E・ラザフォードも、ニールス・ボーアも、そしてあのアルバート・アインシュタインも、原子のもつその“謎”について一生懸命考えたのである。
その“謎”とはこういうことだ。
たとえばある物質Aの半減期が1年だとしよう。すると1年後には、この物質Aの半分は“崩壊”して半分は残る。 2年後には1/4が残り、3年後には1/8…、そして10年後には1/1024が残る。
この物質Aのある原子一つ‘a’にしるしをつけてを観察したとする。するとこの‘a’はいつ“崩壊”するのだろう? 1年以内なのか、10年後なのか、あるいはもっと先なのか? それは予測できないのか?
そういうことについてアインシュタインやボーアら物理学者はとことん議論をしたのだ。ああだこうだと議論してその天才たちが考えたあげく、「それは決まっていない、わからない」となったのだ。 (アインシュタインは納得しなかった。)
もう一度、物質Aの中から、今度は二つの原子‘a’、‘b’に注目してみる。そして‘a’は1年以内に放射線を出して“崩壊”し、‘b’は5年後に同じように“崩壊”したとする。
するとその場合、なにが‘a’と‘b’の運命を分けたのか?
それについて彼ら物理学者は考えた。放射性物質が、“崩壊”を起こすきっかけは何なのか? 同じ条件なら、ほぼ同じ時期に“崩壊”しないとおかしくないか?
たとえば、水は100度になれば蒸発をし、0度を下回れば氷になる。物質とはそういうものだ。
だが、放射能の“崩壊”はそれに当てはまらなかった。「同じ条件」の「同じ原子」なのに、あるものはすぐに崩壊し、別の原子は何万年もあとで“崩壊”するのだ。
そこに、理由はない。探してもみつからなかった。 理由はないが――
ただ、「確率」が存在する。
この放射性元素はこういう「確率」で崩壊していく。 それを時間で表現したものが「半減期」という概念である。
決定はできないが、「確率」はわかる…。
これは、『不確定性原理』による。
も~ろぼしだんの~名をか~り~て~♪
ボーアやアインシュタインが主に議論したのは、物質の、「原子核」と「電子」との関係であった。「電子」は「原子核」の周りをまわっているが、そこには‘軌道’というものがいくつかある。「電子」はそのいくつかの‘軌道’上をまわっているが、ときにその‘軌道’を飛び移ることがある。いったい「電子は」、いつ、どういうきっかけで、飛び移るのか。
あるいは、「電子」は、“粒子”であると同時に“波”でもあるというが、ではそれが「電子」の“粒子”となって飛び出すとき、それはなにをきっかけに、いつ、決定されるのか。
あれこれ議論していたら、ボーアらとともに考えていた25歳のドイツの青年ヴェルナー・ハイゼンベルグが、1927年、『不確定性原理』というものを言い出した。(言い出したといっても、それは数学的な証明によって生まれたものである。)
それはつまり「確率的にはわかるが、それ以上は決して人間にはわからない」というような結論を含んでいた。 ボーアは“それ”をなるほどそうだと受け入れたが、アインシュタインは拒絶した。
「そういう結論になるのなら、『量子力学』は道を間違っている!」 彼にとってそれはもはや「科学」ではなかった。
以後、生涯アインシュタインはそれを受け入れることをしなかった。
「神はサイコロを振らない」という有名な彼の言葉が科学史に残されている。
1930年代、「中性子」、「人工放射能」が発見された。 宇宙線からは「湯川中間子」が発見され、サイクロトロンなどの「加速器」が発明され、物理学界は新たな局面に進んでいた。
だがアインシュタインは、まだ、『量子力学』の否定にこだわっていた。
アインシュタインはこうして『量子力学』に背を向けたが、この『量子力学』はやがて世間一般に浸透していった。 それとともにアインシュタインは物理の最前線から離れていくことになった。
1950年代に、何人もの若い才能ある日本の物理学者がオッペンハイマーに招かれアメリカ・プリンストン高等研究所へ行った。そこにはアインシュタインもいたが、そこでも彼は『量子力学』を否定する愚痴をつぶやいていたという。
朝永振一郎は、1938~1939年にドイツ・ライプチヒに渡ったが、その時の指導者がハイゼンベルグであった。その時のドイツは風雲の時期で、ベルリンではO・ハーンが核分裂を発見し、そしてヒトラーによる戦争がとうとう始まった。
また、大戦後のことだが、ある日本の物理学者がドイツのハイゼンベルグに弟子入りした。ハイゼンベルグの部屋に入るとそこにはアインシュタインの大きな写真が掲げられていた。「アインシュタインは量子力学を批判していたのに…なぜだろう」と思い、それを口にしてハイゼンベルグに問うと、彼はこう言った。自分はアインシュタインを尊敬している、あのような素晴らしい人物からの批判は大切に受け止めたいのだ、と。
ジョージ・ガモフはソビエト連邦・ウクライナに生まれた。1920年代に、『量子力学』を学ぶために、ドイツ・ゲッチンゲン、デンマーク・コペンハーゲンに留学した。学んだばかりですぐ、若き青年ガモフはその天才を発揮した。
ゲッチンゲンで『量子力学』を勉強中のガモフは、1928年のある日、E・ラザフォード(イギリスケンブリッジ・キャベンディッシュ研究所第4代所長となっていた)の論文を読んでいた。 その論文の中には、ラザフォードが、アルファ崩壊について思うある疑問が書かれていた。 アルファ崩壊とは、放射性物質が「アルファ粒子」を放出していくことである。
ラザフォードの呈した疑問とは、こうだった。
実験で、「アルファ粒子」を物質の原子核めがけてぶつけても、その物質の「エネルギーの壁」にはじかれて中に入れることはできない。ところが、それなら、どうして放射性物質の中の「アルファ粒子」は、“崩壊”する時に、「壁」を超えて中から外へと出てくることができるのか? これはどういうことだ、理論的に説明できないじゃないか。 そういう内容が論文には書かれていた。
それを読んだとき、24歳のガモフはひらめいた! おお、これは『量子力学』の計算で解ける!!
こうして生まれたのが「トンネル効果理論」である。
「アルファ粒子」は、「エネルギーの壁」を超えることはできない。できないけれども、足らないエネルギーであっても、量子の世界では、「確率」的に、一部分の‘粒子’が、瞬間、‘波’に変身して「壁」をすり抜けて外に出てゆくことができるのである。
そんなわけで、放射性物質は、いっぺんに全部は崩壊しないのだ。内部の物質は全部は「壁」を超えられない。けれども、ちびちびと少しずつ「すり抜ける」ことはできるのである。
そしてそれが起こる割合は、「確率的に一定」なのだ。
どうも物理学に「確率」を導入すると、おかしなことになる。 「おかしい」けれど、どうやらそれがこの世の現実なのである。
この頃はなんでも、「量子コンピューター」というものがやがてできるとかできないとか、そんなことになっている。
ニールス・ボーアのいるコペンハーゲンで、「卓球大会をやろう」と最初に言い出したのが、ジョージ・ガモフらしい。 優勝するのはいつもハイゼンベルグだったそうな。
ガモフは、ソ連の環境を息苦しく感じていて、妻と共に、その後アメリカに亡命する。 大戦後は、宇宙の『ビッグバン理論』の推奨者として有名になった。宴会好きの男で、晩年はアル中だったという話だ。
「合体する飛行機」にはたしかに魅かれるものがあります。
ですが、こういう戦闘機がなぜ現実の世の中に存在しないかといえば、合体したり分裂したりしても意味ないからでしょうね。 最初から3機で活動したほうがラクそうですもん。
さて「放射能」とか、「半減期」とか、「量子力学」とかの話を書きます。
α、β、γの3つの放射線が天然の放射性元素から放射されていることから、放射能を示すマークは3方向に放射した形を成している。 (ただし「放射線」にはそれ以外にも、中性子線とかX線とかいろいろある。)
別の記事(『ウラン』)ですでに述べたように、「アルファ線」とか、「半減期」とかの命名はアーネスト・ラザフォード(ニュージーランド人)による。 それは19世紀から20世紀への変わり目、1900年頃のことで、このときラザフォードの研究室はカナダ・マクギル大学、その時の助手には、フレデリック・ソディ(イギリス人)やオットー・ハーン(ドイツ人)などがいた。
その「半減期」について書いてみる。
今度の件で話題になっている「ヨウ素131」の「半減期」は8日だという。
僕は『ウラン』の記事の中で、「ウランは半減期が数億年以上なので放射能は弱く、ラジウムはその100倍以上も放射能が強く半減期は1600年」、ということを書いた。
そしてこのたびの「ヨウ素131」は半減期8日で、「セシウム137」の半減期は30年と報じられている。
ということはどういうことになるかというと、半減期30年の「セシウム137」の放射能はラジウムよりもはるかに強く、半減期8日の「ヨウ素131」は、さらに強い放射能をもつ、ということになるのである。
「えっ、じゃあ大変だ!!」ということなのかというと、そうでもない。
というのは、こういうことだ。 上で言っている“放射能の強さ”は、「原子1個当たりの強さ」を示しているのだ。 だから被害を考える場合は放射能の「全体量」が重要になる。「ヨウ素131」原子1個あたりの放射能はものすごくすご~く強力なのだけれども、その前提の上に、日本政府が「人体に影響を与えるレベルではない」と発表したということは、漏出した「ヨウ素131」の量(原子の数)は“ものすご~く少ない”ということになるのである。
(ただこれが増え続けるということになるとホントにモンダイなのだが。)
「ヨウ素131」の半減期は8日だという。
もしもあなたが、「あっ、じゃあ16日たてばすっかり消えるわけね!」と思っているとしたら、それは間違いだ。まったくちがう。
半減期が8日なら、8日で「ヨウ素131」は半分消える。半分残る。 で、また8日たつと、残った半分の「ヨウ素131」はまた半分になる。つまり、16日後には1/4になるということだ。
また8日たつと半分消えて、やはり半分残る。つまり最初の1/8になる。
で、また次の8日で1/16、さらに1/32、1/64、1/128… という具合になる。
「ヨウ素131」の場合、80日後には、“(2の10乗)分の1”、すなわち“1/1024”の量になる。大体1000分の1になるというわけで、それならほとんど「ない」と言ってもいい――。
しかし――たしかに「ほとんどない」と言っていいのだけれど――「1024分の1」とはいえ、「まだある」ということも正しい事実。 そうすると、この放射性物質は、「理論的にはずっと無限に近い時間存在しているのか?」という疑問が湧いてくるかもしれない。――じつは、その通りなのである。その放射性物質のある一部は、いつまでたっても“崩壊”しないで残る。
このあたりが「半減期」の性質の不思議な、おもしろいところである。
これを、よくよく考えていくと、もっと不思議な事実に直面することになる。
E・ラザフォードも、ニールス・ボーアも、そしてあのアルバート・アインシュタインも、原子のもつその“謎”について一生懸命考えたのである。
その“謎”とはこういうことだ。
たとえばある物質Aの半減期が1年だとしよう。すると1年後には、この物質Aの半分は“崩壊”して半分は残る。 2年後には1/4が残り、3年後には1/8…、そして10年後には1/1024が残る。
この物質Aのある原子一つ‘a’にしるしをつけてを観察したとする。するとこの‘a’はいつ“崩壊”するのだろう? 1年以内なのか、10年後なのか、あるいはもっと先なのか? それは予測できないのか?
そういうことについてアインシュタインやボーアら物理学者はとことん議論をしたのだ。ああだこうだと議論してその天才たちが考えたあげく、「それは決まっていない、わからない」となったのだ。 (アインシュタインは納得しなかった。)
もう一度、物質Aの中から、今度は二つの原子‘a’、‘b’に注目してみる。そして‘a’は1年以内に放射線を出して“崩壊”し、‘b’は5年後に同じように“崩壊”したとする。
するとその場合、なにが‘a’と‘b’の運命を分けたのか?
それについて彼ら物理学者は考えた。放射性物質が、“崩壊”を起こすきっかけは何なのか? 同じ条件なら、ほぼ同じ時期に“崩壊”しないとおかしくないか?
たとえば、水は100度になれば蒸発をし、0度を下回れば氷になる。物質とはそういうものだ。
だが、放射能の“崩壊”はそれに当てはまらなかった。「同じ条件」の「同じ原子」なのに、あるものはすぐに崩壊し、別の原子は何万年もあとで“崩壊”するのだ。
そこに、理由はない。探してもみつからなかった。 理由はないが――
ただ、「確率」が存在する。
この放射性元素はこういう「確率」で崩壊していく。 それを時間で表現したものが「半減期」という概念である。
決定はできないが、「確率」はわかる…。
これは、『不確定性原理』による。
も~ろぼしだんの~名をか~り~て~♪
ボーアやアインシュタインが主に議論したのは、物質の、「原子核」と「電子」との関係であった。「電子」は「原子核」の周りをまわっているが、そこには‘軌道’というものがいくつかある。「電子」はそのいくつかの‘軌道’上をまわっているが、ときにその‘軌道’を飛び移ることがある。いったい「電子は」、いつ、どういうきっかけで、飛び移るのか。
あるいは、「電子」は、“粒子”であると同時に“波”でもあるというが、ではそれが「電子」の“粒子”となって飛び出すとき、それはなにをきっかけに、いつ、決定されるのか。
あれこれ議論していたら、ボーアらとともに考えていた25歳のドイツの青年ヴェルナー・ハイゼンベルグが、1927年、『不確定性原理』というものを言い出した。(言い出したといっても、それは数学的な証明によって生まれたものである。)
それはつまり「確率的にはわかるが、それ以上は決して人間にはわからない」というような結論を含んでいた。 ボーアは“それ”をなるほどそうだと受け入れたが、アインシュタインは拒絶した。
「そういう結論になるのなら、『量子力学』は道を間違っている!」 彼にとってそれはもはや「科学」ではなかった。
以後、生涯アインシュタインはそれを受け入れることをしなかった。
「神はサイコロを振らない」という有名な彼の言葉が科学史に残されている。
1930年代、「中性子」、「人工放射能」が発見された。 宇宙線からは「湯川中間子」が発見され、サイクロトロンなどの「加速器」が発明され、物理学界は新たな局面に進んでいた。
だがアインシュタインは、まだ、『量子力学』の否定にこだわっていた。
アインシュタインはこうして『量子力学』に背を向けたが、この『量子力学』はやがて世間一般に浸透していった。 それとともにアインシュタインは物理の最前線から離れていくことになった。
1950年代に、何人もの若い才能ある日本の物理学者がオッペンハイマーに招かれアメリカ・プリンストン高等研究所へ行った。そこにはアインシュタインもいたが、そこでも彼は『量子力学』を否定する愚痴をつぶやいていたという。
朝永振一郎は、1938~1939年にドイツ・ライプチヒに渡ったが、その時の指導者がハイゼンベルグであった。その時のドイツは風雲の時期で、ベルリンではO・ハーンが核分裂を発見し、そしてヒトラーによる戦争がとうとう始まった。
また、大戦後のことだが、ある日本の物理学者がドイツのハイゼンベルグに弟子入りした。ハイゼンベルグの部屋に入るとそこにはアインシュタインの大きな写真が掲げられていた。「アインシュタインは量子力学を批判していたのに…なぜだろう」と思い、それを口にしてハイゼンベルグに問うと、彼はこう言った。自分はアインシュタインを尊敬している、あのような素晴らしい人物からの批判は大切に受け止めたいのだ、と。
ジョージ・ガモフはソビエト連邦・ウクライナに生まれた。1920年代に、『量子力学』を学ぶために、ドイツ・ゲッチンゲン、デンマーク・コペンハーゲンに留学した。学んだばかりですぐ、若き青年ガモフはその天才を発揮した。
ゲッチンゲンで『量子力学』を勉強中のガモフは、1928年のある日、E・ラザフォード(イギリスケンブリッジ・キャベンディッシュ研究所第4代所長となっていた)の論文を読んでいた。 その論文の中には、ラザフォードが、アルファ崩壊について思うある疑問が書かれていた。 アルファ崩壊とは、放射性物質が「アルファ粒子」を放出していくことである。
ラザフォードの呈した疑問とは、こうだった。
実験で、「アルファ粒子」を物質の原子核めがけてぶつけても、その物質の「エネルギーの壁」にはじかれて中に入れることはできない。ところが、それなら、どうして放射性物質の中の「アルファ粒子」は、“崩壊”する時に、「壁」を超えて中から外へと出てくることができるのか? これはどういうことだ、理論的に説明できないじゃないか。 そういう内容が論文には書かれていた。
それを読んだとき、24歳のガモフはひらめいた! おお、これは『量子力学』の計算で解ける!!
こうして生まれたのが「トンネル効果理論」である。
「アルファ粒子」は、「エネルギーの壁」を超えることはできない。できないけれども、足らないエネルギーであっても、量子の世界では、「確率」的に、一部分の‘粒子’が、瞬間、‘波’に変身して「壁」をすり抜けて外に出てゆくことができるのである。
そんなわけで、放射性物質は、いっぺんに全部は崩壊しないのだ。内部の物質は全部は「壁」を超えられない。けれども、ちびちびと少しずつ「すり抜ける」ことはできるのである。
そしてそれが起こる割合は、「確率的に一定」なのだ。
どうも物理学に「確率」を導入すると、おかしなことになる。 「おかしい」けれど、どうやらそれがこの世の現実なのである。
この頃はなんでも、「量子コンピューター」というものがやがてできるとかできないとか、そんなことになっている。
ニールス・ボーアのいるコペンハーゲンで、「卓球大会をやろう」と最初に言い出したのが、ジョージ・ガモフらしい。 優勝するのはいつもハイゼンベルグだったそうな。
ガモフは、ソ連の環境を息苦しく感じていて、妻と共に、その後アメリカに亡命する。 大戦後は、宇宙の『ビッグバン理論』の推奨者として有名になった。宴会好きの男で、晩年はアル中だったという話だ。
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