将棋竜王戦は、渡辺明竜王が4-3で羽生善治の挑戦を退け、防衛! 僕はリアルタイムでは観ていませんでしたが、羽生玉の「遊泳」にはらはらさせられる将棋でしたね。渡辺竜王は、羽生さんに5連勝!(朝日オープンでも対戦しています。) これで次のこの両者の対決がまた楽しみになりました。
将棋のあと、TVのサッカー中継で、遠藤選手のコロコロPKにも、(どういうわけか)はらはら。
映画『モンパルナスの灯』から。この映画には美女が沢山登場する。はじめはモディリアーニと女の2ショットを描くつもりだったのが、気が変わって、パリの風景ショットを描いた。向こうの丘はモンマルトルだろうか? モンマルトルとモンパルナスは、大阪でいうキタとミナミみたいなものか?(ちがうと思うけど。) モンマルトルの丘というのは、ずっと昔イエズス会が結成された場所なのであるが、フランシスコ・ザビエルもそのメンバーの中にいたわけだ。
画家モディリアーニは映画の中で「酒をやめられぬ駄目な男」として描かれるが、顔がいいからか、それとも駄目な性格が女心をくすぐるのか、美女にばかり愛される。が、絵は売れず、肺を悪くし、それでも酒はやめられず、35歳で死んだ。早く死んだこともあって、特徴のある美人画が、死後になってもてはやされている。
モディリアーニについては、数年ほど前までは、僕はまったく知らなかった。ある友人との話題の中にでてきたのがきっかけで知ったが、その後に、絵画展でその画を観たり、瀬川昌司(プロ棋士)さんの『泣き虫しょったんの奇跡』(瀬川さんは小学生の時モディリアーニの絵を模写して先生に誉めてもらった)に中にでてきたりして、いまはもうなじみのある画家になってきた。首の長い美人画が特徴的だ。
しかし、彼、モディリアーニがユダヤ人だということにはずっと気がつかなかった。イタリア生まれのユダヤ人なのである。
それを知ったのは、先々週に読んだ『ムーンレディの記憶』という、カニグズバーグの新刊本の中に書いてあったから。カニグズバーグもまた、(ニューヨーク生まれの)ユダヤ人なのである。 この本を、僕はこの前、メトロポリタン美術館と『クローディアの秘密』について書いたその記事の後に、図書館で予約して読んだのだが、これはニューヨークからフロリダに引っ越してきた男の子(13、4歳くらいだろう)が、ある老女の大きな屋敷で「モディリアーニの(ほんものと思われる)ヌード画」を見つける、という話。この絵画が『ムーンレディ』というわけ。子ども、老女、絵画、秘密、というカニグズバーグのとくいな展開のストーリー。
この話の中で、この「モディリアーニのヌード画」の謎(なぜほんもののモディリアーニの画がここにあるのか)を追求すると、それが1942年9月にアムステルダムで写されたある写真に結びついてゆく、という展開になる。 そしてその場所というのが、アンネ・フランクの「隠れ家」のあるプリンセン運河沿いにあるギャラリーという設定になっている。1942年9月なら、アンネは13歳、「隠れ家」にもぐって数ヶ月という頃だ。念のために書いておくが、アンネ・フランクはドイツ生まれのユダヤ人。
僕がこの本を読んだタイミングにびっくり。僕が『アンネの日記』を、十何年ぶりかで読んだその直後だったから。(こういう小さな偶然にはもう慣れてきたが、とはいってもやはり…。)
さて、今日は、ユダヤの神様と絵画について書こうと思う。
この神様と「言葉」とは、とても相性がいい。ところが「絵画」との相性はといえば、これがとてもフクザツなのだ。
ユダヤ民族が最初にこの「神」と出合ったのは、紀元前13世紀だということである。今から3千年以上前のことである。キリストより千年以上古い話である。映画『十戒』の主人公としても知られるモーセが「神」の声を最初に聴いた。旧約聖書にはもっと前の創世記の時代にアブラハム(ユダヤ民族の始祖)やノア(ノアの箱舟でおなじみ)が神と接していることが書かれているが、その神がモーセに言葉を送った「神」と同じかというと、どうもあやしい。ユダヤの様々な古文書や伝説が整理されて一冊の『聖書』(旧約)としてまとまるのはもっと後、紀元前4世紀の頃である。そのときに、ひとつの「神」として、物語を統一するために、そのように書かれている。
とにかく、最初に「神」と出合った(発見した?)のは、研究によれば、モーセということになっている。
モーセひきいる集団は、エジプトにいた。この時代、世界的に大飢饉がおそって、しかし、エジプトだけが食料に困らなかった。「ナイルの恵み」のおかげである。それで、人々はエジプトに集まった。その中にユダヤの祖先たちもいたのである。ところが、ある時期にエジプトの支配者がモーセに、出て行ってくれと言った。理由は(いろいろ研究がなされているが)わかっていない。あるいは、自分たちから、「こんなエジプトなんかでやってられるか!」と、出て行くことにしたのかもしれない。とにかく、彼らは出て行った。これが「出エジプト」の物語である。
そしてモーセは「神」の声を聞いた。この場所はシナイ半島で、これは現在のスエズ運河から東の、逆三角形の形をした半島である。ここで「神」から「言葉」をもらい、励まされた彼らは、「約束の地」エルサレムへと向かったのである。
彼らが最初に住んだ(攻め落とした)のがエリコという町だったという。
このユダヤの「神」はヤーヴェという。
この「神」は、ほかの神とは全然ちがう性質をもっている。『旧約聖書』では、神は自分に似せて人間を創造した、ということなので、姿形は人間のようであるらしい。だが、姿はみえない。現わさない。姿はそのように人間のようかもしれないのだが、人間とはまったくちがう全知全能の存在なので、人間といっしょに並んで座るというようなことはしない。その姿を描いてはいけない。不完全な人間ごときに描けるわけがない、というわけだ。かれは、天高いところから「声」という光を時にくれるのみである。
「言葉」こそ、この「神」と人間をつなぐ唯一のものである。その「言葉」を受けとることのできる者を「預言者」という。(予言者ではない。) 「神」に「言葉」を預かる者というわけである。モーセをはじめ、ユダヤ民族代々のそういう預言者たちの聴いた「神の言葉」を整理してまとめたものが『聖書』である。
そういうわけで、ユダヤ民族にとって、『聖書』は生まれたときから、中心に在るものである。
どんな民族の神も、神の物語を持っている。しかし、ユダヤのように、それをきっちりと「文字」として、一冊の「書物」として、まとめている古代民族はあまりいない。僕は、アンネ・フランクやカニグズバーグが、あれほどまでに深い問題を、きっちりと「文字」に変えて表現しているのをみると、「物語を書く」というのは、ユダヤ民族ゆえの、受け継がれてきた特性なのだろうか、などと考えてしまうことがある。『アンネの日記』は、20世紀の聖書のようなもの、ともいえる。
ところで、エジプトの神々はといえば、これは実にいろいろある。ユダヤ神のように唯一ではないし、複数の神々が合体したりもする。(そこは日本もおなじだ。)
猫の姿をした神もいる。バテスト神という。エジプトではスカラベ(コガネムシ)も神聖な生き物だったし、ハヤブサの姿の神やマントヒヒやチーターの頭をもった神もいる。スフィンクスの像などをみても、エジプトの神々が、動物と近いところにあり、しかも沢山の神様がいて、エジプトではそれを絵に描いたし、像にした。そのことは、本や博物館で僕らはよく知っている。見て、面白い、と思う。
ところが、古代のユダヤの人たちは、そういうエジプトの神々の像や絵を見て、「オエーッ、気持ち悪いッ!」と思ったようなのだ。それにひきかえ、俺たちの「神」は素敵だぞ、あんないびつなものじゃないぞ、と。
ユダヤの神「ヤーヴェ」は、その姿を、絵や像に描いてはいけない。それがこの「神」の教えである。偶像崇拝を禁じたのだ。全知全能の「神」を、人間ごときが描けるわけなどない、この「神」はそれほど高いところに住んでいる。(日本の場合は、かまどにまで住んでいたりする。)
ユダヤ教の宗教改革で生まれたのが、キリスト教である。ユダヤ教では律法(トーラー)を守ることを大事としているが、キリストはそれを守るだけでは意味がない、「愛」がないといけないと、「愛」を説いたらしい。ご存知の通り2千年前のことだ。キリスト教もはじめはユダヤ人改革派だけの宗教だった。やがてキリスト教は、他の民族にも受け入れられるようになり、広がっていった。しかし、ユダヤ教もキリスト教も、その「神」は同じ「神」である。「神」からもらった「言葉」とその解釈と、日々の慣習は異なるけれども、「神」そのものは同じなのである。
6世紀になると、アラブ人ムハマンドのもとでイスラム教が生まれたが、この宗教の「神」も、やはり、ユダヤ教、キリスト教と同じ「神」である。 (であるから、エルサレムはこの3つの宗教にとって、同様に聖地なのである。)
おなじ唯一の「神」から、それぞれの宗教は「言葉」を預かった。くり返すが、この「神」さまは、「言葉」をくれる、そして姿のみえない(絵に画くことのできない)神様なのである。
そういうことなので、本来、キリスト教も、イスラム教も、「偶像崇拝禁止」であり、だから、「神」の姿を絵にしてはいけないのである。
ところが、人間というのは、「神の姿」を拝みたいらしい。そういうことで、キリスト教は、キリストは神でもあり人間でもある、というような解釈をしつつ、人間でもあるキリストならばとキリストを描くようになった。あるいは、聖母マリアや、沢山の聖人たち…彼らを描くならば人間なのだから問題はない。そんなわけで、カトリックでは宗教画が描かれるようになった。とくにイタリアでそれは発展をとげた。
「言葉は光」なのであるから、『聖書』を読むのが、この宗教の基本である。ところが、印刷機が発明される以前の「本」というのはたいへんに貴重なもので、だれでも入手できるものではない。だから、「神の言葉」を勉強した神父が教会で信者に話してきかせる。そのうちに、かれらが教会で話をし説明するのに“宗教画”が便利だとわかってきた。便利なだけではなく、宗教としての人気をかためるためにも、“宗教画”が教会の「華」となっていったのである。画のなかの聖者たちは物語を演じるスターである。そのようにして、中世の絵画は徐々に発展していった。
イタリア・フィレンツェにジョット(ルネサンスのさきがけと呼ばれる画家)が現われ、つぎの時代には遠近法が発見され、華麗な‘ルネサンス時代’がやってきた。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍した。彼らは、人間や風景や空間を「リアル」に描いた。 この「リアルに描く」というのは、古代ギリシャの彫刻にみられる特徴である。 ルネサンスは、過去の遺物(1500年以上)となっていたギリシャ・ローマ文化をもう一度掘り起こし、キリスト教の「神」のもたらす「愛」に、古代の文化を融合調和させたのである。というわけで、‘ルネサンス’にはキリスト教の聖人たちばかりでなく、ギリシャの哲人たちも描かれ、また、肖像画も発達した。
このギリシャの文化(書物)は、実はヨーロッパ(ローマカトリック圏)にはもはや残っていなかった。ところが、そのギリシャの知恵の本(プラトンとか)は、イスラム圏の図書館に保存されていたのだというから面白い。アレキサンドリア(エジプト)やコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)の図書館に。それらの書物はアラビア語に翻訳されていたので、それに興味を抱いたイタリア人たちが、スラブ語に翻訳し始め、それがルネサンスの花の種となった。
ところで、ギリシャの神は多神教なので、そのキャラも色とりどりである。その頂点に座すのは全能の神ゼウスであるが、この神は全能ではあるが、性格的には自己中心的であり、その意味では、完全とは程遠い。日本の神様もだいたいそうだが、神といっても欠点だらけなのである。(欠点だらけだけど神様なんだからしょうがないかあ、というのが日本の感覚?)
ところが、ユダヤの「神」は、ほんとうの「完全」なのである。こんな「神」はそんじょそこらにはいない。そういう「神」を、モーセは、最初に見つけた。ユダヤ民族に言わせれば、いにしえから、「神」はすべての民族に話しかけてきた。ただその声をまともに受け取った最初の民族が、ユダヤ民族だったということだ。
イスラム教では、「神」の偶像崇拝の禁止が固く守られ、その代わり建築などの装飾美術が発達した。キリスト教でも、東ローマ帝国の流れを汲む東方教会(ロシア正教など)では、「イコン」と呼ばれるものがつくられた。偶像崇拝はいけないというはじめの原則と、像を「拝みたい」という民衆の願望との間をとったような形となっている。
15世紀にドイツのグーテンベルグにより印刷機が発明された。そのおかげで聖書が以前よりも容易に手に入るようになると、宗教改革の大津波が押しよせた。「神」である『聖書』はここにあるのだから、ローマ教会などいらない、という新しい考え方だ。危機感を感じたカトリックからは「イエズス会」が生まれた。そして、“宗教画”はその時代の大きなうねりを感じとり、ダイナミックに、動きを描くようになった。これがルーベンス、ベルニーニなどに代表される‘バロック時代’である。
19世紀になって、写真の技術が実用化されてくると、今度は「リアルな絵」を描く意味がなくなってきた。写真がその役目を奪ってしまったのだ。肖像画を主な仕事にしてきた沢山の職人的な画家たちは不必要になってきた。
そこで生まれたのが、印象派をはじめとする芸術、“近代絵画”である。これはパリを中心として生まれた。「リアルな絵」から、一歩前進し、新しい意味を見出そうとしたのである。
“近代絵画”は、19世紀後半から、20世紀にかけて発展し、世界の画家達はパリに集まった。
ヒトラーは“近代絵画”を“退廃芸術”としてにくみ、没収した。このことが小説『ムーンレディの記憶』のモディリアーニ謎の絵のゆくえに関わってくる…、という設定である。
モディリアーニはイタリア・トスカーナ地方に生まれた。フィレンツェ生まれではないが、その近くである。フランス・パリに出たのは1906年。イタリアで生まれ、パリで絵を描くなら、これは画家として「王道」だ。しかもユダヤの「神」もついている。宗教心はあまりもっていなかったかもしれないが。
没したのは1920年。35歳。墓はパリ、ペール・ラシューズ墓地にあるが、ここには沢山の有名人が眠っているようだ。たとえば、マリア・カラス(歌手)、プルースト(作家)、コロー(画家)、ショパン(作曲家)など。
アンネ・フランクは、「絵ごころ」はもっていなかったようだ。ただ、『アンネの日記』の中の架空のともだちの「親愛なるキティ」は、小学校の時の友達のキティという説もある。(アンネの父はそう考えていたようだ。) このキティは、絵を描くのがとくいだった。アンネが話を書いてキティが絵をつける、そういうことをやっていたという。
◇ ◇ ◇ ◇
さて、そろそろ、この「はんどろやノート」、幕引きを考えています。 あと少し、書きます。
将棋のあと、TVのサッカー中継で、遠藤選手のコロコロPKにも、(どういうわけか)はらはら。
映画『モンパルナスの灯』から。この映画には美女が沢山登場する。はじめはモディリアーニと女の2ショットを描くつもりだったのが、気が変わって、パリの風景ショットを描いた。向こうの丘はモンマルトルだろうか? モンマルトルとモンパルナスは、大阪でいうキタとミナミみたいなものか?(ちがうと思うけど。) モンマルトルの丘というのは、ずっと昔イエズス会が結成された場所なのであるが、フランシスコ・ザビエルもそのメンバーの中にいたわけだ。
画家モディリアーニは映画の中で「酒をやめられぬ駄目な男」として描かれるが、顔がいいからか、それとも駄目な性格が女心をくすぐるのか、美女にばかり愛される。が、絵は売れず、肺を悪くし、それでも酒はやめられず、35歳で死んだ。早く死んだこともあって、特徴のある美人画が、死後になってもてはやされている。
モディリアーニについては、数年ほど前までは、僕はまったく知らなかった。ある友人との話題の中にでてきたのがきっかけで知ったが、その後に、絵画展でその画を観たり、瀬川昌司(プロ棋士)さんの『泣き虫しょったんの奇跡』(瀬川さんは小学生の時モディリアーニの絵を模写して先生に誉めてもらった)に中にでてきたりして、いまはもうなじみのある画家になってきた。首の長い美人画が特徴的だ。
しかし、彼、モディリアーニがユダヤ人だということにはずっと気がつかなかった。イタリア生まれのユダヤ人なのである。
それを知ったのは、先々週に読んだ『ムーンレディの記憶』という、カニグズバーグの新刊本の中に書いてあったから。カニグズバーグもまた、(ニューヨーク生まれの)ユダヤ人なのである。 この本を、僕はこの前、メトロポリタン美術館と『クローディアの秘密』について書いたその記事の後に、図書館で予約して読んだのだが、これはニューヨークからフロリダに引っ越してきた男の子(13、4歳くらいだろう)が、ある老女の大きな屋敷で「モディリアーニの(ほんものと思われる)ヌード画」を見つける、という話。この絵画が『ムーンレディ』というわけ。子ども、老女、絵画、秘密、というカニグズバーグのとくいな展開のストーリー。
この話の中で、この「モディリアーニのヌード画」の謎(なぜほんもののモディリアーニの画がここにあるのか)を追求すると、それが1942年9月にアムステルダムで写されたある写真に結びついてゆく、という展開になる。 そしてその場所というのが、アンネ・フランクの「隠れ家」のあるプリンセン運河沿いにあるギャラリーという設定になっている。1942年9月なら、アンネは13歳、「隠れ家」にもぐって数ヶ月という頃だ。念のために書いておくが、アンネ・フランクはドイツ生まれのユダヤ人。
僕がこの本を読んだタイミングにびっくり。僕が『アンネの日記』を、十何年ぶりかで読んだその直後だったから。(こういう小さな偶然にはもう慣れてきたが、とはいってもやはり…。)
さて、今日は、ユダヤの神様と絵画について書こうと思う。
この神様と「言葉」とは、とても相性がいい。ところが「絵画」との相性はといえば、これがとてもフクザツなのだ。
ユダヤ民族が最初にこの「神」と出合ったのは、紀元前13世紀だということである。今から3千年以上前のことである。キリストより千年以上古い話である。映画『十戒』の主人公としても知られるモーセが「神」の声を最初に聴いた。旧約聖書にはもっと前の創世記の時代にアブラハム(ユダヤ民族の始祖)やノア(ノアの箱舟でおなじみ)が神と接していることが書かれているが、その神がモーセに言葉を送った「神」と同じかというと、どうもあやしい。ユダヤの様々な古文書や伝説が整理されて一冊の『聖書』(旧約)としてまとまるのはもっと後、紀元前4世紀の頃である。そのときに、ひとつの「神」として、物語を統一するために、そのように書かれている。
とにかく、最初に「神」と出合った(発見した?)のは、研究によれば、モーセということになっている。
モーセひきいる集団は、エジプトにいた。この時代、世界的に大飢饉がおそって、しかし、エジプトだけが食料に困らなかった。「ナイルの恵み」のおかげである。それで、人々はエジプトに集まった。その中にユダヤの祖先たちもいたのである。ところが、ある時期にエジプトの支配者がモーセに、出て行ってくれと言った。理由は(いろいろ研究がなされているが)わかっていない。あるいは、自分たちから、「こんなエジプトなんかでやってられるか!」と、出て行くことにしたのかもしれない。とにかく、彼らは出て行った。これが「出エジプト」の物語である。
そしてモーセは「神」の声を聞いた。この場所はシナイ半島で、これは現在のスエズ運河から東の、逆三角形の形をした半島である。ここで「神」から「言葉」をもらい、励まされた彼らは、「約束の地」エルサレムへと向かったのである。
彼らが最初に住んだ(攻め落とした)のがエリコという町だったという。
このユダヤの「神」はヤーヴェという。
この「神」は、ほかの神とは全然ちがう性質をもっている。『旧約聖書』では、神は自分に似せて人間を創造した、ということなので、姿形は人間のようであるらしい。だが、姿はみえない。現わさない。姿はそのように人間のようかもしれないのだが、人間とはまったくちがう全知全能の存在なので、人間といっしょに並んで座るというようなことはしない。その姿を描いてはいけない。不完全な人間ごときに描けるわけがない、というわけだ。かれは、天高いところから「声」という光を時にくれるのみである。
「言葉」こそ、この「神」と人間をつなぐ唯一のものである。その「言葉」を受けとることのできる者を「預言者」という。(予言者ではない。) 「神」に「言葉」を預かる者というわけである。モーセをはじめ、ユダヤ民族代々のそういう預言者たちの聴いた「神の言葉」を整理してまとめたものが『聖書』である。
そういうわけで、ユダヤ民族にとって、『聖書』は生まれたときから、中心に在るものである。
どんな民族の神も、神の物語を持っている。しかし、ユダヤのように、それをきっちりと「文字」として、一冊の「書物」として、まとめている古代民族はあまりいない。僕は、アンネ・フランクやカニグズバーグが、あれほどまでに深い問題を、きっちりと「文字」に変えて表現しているのをみると、「物語を書く」というのは、ユダヤ民族ゆえの、受け継がれてきた特性なのだろうか、などと考えてしまうことがある。『アンネの日記』は、20世紀の聖書のようなもの、ともいえる。
ところで、エジプトの神々はといえば、これは実にいろいろある。ユダヤ神のように唯一ではないし、複数の神々が合体したりもする。(そこは日本もおなじだ。)
猫の姿をした神もいる。バテスト神という。エジプトではスカラベ(コガネムシ)も神聖な生き物だったし、ハヤブサの姿の神やマントヒヒやチーターの頭をもった神もいる。スフィンクスの像などをみても、エジプトの神々が、動物と近いところにあり、しかも沢山の神様がいて、エジプトではそれを絵に描いたし、像にした。そのことは、本や博物館で僕らはよく知っている。見て、面白い、と思う。
ところが、古代のユダヤの人たちは、そういうエジプトの神々の像や絵を見て、「オエーッ、気持ち悪いッ!」と思ったようなのだ。それにひきかえ、俺たちの「神」は素敵だぞ、あんないびつなものじゃないぞ、と。
ユダヤの神「ヤーヴェ」は、その姿を、絵や像に描いてはいけない。それがこの「神」の教えである。偶像崇拝を禁じたのだ。全知全能の「神」を、人間ごときが描けるわけなどない、この「神」はそれほど高いところに住んでいる。(日本の場合は、かまどにまで住んでいたりする。)
ユダヤ教の宗教改革で生まれたのが、キリスト教である。ユダヤ教では律法(トーラー)を守ることを大事としているが、キリストはそれを守るだけでは意味がない、「愛」がないといけないと、「愛」を説いたらしい。ご存知の通り2千年前のことだ。キリスト教もはじめはユダヤ人改革派だけの宗教だった。やがてキリスト教は、他の民族にも受け入れられるようになり、広がっていった。しかし、ユダヤ教もキリスト教も、その「神」は同じ「神」である。「神」からもらった「言葉」とその解釈と、日々の慣習は異なるけれども、「神」そのものは同じなのである。
6世紀になると、アラブ人ムハマンドのもとでイスラム教が生まれたが、この宗教の「神」も、やはり、ユダヤ教、キリスト教と同じ「神」である。 (であるから、エルサレムはこの3つの宗教にとって、同様に聖地なのである。)
おなじ唯一の「神」から、それぞれの宗教は「言葉」を預かった。くり返すが、この「神」さまは、「言葉」をくれる、そして姿のみえない(絵に画くことのできない)神様なのである。
そういうことなので、本来、キリスト教も、イスラム教も、「偶像崇拝禁止」であり、だから、「神」の姿を絵にしてはいけないのである。
ところが、人間というのは、「神の姿」を拝みたいらしい。そういうことで、キリスト教は、キリストは神でもあり人間でもある、というような解釈をしつつ、人間でもあるキリストならばとキリストを描くようになった。あるいは、聖母マリアや、沢山の聖人たち…彼らを描くならば人間なのだから問題はない。そんなわけで、カトリックでは宗教画が描かれるようになった。とくにイタリアでそれは発展をとげた。
「言葉は光」なのであるから、『聖書』を読むのが、この宗教の基本である。ところが、印刷機が発明される以前の「本」というのはたいへんに貴重なもので、だれでも入手できるものではない。だから、「神の言葉」を勉強した神父が教会で信者に話してきかせる。そのうちに、かれらが教会で話をし説明するのに“宗教画”が便利だとわかってきた。便利なだけではなく、宗教としての人気をかためるためにも、“宗教画”が教会の「華」となっていったのである。画のなかの聖者たちは物語を演じるスターである。そのようにして、中世の絵画は徐々に発展していった。
イタリア・フィレンツェにジョット(ルネサンスのさきがけと呼ばれる画家)が現われ、つぎの時代には遠近法が発見され、華麗な‘ルネサンス時代’がやってきた。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍した。彼らは、人間や風景や空間を「リアル」に描いた。 この「リアルに描く」というのは、古代ギリシャの彫刻にみられる特徴である。 ルネサンスは、過去の遺物(1500年以上)となっていたギリシャ・ローマ文化をもう一度掘り起こし、キリスト教の「神」のもたらす「愛」に、古代の文化を融合調和させたのである。というわけで、‘ルネサンス’にはキリスト教の聖人たちばかりでなく、ギリシャの哲人たちも描かれ、また、肖像画も発達した。
このギリシャの文化(書物)は、実はヨーロッパ(ローマカトリック圏)にはもはや残っていなかった。ところが、そのギリシャの知恵の本(プラトンとか)は、イスラム圏の図書館に保存されていたのだというから面白い。アレキサンドリア(エジプト)やコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)の図書館に。それらの書物はアラビア語に翻訳されていたので、それに興味を抱いたイタリア人たちが、スラブ語に翻訳し始め、それがルネサンスの花の種となった。
ところで、ギリシャの神は多神教なので、そのキャラも色とりどりである。その頂点に座すのは全能の神ゼウスであるが、この神は全能ではあるが、性格的には自己中心的であり、その意味では、完全とは程遠い。日本の神様もだいたいそうだが、神といっても欠点だらけなのである。(欠点だらけだけど神様なんだからしょうがないかあ、というのが日本の感覚?)
ところが、ユダヤの「神」は、ほんとうの「完全」なのである。こんな「神」はそんじょそこらにはいない。そういう「神」を、モーセは、最初に見つけた。ユダヤ民族に言わせれば、いにしえから、「神」はすべての民族に話しかけてきた。ただその声をまともに受け取った最初の民族が、ユダヤ民族だったということだ。
イスラム教では、「神」の偶像崇拝の禁止が固く守られ、その代わり建築などの装飾美術が発達した。キリスト教でも、東ローマ帝国の流れを汲む東方教会(ロシア正教など)では、「イコン」と呼ばれるものがつくられた。偶像崇拝はいけないというはじめの原則と、像を「拝みたい」という民衆の願望との間をとったような形となっている。
15世紀にドイツのグーテンベルグにより印刷機が発明された。そのおかげで聖書が以前よりも容易に手に入るようになると、宗教改革の大津波が押しよせた。「神」である『聖書』はここにあるのだから、ローマ教会などいらない、という新しい考え方だ。危機感を感じたカトリックからは「イエズス会」が生まれた。そして、“宗教画”はその時代の大きなうねりを感じとり、ダイナミックに、動きを描くようになった。これがルーベンス、ベルニーニなどに代表される‘バロック時代’である。
19世紀になって、写真の技術が実用化されてくると、今度は「リアルな絵」を描く意味がなくなってきた。写真がその役目を奪ってしまったのだ。肖像画を主な仕事にしてきた沢山の職人的な画家たちは不必要になってきた。
そこで生まれたのが、印象派をはじめとする芸術、“近代絵画”である。これはパリを中心として生まれた。「リアルな絵」から、一歩前進し、新しい意味を見出そうとしたのである。
“近代絵画”は、19世紀後半から、20世紀にかけて発展し、世界の画家達はパリに集まった。
ヒトラーは“近代絵画”を“退廃芸術”としてにくみ、没収した。このことが小説『ムーンレディの記憶』のモディリアーニ謎の絵のゆくえに関わってくる…、という設定である。
モディリアーニはイタリア・トスカーナ地方に生まれた。フィレンツェ生まれではないが、その近くである。フランス・パリに出たのは1906年。イタリアで生まれ、パリで絵を描くなら、これは画家として「王道」だ。しかもユダヤの「神」もついている。宗教心はあまりもっていなかったかもしれないが。
没したのは1920年。35歳。墓はパリ、ペール・ラシューズ墓地にあるが、ここには沢山の有名人が眠っているようだ。たとえば、マリア・カラス(歌手)、プルースト(作家)、コロー(画家)、ショパン(作曲家)など。
アンネ・フランクは、「絵ごころ」はもっていなかったようだ。ただ、『アンネの日記』の中の架空のともだちの「親愛なるキティ」は、小学校の時の友達のキティという説もある。(アンネの父はそう考えていたようだ。) このキティは、絵を描くのがとくいだった。アンネが話を書いてキティが絵をつける、そういうことをやっていたという。
◇ ◇ ◇ ◇
さて、そろそろ、この「はんどろやノート」、幕引きを考えています。 あと少し、書きます。