はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

Once Upon a Time in America

2008年12月21日 | はなし
 映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』から。これは、1930年時代のニューヨークの少年ギャングの(とその後の)話ですが、彼らはユダヤ人です。
 過越(すぎこし)祭というのがユダヤ教にはあるようで、上のシーンはその日のためにユダヤの人々が出かけている風景です。男の紳士は白いケープのようなものを肩にかけています。この祭日は、モーセの時代にできたものだとか。つまり3200年の歴史があるということ。(すごいなあ、ユダヤ。このすごさが、他民族の嫉妬を招くのかもしれないな。)
 この映画を僕は昔、映画館で観ました。3時間以上の映画なのですが、僕はこの映画の途中で眠ってしまいました。僕は、その内容にかかわらず、映画館でよく眠ってしまいます。たいていエンドロールが流れて、他の客が立ち上がっているときに、目覚めます。このときもそうでした。それで、もう一度観ようと思います。で、観るのですが、やっぱり同じところまで観て、また眠ってしまうのです。結局この映画を、10年後くらいにレンタルビデオで観たのです。でも、この時も、ユダヤ人ということを意識して観てはいませんでした。
 僕がこの映画を今回借りてきたのは、これが1930年のニューヨークの様子を描いているからです。ですから今回は、背景に注目しながら観ました。ほおォ、アシモフはこういうところで少年時代を送ったのか、などと思いながら。

 
 SFの巨匠アイザック・アシモフもユダヤ人なのです。アシモフは1920年ロシアに生まれ、3歳の時にニューヨークに移民としてやってきました。この当時のロシアは、革命後ですからソビエト連邦なのですが、大変住みにくくて、それに比べるとアメリカは天国でした。とはいっても、成功するのはごくわずかの人々で(そのことは民族にかかわらず同じですが…)、多くの人々は貧しかったのですが。 (ユダヤ人はお金持ちのイメージがありますが、それはごく少数のユダヤ人です。)
 この時代、ニューヨークには、被服工場があって、この工場で働く人々のほとんどはユダヤ人でした。99パーセントです。アシモフの父ユダもこの工場で働いていました。やがてお金を貯めてキャンディーストアを始めたことは、以前に書いた通りです。
 アシモフはコロンビア大学へ15歳で入学したわけですが、伝統的にユダヤ人には優秀な人が多い。この時代のニューヨークの大学は、その半分がユダヤ人で占められていたそうです。とはいっても、皆が皆、そのように優秀というわけではありませんから、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のように、悪行に走る人も多くいたのです。
 WASP(ワスプ、白人プロテスタントのエリ-ト)の支配の強い東海岸地区から西海岸へと移動して、ハリウッドに映画産業を作ったのもユダヤ人たちで、それを創業した人々も、元はだいたい貧乏でした。ハリウッドの映画産業は、1910年代から、大いに流行りはじめました。


 1922年にアインシュタイン(ドイツ生まれのユダヤ人)は、日本へやってきましたが、その前年にアメリカへ旅行しています。この旅行には目的がありました。彼は、「シオニスト」への協力者としてアメリカに行ったのです。
 「シオニズム」というのは、シオンの丘、これはイスラエルにあるのですが、そこにユダヤ人の国家を建設しようという運動のことです。この運動は19世紀末に高まってきたのですが、1917年に第一次世界大戦が終わり、中東からオスマントルコ帝国が消滅したことで、やや現実味を増してきました。戦争の結果イスラエルの地に勢力をおよぼす権利を得たイギリス(フランスと中東を分け合った)の理解を得ることができれば、それは実現するかもしれません。ということで、熱心なシオニストたちが努力して、イギリスの大物政治家と、国家を動かすほどの資金を持っている有力な人物ロスチャイルド家の応援を得ることが出来ました。これが有名な「バルフォア宣言」です。1917年のことです。イスラエル国家の承認をしたのです。この段階ではまだ、国家はできていませんでしたが、これからつくってもよい、という承認です。
 ロスチャイルド家については、以前も少しこのブログで採り上げたことがあります。もともとはドイツ・フランクフルトのユダヤ人(アンネ・フランクと同じですね)で、ドイツでは「ローストシツト(赤い盾)」という名前でしたが、イギリスに渡って聞き間違えられて「ロスチャイルド」になったそうです。
 ところで、「ユダヤ人」という人種はありません。「ユダヤ人」というのは、ユダヤ教という宗教と習慣を持っている人々のことをいいます。ですから、ドイツのユダヤ人といっても、その人がユダヤ教を捨てて改宗してしまえば、もはやユダヤ人ではなく、ただのドイツ人になるのです。ですが、「ユダヤ人」といっても、その宗教心はさまざまで、戒律をきっちり守っている人もいれば、そういうことはなにもせず、ただ、仲間としてつきあっている人もいるわけです。さして宗教心がなくても、きっぱりと「キリスト教に改宗した」と宣言するのでなければ、それもやはり「ユダヤ人」なのです。
 イギリスのロスチャイルド家は、キリスト教に改宗しました。ですから、もうユダヤ人ではないのですが、それでも、世間は「昔はユダヤ人だった」のでそういうイメージで見られたりします。シオニストたちが、ロスチャイルドにはじめに接触したときに、ロスチャイルドはほとんど関心がなかったそうです。本人たちはもうユダヤ人ではありませんし、イギリスで成功しているわけですから、そういうややこしいことに首をつっこんでしまう必要がないのです。ところが、ロスチャイルド家といっても、一人二人ではありませんから、何十人もいる一族の中に、「自分は元ユダヤ人である」ということに強い何か(誇りとか使命感とか)を持っている人もいるわけです。シオニストたちは、そういうロスチャイルドに何度も働きかけ、ついに協力を得たわけです。
 イギリスとしては、政治的な思惑があります。シオニストたちに新しくできるイスラエル国家への恩を売っておけば、中東を自分たちのために有利な状況に維持しやすいだろうということです。イスラエルの地の隣り、エジプトにはスエズ運河がありますから。エジプトでは当時何度も住民の独立運動が起こり、イギリスはそれを力で抑えていました。
 しかし結局はこのイギリスの思惑(イスラエルが自分の思い通りに動いてくれるだろうということ)は、アメリカやソ連からの非難があって、うまくはいかなかったのですが。
 アインシュタインは、シオニストというわけではなかったのですが、一時期、彼らに協力していました。アインシュタインは1919年以降世界中で大人気の人物となりましたから、彼が行けば、人とお金が集まったのです。イスラエル建国のための資金です。アインシュタインのこの募金協力は、イスラエルの地に建てる予定のヘブライ大学医学部の建設資金への協力というものでした。ユダヤ人である彼は、同じユダヤ人で、優秀にもかかわらず欧州では条件に恵まれない研究者がいることを知っていて、そういう人のためになるならと思ったようです。とくに東欧などでは、「ユダヤ人枠」という人数制限などがありましたから。ヘブライ大学は1925年に開校しています。


 
 ちょっと時間を遡ります。
 1904年2月に、日露戦争が始まりました。始まると同時に、日銀副総裁高橋是清が、資金調達に走りまわりました。
 朝鮮半島の旅順にまで南下してきていたロシア軍を追い出す、というのが日本のこの戦争の目的です。実際に追い出すことになるのですが、それですぐ「勝ち」とはなりません。戦争というのは結局はお互いが「もうやめよう」というまで終わらないのです。ロシアは、いったんは退却させられても、あきらめなければ、兵力と財力の上では日本より上なのです。そういうぐあいに戦争が持久戦になってきたら、最後にものをいうのは、兵器(実弾)と食料の供給ということになります。つまりは、お金がいつまで続くか、ということです。ところが、当時の明治政府はお金がまったくありませんでした。
 僕は前に田中正造の足尾鉱毒問題を採り上げましたが(これもまだ半分しか書いていないのですが…)、あの鉱毒があれほどの悲惨な状況でありながら、あの銅山の創業を止めなかった、古河鉱業の味方を政府がした、ということの背景には、こういう戦争などの非常時のために「お金が欲しい」という事情がありました。本当に日本にはお金がなかったのです。にもかかわらず、無理をして戦艦を買っていた。そして戦争を挑んだ。当時の国家予算の50パーセントが、軍備費でした。田中正造は、戦争などせずに、その金を民のために使えと言っていたわけです。国あっての民(国家主義)という考え方と、民あっての国(民主主義)という考え方の二極の対立の構図がここにもあります。(どっちも正しいんですがね。)
 田中正造の最後の10年間はクリスチャンでした。洗礼は受けていませんでしたが。彼は『新約聖書』のうちのマタイ伝のみを明治憲法とともに持ち歩いていました。そこに、「知恵」を見いだしていたようです。人間、あそこまでボロボロになって、それでやっと見えてくるものが聖書の中の「言葉」にはあるのでしょうか。
 それで、高橋是清ですが、お金を調達するために、外国へ行きました。お金貸してくれ~、ということです。高橋はまずアメリカへ行きました。断られました。次にヨーロッパへ行きました。これも断られました。
 ロシアと日本。どうやらイギリスなどは、日本が勝てばいいのに、と思っていたようです。司馬遼太郎『坂の上の雲』には、ロシアのバルチック艦隊が、アフリカなど立ち寄る港でその燃料である石炭の調達に、イギリスの意地悪のために苦労したことが描かれています。そのようにイギリスはロシアが苦労するのを期待はしていたが、日本が勝てるとは思っていなかった。そういうことなので、日本にお金を貸しても、返してもらうお金がないという状況は困るのです。それに日本には、担保となるような資源(鉱山とか)が乏しい。そういうことで、高橋是清の資金調達はうまくいきません。

 ところが、貸してあげるよ、という男が現われました。ヤコブ・シフです。ヤコブ・シフもまた、ドイツ・フランクフルト生まれのユダヤ人で、アメリカに渡り、古着商からはじめた金融家であり、全米ユダヤ人協会の会長にまでなっていた人です。
 広瀬隆著『赤い盾』の中に、高橋是清がイギリスのロスチャイルドに資金調達を頼んだところ断られ、ところが表向きには断られつつ、ヤコブ・シフのところへ行ってみよと紹介したと書いてあります。広瀬氏は、ロスチャイルドとシフとのつながりを調べていて、その家系図等が『赤い盾』には載っていました。広瀬氏は、シフから借りたこのお金は、ロスチャイルドから借りたことと同じことだといいます。
 そんなわけで、シフにお金を借りて、高橋是清の資金調達は成功しました。結局、日露戦争は日本が勝利しました。が、イメージとしては日本の「勝利」なのだが、戦後交渉では、ロシアから日本は戦費を引き出すことができませんでした。(お金くれなきゃやだ~と交渉をごねていたら、アメリカやイギリスから早く調印せよ文句がでてきたから。) なのでシフに借りた借金を、日本はせっせと自力で返すことになりました。 その後、第一次世界大戦がヨーロッパで起こったので、日本の産業は潤いました。ということで、日本のその、日露戦争での重い戦費は、結果的に日本人にのしかかることにならずにすみました。運がよかった、というしかない。
 なんだかんだで、戦争というものが起こると、他の誰かが儲かるというカラクリがありますね。(憂鬱になるが、それが現実です。) 貧しいフランクフルトの住民だったロスチャイルドの一族が、イギリスとフランスで大成功したのも、ナポレオン戦争があったからなのです。国家がその戦争に必要な資金を、ロスチャイルドは、魔法のように集めてきたのです。

 ヤコブ・シフはなぜ、日本に戦費を貸してくれたのでしょうか? 
 『坂の上の雲』にそれは書いてある。シフは、ロシアでのユダヤ人の迫害(1881年以後ひどくなった)を憂いていたのでした。シフはロシア政府にも金を貸し「お金を貸すから、どうかユダヤ人を虐殺しないでくれ」と頼んだ。が、金を貸した直後は迫害の手はゆるめられたが、すぐに元に戻ってしまう。やがてシフは、「革命が起こらねばだめだ」と思ったのです。日露戦争が始まったとき、シフは、少しでもロシアの帝政が衰弱すればと考え、そのために日本を資金援助したのです。

 日露戦争の終結は1905年ですが、その12年後にロシアでは革命が成立しました。指導者はレーニンです。レーニンはロシア人ですが、彼の率いるボリシェヴィキの多くはユダヤ人だったといいます。
 そういうふうに革命が起こってロシアの帝政が終わって、その指導者の中にユダヤ人が沢山いた、にもかかわらず、民衆レベルでのユダヤ人の生活は改善することがなかったのでした。
 もともと帝政ロシアでは、ユダヤ人は受け入れていなかった。ところが、隣国のポーランドなど東欧にはユダヤ人が多く住んでいた。時代の政治状況と共に、「国境線」が変化した。そのためにロシアの領土が広がった際、そこにユダヤ人が含まれていたのである。帝政ロシアはユダヤ人をすぐに追い出すことはしなかったが、ユダヤ人に関しての多くの制限を課した。



 さて、アイザック・アシモフは、そのような地域で生まれました。ロシア・ユダヤ人としての彼の名前はイザク・アジモーといいます。彼が3歳、妹が生まれたばかりの時、1922年の暮れに、彼ら家族4人は、ニューヨークへ向けて出発しました。
 この時、アインシュタイン博士は、日本にいました。1922年12月29日、ア博士は夫人とともに九州門司の港にいて、日本との最後の別れを惜しんでいました。博士とエルザ夫人の眼には、涙があったそうです。
 翌1923年2月、アシモフ一家はニューヨークへ到着。

       

 ロシアでのユダヤ人への迫害を「ポグロム」という。
 第一次世界大戦後の、イスラエルへのユダヤ人の入植者の多くは、ロシアからのものであった。彼らのほとんどは、シオニズムという思想とは関係がなく、ただロシアのポグロムを避けて、住みよい場所を求めてイスラエルにやってきたのである。彼らは、土地をアラブ人から買った。アラブ人は、良い値段で買ってくれるのならと、土地を売った。その時期、ユダヤ人とアラブ人との対立などなく、もともとそれまで国家をつくっていたのはアラブ人ではなく、トルコ人(オスマントルコ帝国)であるから、「国」という概念が希薄だった。住民と住民として、アラブ人はユダヤ人に土地を売ったのである。
 ところがそこに突如、「イスラエル」という国家が出現した。アラブ人(パレスチナ人)からすれば、そんなの聞いてないよ、である。


 ユダヤ人の迫害といえば、第二次世界大戦におけるヒトラー・ドイツのそれが想起されますが、もともとドイツでは、それまで、ドイツ人とユダヤ人は、比較的うまくやっていたのです。ユダヤ人にとって住みやすい土地だったようです。ドイツやオーストリアにたくさんのユダヤ人が住んでいるのはそのためです。ドイツという国を、他の先進国に負けないようにすすんだ国にするために、ユダヤ人もドイツ国民として働き、信頼関係も築いてきました。 それが、ヒトラーが政権を取ると、とたんにあれですから…。 



 ところで、アインシュタインはドイツ生まれのユダヤ人と聞いていたのに、三浦綾子(プロテスタント)の著書『光あるうちに』の中に、「アインシュタインもキリストが神であると信じていた」と書いてあるんです。どうなってんの~?
 それと、○○シュタインの「シュタイン」は、「石」という意味らしいけど、じゃあ、アインシュタインの「アイン」って何? フランケンシュタインの「フランケン」って何? (気になるワー。)
 三浦綾子さんは、また、題名は忘れたがその著書(エッセイ)の中に、講演の仕事で東北にその夫(三浦光世氏)とともに行った時に、将棋のほかにはほとんど趣味のない夫が、天童で将棋の駒(それほど高価な値段ではなかった)を買ったときのうれしそうな夫の描写があります。そういう印象もあってそれである日、三浦綾子さんは、夫に将棋というものを習ってみようと思いました。小説に利休を書くことになったのですが、将棋を習えば何かヒントが得られるかと思ったのがその動機です。将棋を習い始めた三浦綾子は、驚いて、こう言ったそうです。
 「こんなに面白いもの、なんで今まで女に教えてくれなかった!」

 三浦綾子さんは、晩年はパーキンソン病だったそうです。モハメド・アリ、岡本太郎も晩年はそうでした。
 映画『レナードの朝』を思い出す。これはパーキンソン病とは違う病気のようだが、パーキンソンのために開発されたL-ドーパという新薬を投与することによって起きた奇跡(実話だそうだ)を映画にしたもの。主演はロバート・デ・ニーロで、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の主演も同じ、デ・ニーロです。


 なお、天童(山形県)は、今期竜王戦第7局の決戦の場でした。
 今日届いて読んだ『週刊将棋』には、この戦いの記事とともに、鈴木宏彦氏の、最近の序盤の勝率についての特集がありましたが、それによると、先手▲7六歩に対し、後手の2手目は、
 △8四歩=勝率.437
 △3四歩=勝率.515
とある。これが今年の勝率だという。2手目△8四歩は居飛車の「王道」のはずなのに…!
 今は居飛車党でも△3四歩(一手損角換り、ゴキゲン中飛車)が大流行りなのだ! こんな時代が来ると、だれが予測できただろうか!
 そういう中で、第7局、渡辺明竜王は、羽生善治名人の▲7六歩に、(いま流行りでない古風な)△8四歩で闘ったのだ。そのガンコさに、神様も微笑んだのだろうか? …などと僕は思いました。(で、今発見しましたが、天童の対局場は「ほほえみの宿 滝の湯」です。おお!)




 乱筆乱文、まことに失礼しております。
 しかも長い! 書き散らかしました。