はんどろやノート

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京須八段の駒

2007年06月27日 | しょうぎ
 京須行男という大正生まれの棋士がいた。戦争で中国に出征し胸に銃弾が当たり重症を負うという体験をしている。棋士しては目だった活躍はしなかったが、義理人情に篤いひとだったという。

 京須さんと親しい棋士に渡辺東一(名誉九段)がいた。その渡辺さんの弟子に北海道出身の勝浦修という少年がいて、当時高校生。勝浦さんは、京須さんの自宅に下宿させてもらい高校へ通い、そしてプロ棋士となり、巣立っていった。

 京須さんは、昭和46年に亡くなり、八段が贈られた。京須八段には娘がいて、節子といい、そのとき16歳だった。
 その後、節子さんは結婚し、子どもが生まれた。男の子だった。
「子どものころ、いたずら好きで、行儀がすごく悪かったんです(笑)。 将棋を覚えたのは小学校3年のころで、父親が教えました。なぜか指している間はおとなしくていい子でした(笑)。将棋がとても面白かったのか、母のところに送られてくる『将棋世界』をくる日もくる日も読み、父の形見の駒を独りで動かしていました。」(節子さんの話)
 少年は将棋のこども大会へ出るようになり、羽生少年、郷田少年、中井広恵らと出会う。プロ棋士になりたい、と思うようになる。

 一方、勝浦さんは棋士として順調にすすみ、A級八段になった。京須家とは縁がとおくなっていたが、あるとき京須八段の娘節子さんがやってきた。息子を弟子にしてほしい、と。

 そのような縁で、森内俊之少年は、勝浦修(現九段)の弟子となった。

 師匠の勝浦さんはタイトルに2度挑戦しているが、取ることはできなかった。
 弟子の森内は、才能を周囲から認められていたが、なぜか、ずっとタイトルをとっていなかった。25歳で名人挑戦者になったが、7冠ロードをすすむ羽生善治の大きな輝きを前にしては、脇役にしかなれなかった。
 その森内が、ついに「名人」を手にしたのは、森内31歳のとき。その年に結婚もして、才能は開花した。羽生善治とも互角に戦うようになった。


 さあ、森内・郷田の名人戦。 明日、決戦だ。
 森内の作戦はなんだろう? 初めての「名人」を決めたときは、振り飛車だったが…。 郷田は、いま、なにを考えているだろうか。
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