ヨハン・セバスチャン・バッハは、今でこそ音楽史上最大の作曲家のひとりとされているが、19世紀前半には半ば忘れられた存在だった。それを再評価するきっかけを作ったのは、弱冠20歳のメンデルスゾーンである。
当時バッハは干からびた音楽と見なされ、全く人気がなかった。一般の人々は、バッハ、イコール、単なる練習曲とさえ思っていた。
まして彼のオラトリオ(聖譚曲=聖書を題材に、独唱・合唱・管弦楽で物語風に構成した作品)はほとんど忘れ去られ、「マタイ受難曲」も1727年にライプツィヒの聖トーマス教会でバッハ本人の指揮によって初演されて以来、ごくたまに合唱曲の一部がとりあげられるていどで、全曲演奏は一度もされていない。ヘンデルのオラトリオが長く愛され続けてきたのに比べ、著しく低い評価しかされていなかった。
メンデルスゾーンが古典を勉強するうちバッハに触れ、その端正さに惹かれたのは自然のなりゆきだったとしても、カビが生えていると見なされていたバッハの真価を見抜いたのは、やはりすばらしい慧眼と言わざるを得ない。
彼の尽力により、「マタイ」は再演されることとなった。1829年、ベルリンのウンター・デン・リンデンにあるジングアカデミー・ホールにおいて、メンデルスゾーン指揮のもと、大規模なオーケストラと150人もの合唱団で、100年ぶりにバッハは蘇ったのだ。
圧倒的な成功だった。「マタイ」は10日後(ちょうどバッハの誕生日にあたる)に第2回目が、さらに日をおかず3回目も続けて上演された。収益金は全て、恵まれない少女のための裁縫学校設立にあてられた。
人々のバッハへの熱狂は、やがてベルリンからフランクフルト、ケーニヒスベルク、ドレスデン、そして国外へと、漣のごとくひろがっていゆく。
メンデルスゾーンはこうして、バッハ再評価の道を拓くという、音楽史に残る偉業を成し遂げた。まさに彼なくして、今へ続くバッハ受容はなかったといっていい。ブラボー、メンデルスゾーン!
☆「メンデルスゾーンとアンデルセン」⇒ http://www.bk1.co.jp/product/2661441
☆新著「怖い絵」(朝日出版社)
☆☆アマゾンの読者評で、この本のグリューネヴァルトの章を読んで「泣いてしまいました」というのがありました。著者としては嬉しいことです♪
①ドガ「エトワール、または舞台の踊り子」
②ティントレット「受胎告知」
③ムンク「思春期」
④クノップフ「見捨てられた街」
⑤ブロンツィーノ「愛の寓意」
⑥ブリューゲル「絞首台の上のかささぎ」
⑦ルドン「キュクロプス」
⑧ボッティチェリ「ナスタジオ・デリ・オネスティの物語」
⑨ゴヤ「我が子を喰らうサトゥルヌス」
⑩アルテミジア・ジェンティレスキ「ホロフェルネスの首を斬るユーディト」
⑪ホルバイン「ヘンリー8世像」
⑫ベーコン「ベラスケス<教皇インノケンティウス10世像>による習作」
⑬ホガース「グラハム家の子どもたち」
⑭ダヴィッド「マリー・アントワネット最後の肖像」
⑮グリューネヴァルト「イーゼンハイムの祭壇画」
⑯ジョルジョーネ「老婆の肖像」
⑰レーピン「イワン雷帝とその息子」
⑱コレッジョ「ガニュメデスの誘拐」
⑲ジェリコー「メデュース号の筏」
⑳ラ・トゥール「いかさま師」
当時バッハは干からびた音楽と見なされ、全く人気がなかった。一般の人々は、バッハ、イコール、単なる練習曲とさえ思っていた。
まして彼のオラトリオ(聖譚曲=聖書を題材に、独唱・合唱・管弦楽で物語風に構成した作品)はほとんど忘れ去られ、「マタイ受難曲」も1727年にライプツィヒの聖トーマス教会でバッハ本人の指揮によって初演されて以来、ごくたまに合唱曲の一部がとりあげられるていどで、全曲演奏は一度もされていない。ヘンデルのオラトリオが長く愛され続けてきたのに比べ、著しく低い評価しかされていなかった。
メンデルスゾーンが古典を勉強するうちバッハに触れ、その端正さに惹かれたのは自然のなりゆきだったとしても、カビが生えていると見なされていたバッハの真価を見抜いたのは、やはりすばらしい慧眼と言わざるを得ない。
彼の尽力により、「マタイ」は再演されることとなった。1829年、ベルリンのウンター・デン・リンデンにあるジングアカデミー・ホールにおいて、メンデルスゾーン指揮のもと、大規模なオーケストラと150人もの合唱団で、100年ぶりにバッハは蘇ったのだ。
圧倒的な成功だった。「マタイ」は10日後(ちょうどバッハの誕生日にあたる)に第2回目が、さらに日をおかず3回目も続けて上演された。収益金は全て、恵まれない少女のための裁縫学校設立にあてられた。
人々のバッハへの熱狂は、やがてベルリンからフランクフルト、ケーニヒスベルク、ドレスデン、そして国外へと、漣のごとくひろがっていゆく。
メンデルスゾーンはこうして、バッハ再評価の道を拓くという、音楽史に残る偉業を成し遂げた。まさに彼なくして、今へ続くバッハ受容はなかったといっていい。ブラボー、メンデルスゾーン!
☆「メンデルスゾーンとアンデルセン」⇒ http://www.bk1.co.jp/product/2661441
☆新著「怖い絵」(朝日出版社)
☆☆アマゾンの読者評で、この本のグリューネヴァルトの章を読んで「泣いてしまいました」というのがありました。著者としては嬉しいことです♪
①ドガ「エトワール、または舞台の踊り子」
②ティントレット「受胎告知」
③ムンク「思春期」
④クノップフ「見捨てられた街」
⑤ブロンツィーノ「愛の寓意」
⑥ブリューゲル「絞首台の上のかささぎ」
⑦ルドン「キュクロプス」
⑧ボッティチェリ「ナスタジオ・デリ・オネスティの物語」
⑨ゴヤ「我が子を喰らうサトゥルヌス」
⑩アルテミジア・ジェンティレスキ「ホロフェルネスの首を斬るユーディト」
⑪ホルバイン「ヘンリー8世像」
⑫ベーコン「ベラスケス<教皇インノケンティウス10世像>による習作」
⑬ホガース「グラハム家の子どもたち」
⑭ダヴィッド「マリー・アントワネット最後の肖像」
⑮グリューネヴァルト「イーゼンハイムの祭壇画」
⑯ジョルジョーネ「老婆の肖像」
⑰レーピン「イワン雷帝とその息子」
⑱コレッジョ「ガニュメデスの誘拐」
⑲ジェリコー「メデュース号の筏」
⑳ラ・トゥール「いかさま師」
バッハは教会音楽も多いので、昔から
みんなに親しまれていたものと思っていました。
インベンションやシンフォニアなどの
練習曲もただの練習曲というより、
ひとつの曲として、いいものが多いと
思います。バッハのたくさんの練習曲って、
自分の息子用に作られたと聞いています。
きっと、バッハは幸せな人生を歩んで
いたのではなかろうかと想像していたのですが、
あまり売れてなかったんですかねえ・・・。。
たか君の“毎日ga全力疾走∞!!”こと重田です。
バッハといえば、小学校の音楽室に飾ってあった、怖い顔のバッハしか思い出しません。
しかもバッハの目が動いたの動かんのって・・・(汗)
それにしても、私はメンデルスゾーンの存在を知ったのはkyokoさんのブログと出会ってからです。
メンデルスゾーンは非常に有能であったように思えたのですが、音楽室のバッハ・ベートーベン・モーツアルト・シューベルトと肩を並べなかったのは何故なのでしょうね。
すいません、素朴な疑問でした。
その意味とは違うにしても、メンデルスゾーンの評価も現代に蘇ってほしいです。
バッハ・ファンは「メンデルスゾーンに感謝すべき」でしょうね!
でもそうは言ってもバッハほどの天才。永久に埋もれるはずもないので、もしメンデルスゾーンがいなくても、いつかはきっと別の人によって再評価されたはずです。少しは遅れたかもしれませんけど。
なにしろ、いい身分のケーテン宮廷楽長の地位を捨てて、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントールになったのですから。
カントールというのは、自分の教会の聖歌隊達のために作曲することも任務だけれど、何より、聖歌隊の指導をしたり、オルガンを弾いたりしなければならない。
現在でも、ドイツの教会にはカントールはいるのですが、ドイツでは聖職者は公務員として地位・給与が保証されているのに対し、カントールは、教会員に雇われているという、極めて不安定な立場。
それでも、現在のドイツでは、能力に応じてランクがあり、給与水準も決まっているようですが、なんたって、自治体のようなところから決まった給与が貰えるわけではなく、教会員に養われているのですから、どうかすると、給与が低水準の売り子その他と変わらなかったりするのですよ。
バッハの時代だって、似たり寄ったりで、教会のカントールなどというのは、「おらが村の音楽家」。宮廷楽長の地位とは、比べ物にはならない。
それでも、あえて宮廷楽長の地位を捨ててカントールになったということは、それだけ、宮廷楽長の地位が窮屈で、作曲したい曲も作曲できない。
自分の書きたい曲を書きたいように書くには、カントールの立場の方がいいと判断して、名誉や社会的地位・経済的保証より、芸術的自由を選んだということでしょうね。
それともうひとつ、たとえ一カントールであっても、大バッハの偉大さは音楽家の間では知られていたはずなのですが、バッハの子供達、特にカール・フィリップ・エマヌエルとクリスチャンが、大バッハとは全く異なる新しい様式で作曲したために、余計、大バッハの作品は「古めかしい」ということになってしまったのです。
カール・フィリップ・エマヌエルなどは、当時はやりのシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)様式で、プレ・クラシック時代を代表し、モーツァルトなどにも、多大な影響を与えています。
なんだか、ヴィーラント・ヴァーグナーやヴォルフガング・ヴァーグナーなどが、ヴァーグナー本来の意図とは全く異なると思われるような斬新な演出をバイロイト音楽祭に持ち込むのと、似たような雰囲気。
というより、演出ではなく、作曲家同士だし、今のように過去の遺産を出版物や録音で知ることが容易な時代ではないから、新しいものに古いものが駆逐されるのも早かったということでしょう。
バッハの時代の音楽が、ほぼ完全に忘れ去られた背景には、18世紀末から19世紀初頭にかけて、市民社会やコンサートの発達と共に、楽器の構造が変わり、それに伴い、バロック時代の装飾法や即興演奏の技術も失われてしまったことも大きいでしょうね。
逆に、メンデルスゾーンによるマタイ受難曲の蘇演は、19世紀に始まるドイツ・オーストリアの音楽学・音楽文献学や、資料研究に基づく作品全集の刊行とタイアップしている。
とはいえ、バロック時代はもとより、古典派・初期ロマン派の時代の楽器や奏法の研究が進み、曲の本質が解明されるのは、20世紀に入ってからのことですが。
だから、バッハが偉大なのになぜ……というよりは、すべてが、大きな時代の流れなのではないでしょうか。