中野京子の「花つむひとの部屋」

本と映画と音楽と。絵画の中の歴史と。

フリードリヒ大王のフランス語(世界史レッスン第30回)

2006年09月12日 | 朝日ベルばらkidsぷらざ
 朝日新聞ブログ「ベルばらkidsぷらざ」で連載中の「世界史レッスン」第30回目の今日は「18世紀ヨーロッパを席捲したフランス語」⇒http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2006/09/1765_25d5.html#more
当時のヨーロッパでいかにフランス語が権威を持っていたかについて書いた。

 フリードリヒ大王が若いころ父王に殺されそうになったエピソードは第27回で書いたが、質実剛健のプロシャ王としては跡継ぎの息子が敵国フランスかぶれになっているのは我慢できなかったらしい。フランス・ファッションでちゃらちゃらあらわれた息子に雷を落としたこともある。父にしてみれば女装しているのに近い印象を持ち、嫌悪感を覚えたのだろう。

 フリードリヒのフランス万歳は年季が入っていて、老年になってもドイツ文学などは全く認めなかった。「ゲッツ」で華々しく登場したゲーテに対しても、「シェークスピアの拙劣な真似」と切って捨てている。そのシェークスピア自体の真価も認めていなかった。

 それにしてもドイツ語で育ち、ドイツ語が常に周りにあるわけで、彼のフランス語は決して完璧ではなかったとの説もある。自国語はだめ、もう1ヶ国語は中途半端という最悪のバイリンガルだったとは、まさか思えないが・・・

 けっきょく当時のドイツが二流国だったための悲劇が、言語への姿勢にあらわれたとは言えるかもしれない。イタリアも田舎国なのでイタリア語はただの地方語扱い。ただし音楽は別。このころまではとにかくイタリア・オペラでなければオペラにあらずだった(もちろんフランスは例外!)。モーツァルトが一生懸命ドイツ語でオペラを作曲したがったのに妨害にあう様子は映画「アマデウス」にも描かれている。
 
 モーツァルトついでに、彼の悪妻コンスタンツェのこと。彼女は手紙を書くのが非常に苦手だったが、それは教会経営の学校でドイツ語の作文の授業がなく、ラテン語作文ばかりを習ったかららしい。

 というわけでもちろんわたしは小学校で英会話を教えることには反対の立場です。


♪「メンデルスゾーンとアンデルセンの書評」⇒http://www.meiji.ac.jp/koho/meidaikouhou/20060501/0605_10_booknakano.html
コメント (21)
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