経営の視点から考える「知財発想法」

これからのビジネスパーソンに求められる「知財発想法」について考える

常識に囚われずにより適切な手段を探る

2009-01-04 | 知財一般
 昨年一昨年は、年の始めにあたり、みたいなエントリを書いていたのですが、今年はどうもこれといったネタが見つかりません。その理由はおそらく、普通に経済が回っているときであれば一年一年を区切りにして自分なりのテーマを設定することにも意味があるのでしょうが、昨年から起こっているような歴史的ともいえるような経済の変革の過程においては、年が替わることの意味合いも薄れてくるということなのではないかと思っています。そういう意味では、昨年後半からスタートしている「経済の様々なルールが変化する中で、自分は何をしていけばよいのか」ということが当面の大きなテーマとなり、それは今年と区切ってどうこうするような性質の問題ではないのでしょう。
 年末年始の討論番組などを見ていると、「市場原理主義、株主至上主義が崩壊した」「小泉改革の誤りが明らかになった、規制緩和・構造改革は過ちだった、」と勝ち誇ったように叫ぶエコノミストが目立つようになっています。確かに、投資銀行のビジネスモデルの崩壊に見られるように、市場の欠陥が明らかになったことは事実なわけですが、どうもこの種の主張には「では根本の問題をどうやって解決するのか」というところをすっ飛ばしているものが多いように感じます。そもそも、日本がこうした米国型資本主義のモデルに傾斜した背景には、経済が成熟し、キャッチアップ型の産業モデルに限界が生じ、マイナス成長・デフレ経済という泥沼に陥ってしまっていたという状況があったわけです。そこで、市場の競争原理によって新産業の創造を活性化させようというのが本来の目的だったのであり、単純に元の状態に戻せばよいという話ではないことは勿論、「人を大切に」「日本らしさを」「ものづくりを重視して」みたいな抽象論だけではそもそも抱えていた課題に対する解決策にはなりません。人は崇高な「理想」だけで普通は動けないものであり、そこにうまく「カネ」も含めたリターンが得られる仕組みを作っていかないと(勿論「カネ」のインセンティブに傾斜しすぎたことは大きな反省点になるわけですが)、現実の社会を支える「経済」にはなってこない。前回書いた金融の問題にしても、しっかり審査して金融機関自身が責任をとるモデルに転換しようといっても、社会の変化のスピードやニーズの多様化に対して将来予測が困難になっているという問題は何ら解決されていないわけであり、その部分について証券化等によるリスク分散に代わる新しいモデル(あるいはそれを修正したモデル)が出てこないと、結局前には進めなくなってしまうわけです。
 それがどういうモデルなのかは当然ながらまだ見通すことはできませんが、金融の例などから考えると、プロフェッショナルにはより自らが責任を負担することを求められるようになる中で、将来の不確実性にきめ細かに対応していく道を探っていくことにならざるを得ないのではないかという気がします。経済活動に参加するプロフェッショナルという立場は、知財人も同じです。結果に対する要求がこれまで以上に厳しくなってくるでしょうし、そのためには、個別によりきめ細やかな対応を効率的に行うことが求められるはずです。たぶんこれまでの考え方の枠内にある定型業務では対応できないことが増えてくるだろうし、常識に囚われずにより適切な手段を探る姿勢が肝要になってくるのだろうと思います。
 結局は抽象的な話になってしまいましたが、まずは「常識に囚われずにより適切な手段を探る」というところの実践から。

※ 写真は角界随一のうまさと評判の鳴戸部屋のちゃんこ鍋で、エントリ本文とは関係ありません。