FotRの時から違和感を持ち続けていた映画のサムでしたが、RotKではそんなに違和感感じずに済むんじゃないかなあという予感はありました。どんなサムであろうと、フロドを心配して、フロドとの別れを悲しむのは同じだろうと思ったので・・・
実際にRotKを見て、ややひっかかる部分はあるものの、意外に違和感を持たずに済みました。やっぱりカッコ良すぎだよなあ、と思う部分もあるのですが、滅びの山でフロドのために涙を流す姿、滅びの亀裂で手を伸ばそうとしないフロドに「放さないで」と言う姿、そして灰色港でフロドが行くと知って呆然とする姿、そういうのを見ていると、他は水に流せるかなあと思いました。
思えばFotRでも、湖に入っていくサム、カッコ良すぎると思いつつも、その真剣な演技を見て、「まあいいか」と思えたものでした。
TTTでは、例のオスギリアスの長台詞の直前、フロドに剣を突きつけられて「Don't you know your Sam?」と涙を流すサムはとても良かったのですが、その後がどうしてもダメで、ショーン・アスティンの演技で水に流せるまでは行かなかったようです。
RotKのサムは、良かった部分がひっかかる部分を凌駕したので、水に流せると思えたみたいです。ショーン・アスティンの演技はやっぱり上手いと思いました。
原作のサムのことを思うに、「王の帰還」終盤のサムは本当にすごくて、感動するけれど、映画のサムを見たあとだと「すごすぎる」と思えたりして・・・。
純朴なサムが信念を貫き通す姿からは、ただホビットの素朴さの力とかそういうことを超えて、「何か」に見守られ、導かれているのを感じます。オークの塔で突然西の国の美しい歌が口をついて出る場面や、白い星を見て心安らかになる場面を読むと、そういうのを強く感じますね。
PJ映画では、サムに限らず、登場人物たちは皆「普通の人間」(まあサムはホビットですが)として描かれているんだなあというのをつくづく感じます。ここまで映画を観てきて、映画はそうなんだ、という風にかなり割り切れて来たような気がしています。まあ、それだけでは割り切れない人もまだいるのですが(汗)
面白いのは、映画のサムはカッコイイ分、あくまでも「普通の人間(ホビット)」のままで、原作と違って最後で主人公にはなり得なかった、ということですね。まあこれはフロドの描かれ方の違いもあるのでしょうが。
実際にRotKを見て、ややひっかかる部分はあるものの、意外に違和感を持たずに済みました。やっぱりカッコ良すぎだよなあ、と思う部分もあるのですが、滅びの山でフロドのために涙を流す姿、滅びの亀裂で手を伸ばそうとしないフロドに「放さないで」と言う姿、そして灰色港でフロドが行くと知って呆然とする姿、そういうのを見ていると、他は水に流せるかなあと思いました。
思えばFotRでも、湖に入っていくサム、カッコ良すぎると思いつつも、その真剣な演技を見て、「まあいいか」と思えたものでした。
TTTでは、例のオスギリアスの長台詞の直前、フロドに剣を突きつけられて「Don't you know your Sam?」と涙を流すサムはとても良かったのですが、その後がどうしてもダメで、ショーン・アスティンの演技で水に流せるまでは行かなかったようです。
RotKのサムは、良かった部分がひっかかる部分を凌駕したので、水に流せると思えたみたいです。ショーン・アスティンの演技はやっぱり上手いと思いました。
原作のサムのことを思うに、「王の帰還」終盤のサムは本当にすごくて、感動するけれど、映画のサムを見たあとだと「すごすぎる」と思えたりして・・・。
純朴なサムが信念を貫き通す姿からは、ただホビットの素朴さの力とかそういうことを超えて、「何か」に見守られ、導かれているのを感じます。オークの塔で突然西の国の美しい歌が口をついて出る場面や、白い星を見て心安らかになる場面を読むと、そういうのを強く感じますね。
PJ映画では、サムに限らず、登場人物たちは皆「普通の人間」(まあサムはホビットですが)として描かれているんだなあというのをつくづく感じます。ここまで映画を観てきて、映画はそうなんだ、という風にかなり割り切れて来たような気がしています。まあ、それだけでは割り切れない人もまだいるのですが(汗)
面白いのは、映画のサムはカッコイイ分、あくまでも「普通の人間(ホビット)」のままで、原作と違って最後で主人公にはなり得なかった、ということですね。まあこれはフロドの描かれ方の違いもあるのでしょうが。
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