さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

マニラ モンテンルパ刑務所

2023-01-16 15:21:28 | 海外旅行









山下大将




戦犯として処刑された17名のご遺影
※昭和22年、米国からフィリピンへ戦犯の裁判権が移行された直後から死刑判決が乱発され、昭和23年12月1日現在フィリピン裁判の被告人、及び判決を受けた者367名がここモンテンルパに移監された。昭和24年12月から死刑判決を受けた者は1階の死刑房、無期・有罪が2階の房に収容された。




ああモンテンルパの夜は更けて
   作詞:代田銀太郎   作曲:伊藤正康   歌唱:渡辺はま子
  (一)
  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る

 (二)
  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く
  さだめは悲し 呼子鳥

 (三)
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは


 昭和27年6月、この歌が大ヒットした。この歌はフィリピン、マニラ郊外のモンテンルパ刑務所の死刑囚の作った歌だったのだ。作詞がB級戦犯死刑囚:代田銀太郎元大尉、作曲がB級戦犯死刑囚:伊藤正康元大尉、歌ったのが「支那の夜」などを歌った渡邊はま子。
 戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいることを知った渡邊はま子は驚愕し、レコード化に奔走して、遂に大ヒットさせたのである。これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まった。
昭和21年フィリピンは独立、昭和22年に裁判権はフィリピンに移譲されていた。

 戦時中の慰問で自分も戦意をあおった一人であると感じた渡邊はま子は、どうしてもモンテンルパに行って皆さんに謝りたいと思い、渡航の困難だった時代に手を尽くしてフイリピンへ渡った。当然フイリッピン政府からヴィザなど降りない。単に戦犯の慰問というだけでなく、終戦時には虜囚となり一年も収容所に入っていた女性である。許可など出る筈もなかった。それでも渡辺はま子は香港に向けて出発して行った。香港経由でフィリピンに強行入国・・・
 昭和27年12月24日、歌手・渡辺はま子の歌がモンテンルパの刑務所の中を流れた。熱帯の12月、クリスマス・・・。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子は振袖を着て歌った。もう随分と長い間見たこたことがなかった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった。この歌は、この刑務所の死刑囚達が作詞作曲したものである。この歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえた。会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めた。多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあったようだ。
 そして、この「ああモンテンルパの夜は更けて」が、これらの人々を救い出す事になったのである。 昭和28年5月、キリノ大統領がこのメロディーを聞いたあと、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞をした者もまた死刑囚であること、また歌詞の意味を聞き、感動。
 大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失っていた。
「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ」

 死刑囚82名のうち、17名は死刑されたが、18番目の伊藤正義から中止、大統領の特赦を受けて釈放された。
横浜の埠頭で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡辺はま子の姿があった


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