さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

ガダルカナルの戦い

2023-01-24 13:25:41 | 地域
予科練平和記念館講演会
令和5年1月21日(土)、記念館20世紀ホールにて
テーマ:歴史(戦史)「太平洋戦争において攻守の転換点となったガダルカナル島の戦い(1942.8~1943.2)」


零式艦上戦闘機(零戦)二一型 実物大模型


ラバウルよりはるか南のガナルカナル島に基地を建設し、ソロモン諸島の制空権を拡張する作戦をたてた。
1942(昭和17)年7月6日に上陸開始した海軍設営隊は約1ヶ月で、飛行場を完成させた。
8月8日にラバウルの基地から零戦6機をこの基地に進出させる予定だった。



1942(昭和17)年8月7日午前4時、日本軍が警備の者以外就寝中に米軍は奇襲攻撃を開始してきた。
日本軍は設営隊と護衛隊をあわせても600名たらず、そこへ米国一個師団約10,000名が上陸を開始ルンガ飛行場は、あっという間に占領されてしまった。
事態は日光にいた昭和天皇にも速報され、天皇は「米軍の本格反攻ではないのか!・・・」と問うが、大本営は、開戦以来の連戦連勝で判断能力を失っていた。
①米軍の反撃は「来年の昭和18年後期頃からだろう」という見通しを変えず、今回の攻撃は、威力偵察(情報収集)程度と判断した。
②米軍の上陸兵力は1,500名程度と判断していた。



(1)第一次ソロモン海戦 8月8日
日本軍は迅速な攻撃で米艦隊に大損害を与える一方的勝利であったが、作戦目標であった米軍の「輸送船団」には全く被害を与えることが出来なかった。8月20日、ルンガ飛行場に米軍戦闘機31機が到着、制空権が米軍に移った。また、大本営は、島に残る米軍兵力は2,000名と考えた。実際は10,900名であった。
8月21日夜半より、米軍の激しい攻撃になす術もなかった。
(2)第二次ソロモン海戦 8月24日
大本営は1個旅団約4,000名の投入を決意、海上輸送をめぐり日米空母の海戦が発生した。米軍は何故か退却、日本軍は予定どおり上陸。9月12日~13日総攻撃を開始したが失敗に終わった。
準備された防御陣地への攻撃には、3倍の兵力が必要とされている。日本軍の兵力は米軍の1/3.火力は1/10であった。米軍は増強され20,000名を超えていたが、大本営は7,000名程度と分析していた。
(3)ルンガ飛行場砲撃  10月13日
大本営は面目をかけても島の放棄はできず、第2師団(仙台)をもって10月中旬、陸海軍総力で反撃することになった。
兵力17,500名、火砲176門、食料20日分、弾薬0.8会戦分。この作戦の成否はこれらの輸送に成功するかどうかにあった。ジャングルでの作戦準備は困難をきわめた。24日夜、猛烈が豪雨。日本軍の攻撃は3方向から行われた。
米軍の兵力、火力は更に増強されていた。日本軍は米軍の実態を十分把握せず、米軍は日本軍の行動を完全に把握したなかで、24日25日夜の攻撃は猛烈な防御火力に阻止された。
ガダルカナル攻防戦は輸送戦であった。駆逐艦、潜水艦、大型発動機艇で必死に補給を続けたが、態勢は挽回できなかった。(米軍は”東京急行”と呼んでいた)
大本営の机上論と意地は無残な結果となり、現地で待っていたのは飢餓であった。ガダルカナル島は局限化の「蛾島」となり、昭和18年の新春、兵士に配られた正月祝いは乾パン2個、金平糖1個であった。”兵は噛みしめ、涙とともに飲み込んだ”
(4)撤退の決定 12月31日御前会議
昭和18年2月1,4,7日、海軍駆逐艦22隻による3回の撤退作戦で、餓死寸前の将兵約1万人は、21,000人の英霊を島に残して撤退した。開戦以来の「不敗陸軍」「無敵皇軍」の神話は消滅、国運をかけた戦いに敗れ、その後、ペリリュー島、レイテ島、硫黄島、沖縄の戦いに次々と敗れ、敗戦の道をたどることになった。


※歴史(戦史)は民族の遺産!・・それは、その勝敗に拘わらず、全知全能を傾け尽くした先人の燃えるような情熱であり、魂を揺さぶる感動であり、無尽蔵の教訓に溢れている。・・・
 大東亜戦争の全戦没者 約310万人 ・・・・1904(明治37)年の日露戦争での戦没者は約9万人
 

阿見町遺族会名簿の戦没者は518人、フィリピン、ニューギニア、ビルマ等が多い。
 
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