さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

ラムット橋

2023-01-16 15:23:28 | 海外旅行





ラムット橋(在留邦人・傷病兵遭難 悲劇の橋)
昭和20年6月9日朝、橋が破壊されキアンガンへ向かう途中の傷病兵や在留邦人が、雨期で増水したランタップ川で立ち往生、人であふれたところへ米軍機と戦車の無差別射撃が行われた。付近は地獄絵となり約1000人が死亡した。






仮調印場所に再建された建物
第14方面軍・山下奉文大将は、キャンガン(標高766m)を最後の司令部として昭和20年5月22日、バンバンから移ってきた。しかし、米軍の接近でさらに奥のパクダン、ハバンガンへと追い詰められた。
昭和20年9月2日、キャンガンの小学校の米軍連絡所にて、山下大将は降伏文書に仮調印した。その日に、バガバッグでジープ、北サンフェルナンドまで飛行機、さらに車と乗り継いでバギオ着。翌日、昭和20年9月3日キャンプ・ジョンヘイのマッカーサー元帥の面前で正式調印した。

□ ルソン島の戦い
戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1945年1月6日 - 8月15日
場所:ルソン島
結果:アメリカ軍の勝利
 ルソン島の戦いは、1945年1月6日から終戦までフィリピン・ルソン島で行われた、日本軍(第14方面軍:司令官 山下奉文大将)とアメリカ軍の陸上戦闘のことを言う。首都マニラは3月にアメリカ軍が制圧したが、その後も終戦まで戦闘が続いた。日本軍に機甲師団が配属されていたため、太平洋戦線では珍しく多くの戦車戦が発生した。
1. 背景
 フィリピン奪回を目指すアメリカ軍を中心とした連合軍は、レイテ沖海戦・レイテ島の戦いに勝利してフィリピン東部の制空権・制海権を握った。また、ミンドロ島の占領によりルソン島に対する航空作戦基地も確保することに成功した。そして、いよいよルソン島への上陸作戦を決行することとなった。その第一の作戦目標は、首都マニラの奪還に置かれた。ルソン島では多数のフィリピン人ゲリラ部隊が協力体制を築いて、上陸を待っていた。
 対する日本側現地司令部である第14方面軍の作戦計画では、ルソン島に戦力を集中して平原部での決戦を行う予定であった。
 しかし、台湾沖航空戦の過大な戦果判定による大本営の方針転換から、レイテ戦のためルソン島から兵力を抽出したことにより、ルソン島の日本軍戦力は大きく低下してしまった。それに加え、当時第14方面軍の作戦参謀を務めていた堀栄三中佐らの「艦砲射撃を多用する米軍相手に水際での戦闘を挑むよりは、艦砲の砲弾が届かない山岳に誘い出しての持久戦を行うほうが望ましい」との進言から、司令官の山下大将は「持久戦により敵をルソン島に可能な限り引き付ける」方針を決断した。
 日本軍は、戦力を「尚武」「振武」「建武」の3集団にわけて防衛態勢に入り、方面軍司令部も1945年1月3日にイポから北部山地のバギオへと移動した。ホセ・ラウレル大統領を首班とし日本の影響下にあったフィリピン共和国政府も、同じく北部へと移動した。
2.参加兵力
①日本軍
日本軍のフィリピンへの配置第14方面軍(山下奉文大将)
尚武集団(北部) 総兵力約15万2000名 山下奉文大将
振武集団(マニラ北東地区) 総兵力約10万5000名 横山静雄中将
建武集団(マニラ北西地区) 総兵力約3万名 塚田理喜智中将
② 連合国軍
連合国軍南西太平洋地域総司令官・ダグラス・マッカーサー大将
米第6軍(ルソン島) クルーガー中将…7個師団及び2個野戦砲兵群基幹
米第8軍(その他諸島) ロバート・アイケルバーガー中将…計11個師団
英豪連合軍・ブラメー大将
連合国空軍・ジョージ・ケニー大将
連合国海軍(第7艦隊主力)・トーマス・C・キンケイド中将
3. 戦闘経過
① 連合軍の上陸
 海岸へ向かう米軍第一波1945年1月4日、アメリカ軍航空隊は、マニラ〜リンガエン湾間を対象とする爆撃を開始した。1月6日からはアメリカ海軍第7艦隊による艦砲射撃が開始され、3日間かけて日本軍の海岸陣地の大半を破壊した。1月9日の朝、アメリカ第6軍の175000人がリンガエン湾への上陸を開始した。
② 末期の戦闘状況
 大半がジャングルのルソン島の日本軍は、食糧の補給は完全に途絶えて餓死者が続出し、マラリアや赤痢にかかる者が続出した。部隊としての統制は乱れ、小部隊ごとに山中に散開して生活していた。降伏は固く禁じられていたため、伝染病にかかった者はそのまま死ぬか自決し、衰弱した日本兵は抗日ゲリラや現地民族に襲撃され消耗していった。飢えた兵士は食糧を求めて村や現地人を襲い、戦争どころではなくなった。兵士の間で台湾までたどり着けば助かると信じられていたために、筏を作ったり泳いで台湾まで行こうとするものまでいた。
 終戦の4日後、8月19日に山下大将は停戦命令を受容した。しかし分散した各部隊への連絡は困難で、半年かけてようやく全軍が降伏した。降伏までに日本軍は20万人が戦死あるいは戦病死した。アメリカ軍に収容されたが、力尽きて輸送船の甲板への梯子が登れず死ぬ者までいたという。

4.フィリピン全域の戦没者(昭和38年までの調査)
 498,600人(陸軍約37万人、海軍約11万人、内約1万人は終戦後の戦病死)
うち、ルソン島 293,549人(海没 約21,000人を含む)
 フィリピン全域の戦没者数は、支那事変以来の中国本土での戦没者455,700人、中部太平洋地域247,200人、ビルマ164,500人、ニューギニア127,600人などを上回り最も多い。
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