へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

崩れゆく?日本社会

2010年02月16日 03時59分06秒 | Weblog
オリンピックの選手に選ばれたある選手の服装の乱れが問題になったのだが、このことに限らず、最近の日本全体が「自由の履き違え」をしているように感じてならない。
「憲法の下で言論の自由が保障されている」などとほざく人間も数多くいるのだが、いくら自由が保障されているとは言っても「何を言ってもかまわない」と言うわけにはゆかない事は明白なように、「自由にも一定の制約がある」と言うことを忘れてはいけないだろうが、今はその制約さえあやふやになろうとしている。
さて、この制約と言うものがなくなったらどうなるかを考えてみると、身勝手な自由と身勝手な自由がぶつかり合って「収集がつかなくなる」と言うことになってしまうだろう。
これは学校の制服や校則にも言えることで、ある一定の歯止めを設けておかなければ「際限の無い乱れ」に発展する恐れが大きく、健全?な社会生活を営む上では「完全な自由など存在しない」と思わなくてはならず、「有名人(選手)だから特別扱いをする」と言う事が許されてはいけないのである。
仮の話し「有名人(選手)だから特別扱いしてもいい」と言うことになった場合でも、「何処からが有名人(選手)か?」と言う線引きの問題も起き、その線引きは難しいのが現実なのだが、有名になり人気が出てくると「俺は偉いんだ!」などと思い上がる人がいるのは残念で仕方がないのだが、そんな「精神的に幼い人」を育てるのは「ファン」だと言う事も忘れてはいけないだろう。
「実るほど、頭をたれる稲穂かな」と言う言葉も「死語」になるつつあるが、この言葉が完全に「死語」になったときは「日本社会が崩壊した」と考えるべきではないだろうか。
いくら時代が変わったとしても「社会秩序」まで全て変わってよいはずはなく、ある一定の歯止めをかける必要があるのだが、一国を代表するような存在の人(政権与党も)が模範を示せないようでは困った物だが、これも、「そのような人を選んだ人(有権者)」の存在を忘れてはいけないだろう。
何でもかんでも「他人(政府)のせいにする」と言う事は「天に唾する」と言うことと同じで、やがては我が身に降りかかってくる事を覚悟しておく必要があるだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする