太平洋の激戦地パラオを、天皇皇后両陛下が訪問して下さいます。
パラオは、日本兵約1万6000人が戦死した激戦地でした。
幼い頃、近所に住んでいた青年が、パラオ・ペリリュー島で戦死しています。
パラオ島の歌を、私は今でも覚えています。
『パラオ恋しや』
作詩 森地一夫
作曲 上原げんと
海で暮らすならパラオ島におじゃれ
北はマリアナ南はポナペ
島の夜風に椰子の葉揺れて
若いダイバーの船唄洩れる
島へ来たならダイバー船へお乗り
男冥利に命を懸けて
珊瑚林に 真珠採りするよ
ダイバー愛しの鼻唄歌て
高波うねりに度胸が座りゃ
海は故郷パラオの王者
錨下ろしてランタン振って
帰るダイバーは人気者
幼かった戦時中、私は歌詞の意味も理解できないまま、この歌を歌っていました。
そして、椰子の木陰で、兵隊さん達が憩っている南の島を想像して、
自分も“行ってみたい”などと思っていたものです。
ペリリュー島の激戦から生還できた一人の元日本兵の姿が、毎日新聞(4月6日)に載っていました。
慰霊碑を訪れ、黙とうを捧げ、犠牲者に向ってハーモニカを吹く95歳の男性の姿に、涙しました。
私も合掌しました。
男性は島を訪れ、パラオを訪問される天皇・皇后両陛下を現地で迎えるとのことです。
男性は、戦後も洞窟に潜んで生き延び、仲間33人と帰国したそうです
遺骨収集などで島を13回訪問。
高齢のため、「もう行くことはない」
と決めていましたが、両陛下の訪問されることを知り、
「島で両陛下とお会いしたい」
という気持ちに変わったそうです。
「あの時、陛下のため、日本のために仲間たちは戦い、無念の死を遂げた仲間の気持を
お伝えしたい」
と語る この男性の「戦後70年」の痛みは、まだ続いているのです。
5日、男性は「慰霊碑」の前で、軍歌など、ハーモニカの演奏をしました。
ハーモニカの優しい音色は、きっと、死んでいった多くの戦友・若い姿のままの戦友の、
「みたま」に届いたことでしょう。
南海の島々に、様々な文化を持つ国々へ、若者たちに武器を持たせ、戦争に駆り出しては
いけません。
南の島々は、リゾートの地として訪れ、
♪海で暮らすならパラオ島におじゃれ
北はマリアナ南はポナペ
島の夜風に椰子の葉揺れて
若いダイバーの船唄洩れる♪
を歌ってほしいのです。
それが、幼いながら、あの戦争時代を生きた者たちの責任とも言えるでしょう。
〈ゴマメのばーば〉
パラオは、日本兵約1万6000人が戦死した激戦地でした。
幼い頃、近所に住んでいた青年が、パラオ・ペリリュー島で戦死しています。
パラオ島の歌を、私は今でも覚えています。
『パラオ恋しや』
作詩 森地一夫
作曲 上原げんと
海で暮らすならパラオ島におじゃれ
北はマリアナ南はポナペ
島の夜風に椰子の葉揺れて
若いダイバーの船唄洩れる
島へ来たならダイバー船へお乗り
男冥利に命を懸けて
珊瑚林に 真珠採りするよ
ダイバー愛しの鼻唄歌て
高波うねりに度胸が座りゃ
海は故郷パラオの王者
錨下ろしてランタン振って
帰るダイバーは人気者
幼かった戦時中、私は歌詞の意味も理解できないまま、この歌を歌っていました。
そして、椰子の木陰で、兵隊さん達が憩っている南の島を想像して、
自分も“行ってみたい”などと思っていたものです。
ペリリュー島の激戦から生還できた一人の元日本兵の姿が、毎日新聞(4月6日)に載っていました。
慰霊碑を訪れ、黙とうを捧げ、犠牲者に向ってハーモニカを吹く95歳の男性の姿に、涙しました。
私も合掌しました。
男性は島を訪れ、パラオを訪問される天皇・皇后両陛下を現地で迎えるとのことです。
男性は、戦後も洞窟に潜んで生き延び、仲間33人と帰国したそうです
遺骨収集などで島を13回訪問。
高齢のため、「もう行くことはない」
と決めていましたが、両陛下の訪問されることを知り、
「島で両陛下とお会いしたい」
という気持ちに変わったそうです。
「あの時、陛下のため、日本のために仲間たちは戦い、無念の死を遂げた仲間の気持を
お伝えしたい」
と語る この男性の「戦後70年」の痛みは、まだ続いているのです。
5日、男性は「慰霊碑」の前で、軍歌など、ハーモニカの演奏をしました。
ハーモニカの優しい音色は、きっと、死んでいった多くの戦友・若い姿のままの戦友の、
「みたま」に届いたことでしょう。
南海の島々に、様々な文化を持つ国々へ、若者たちに武器を持たせ、戦争に駆り出しては
いけません。
南の島々は、リゾートの地として訪れ、
♪海で暮らすならパラオ島におじゃれ
北はマリアナ南はポナペ
島の夜風に椰子の葉揺れて
若いダイバーの船唄洩れる♪
を歌ってほしいのです。
それが、幼いながら、あの戦争時代を生きた者たちの責任とも言えるでしょう。
〈ゴマメのばーば〉