駒大苫小牧の全国優勝変わらず、部長は謹慎 高野連結論
(2005年 8月27日 (土) 22:19 asahi.com)
「指導者の行為の責任を選手に負わせるのは適当でない」として、同校の優勝を取り消さないことを決定した。
明徳義塾との違いについて、日本高野連側は「明徳義塾の場合はベンチ入りメンバーを含む生徒自身が暴力行為に加わるなどしており、今回のケースとは違う」と説明した。
試合取り消しなどの措置につながる大会参加者資格規定には、選手の年齢制限などが定められているが、指導者の不祥事が想定されていない。指導者の不祥事があっても、15年ほど前からは選手に連帯責任は負わせない方針をとってきた――などの点から、優勝は有効と結論づけた。
ということだそうです。
まあ、今更取り消してしまっても繰り上げ優勝するのか優勝なしにするのか、繰り上げ優勝した場合準優勝はどこにするのか、とか、優勝なしにした場合、過去からの記録の継続性をどうするとか、いろいろ面倒な問題があったので取り消せなかった、というのが本音ではなかろうかと思います。
「国会議員の定数配分は違憲だけれども選挙は無効ではない」というような一種の「事情判決の法理」(詳しくは末尾注参照)のようなものでしょうか(公益性はないと思うけど・・・)
ちょいと疑問は
① 優勝取消しは選手へのペナルティなのか?
そりゃ選手はがっかりでしょうが、実際に最後まで勝ち抜いたという事実は残るしその自身や記憶は残ります。
どちらかというと「甲子園優勝校」という実績は生徒獲得や推薦入学など学校側にメリットがあると思います。
生徒の善意を人質にとるような論理のすり替えは個人的には好きじゃないですね。
② 指導者は今後も何をやってもいい、ということになりゃせんか
「大会参加者資格規定には、・・・指導者の不祥事が想定されていない。」というのを今更もちだすのはどうなんでしょう。
それなら審議委員会を開く必要すらなかったんじゃないでしょうか。
※問題が発覚した時点で「指導者の不祥事自体は厳重注意するが、優勝資格には関係ない」と言い切る、というのもひとつの見識だったように思います。
先日の商事法務の新会社法についての座談会で、野村證券の法務部長が「最近は法律にダメと書いてないことはやっていいだろうという人が多い」とおっしゃってました(うろ覚えなので不正確かもしれません)が、ちょっとそれに近い屁理屈のような気がします。
それに、大会参加規程を変えるつもりもないみたいだし。
高校野球は国民的注目を集めるイベントで、それ自体大きなお金も動くしマスコミなどの商売ネタになります。またそこで有名になることで学校・関係者や生徒の将来への影響も大きくなります(昔は生徒がドラフトにかかると監督は家が新築できたらしい)。でも所詮高校生といういい意味でも悪い意味でも元気のいい連中のクラブ活動、という部分もあります。
一方で、人気商売の宿命として、不祥事はイメージダウンになるので世間への配慮も必要です。
そういう大きなイベントをマネジメントしている高野連としては、今回の結論の出し方、説明の仕方は今ひとつだったと思います。
実際に判断する立場になるといろいろな要素を考慮しなければならず難しいということはわかりますが、だからこそ、スピード感と説得力ある説明が必要だったと思います。
(注)事情判決の法理
行政事件訴訟法31条には
取消訴訟については、処分又は裁決が違法ではあるが、これを取り消すことにより公の利益に著しい障害を生ずる場合において、原告の受ける損害の程度、その損害の賠償又は防止の程度及び方法その他一切の事情を考慮したうえ、処分又は裁決を取り消すことが公共の福祉に適合しないと認めるときは、裁判所は、請求を棄却することができる。
と定められています。これを「事情判決の法理」といいます。
上でふれた話ですが、衆議院議員定数配分規定の違憲性(憲法14条1項(法の下の平等)に違反する)について争われた事件で、最高裁昭和51年4月14日大法廷判決が最初に違憲判決を出しました。この判決で定数配分規定は違憲としながらも規定にそって行われた選挙を無効としなかったときに、この事情判決の法理を適用しています。(正確に言うと、公選法219条では行政事件訴訟法31条の準用は排除されているものの、この規定は平たく言えば選挙違反があっても当選取消にならない、というのでは罰則の意味がないという趣旨であって、「高次の法的見地から、右の法理を適用すべき場合がないとはいいきれない」という論理構成に立っています。)
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(2005年 8月27日 (土) 22:19 asahi.com)
「指導者の行為の責任を選手に負わせるのは適当でない」として、同校の優勝を取り消さないことを決定した。
明徳義塾との違いについて、日本高野連側は「明徳義塾の場合はベンチ入りメンバーを含む生徒自身が暴力行為に加わるなどしており、今回のケースとは違う」と説明した。
試合取り消しなどの措置につながる大会参加者資格規定には、選手の年齢制限などが定められているが、指導者の不祥事が想定されていない。指導者の不祥事があっても、15年ほど前からは選手に連帯責任は負わせない方針をとってきた――などの点から、優勝は有効と結論づけた。
ということだそうです。
まあ、今更取り消してしまっても繰り上げ優勝するのか優勝なしにするのか、繰り上げ優勝した場合準優勝はどこにするのか、とか、優勝なしにした場合、過去からの記録の継続性をどうするとか、いろいろ面倒な問題があったので取り消せなかった、というのが本音ではなかろうかと思います。
「国会議員の定数配分は違憲だけれども選挙は無効ではない」というような一種の「事情判決の法理」(詳しくは末尾注参照)のようなものでしょうか(公益性はないと思うけど・・・)
ちょいと疑問は
① 優勝取消しは選手へのペナルティなのか?
そりゃ選手はがっかりでしょうが、実際に最後まで勝ち抜いたという事実は残るしその自身や記憶は残ります。
どちらかというと「甲子園優勝校」という実績は生徒獲得や推薦入学など学校側にメリットがあると思います。
生徒の善意を人質にとるような論理のすり替えは個人的には好きじゃないですね。
② 指導者は今後も何をやってもいい、ということになりゃせんか
「大会参加者資格規定には、・・・指導者の不祥事が想定されていない。」というのを今更もちだすのはどうなんでしょう。
それなら審議委員会を開く必要すらなかったんじゃないでしょうか。
※問題が発覚した時点で「指導者の不祥事自体は厳重注意するが、優勝資格には関係ない」と言い切る、というのもひとつの見識だったように思います。
先日の商事法務の新会社法についての座談会で、野村證券の法務部長が「最近は法律にダメと書いてないことはやっていいだろうという人が多い」とおっしゃってました(うろ覚えなので不正確かもしれません)が、ちょっとそれに近い屁理屈のような気がします。
それに、大会参加規程を変えるつもりもないみたいだし。
高校野球は国民的注目を集めるイベントで、それ自体大きなお金も動くしマスコミなどの商売ネタになります。またそこで有名になることで学校・関係者や生徒の将来への影響も大きくなります(昔は生徒がドラフトにかかると監督は家が新築できたらしい)。でも所詮高校生といういい意味でも悪い意味でも元気のいい連中のクラブ活動、という部分もあります。
一方で、人気商売の宿命として、不祥事はイメージダウンになるので世間への配慮も必要です。
そういう大きなイベントをマネジメントしている高野連としては、今回の結論の出し方、説明の仕方は今ひとつだったと思います。
実際に判断する立場になるといろいろな要素を考慮しなければならず難しいということはわかりますが、だからこそ、スピード感と説得力ある説明が必要だったと思います。
(注)事情判決の法理
行政事件訴訟法31条には
取消訴訟については、処分又は裁決が違法ではあるが、これを取り消すことにより公の利益に著しい障害を生ずる場合において、原告の受ける損害の程度、その損害の賠償又は防止の程度及び方法その他一切の事情を考慮したうえ、処分又は裁決を取り消すことが公共の福祉に適合しないと認めるときは、裁判所は、請求を棄却することができる。
と定められています。これを「事情判決の法理」といいます。
上でふれた話ですが、衆議院議員定数配分規定の違憲性(憲法14条1項(法の下の平等)に違反する)について争われた事件で、最高裁昭和51年4月14日大法廷判決が最初に違憲判決を出しました。この判決で定数配分規定は違憲としながらも規定にそって行われた選挙を無効としなかったときに、この事情判決の法理を適用しています。(正確に言うと、公選法219条では行政事件訴訟法31条の準用は排除されているものの、この規定は平たく言えば選挙違反があっても当選取消にならない、というのでは罰則の意味がないという趣旨であって、「高次の法的見地から、右の法理を適用すべき場合がないとはいいきれない」という論理構成に立っています。)
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