一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「きれいごと」の効用

2005-08-29 | 余計なひとこと
昨日の駒大苫小牧についての記事に関連して。

この手の話は「自分(の所属する組織)だったらどう対応するのがいいんだろう」とついつい考えてしまいます。

よく言われるのは、不祥事に直面したときには言い訳や隠蔽をせずに、正面から受け止め、謝罪をすると同時に再発防止策を公表するとともにそれを守る事を世間に約束する、というのがあります。


まったくそのとおりで、起きてしまったものは仕方がないので、過去を反省すると共に、将来について責任あるコミットをするしかないわけです。
(時節柄ふと戦争責任問題に筆が滑りそうになってしまいましたが今回はなしですw)


その際の手法のひとつに「先人の遺訓にたちかえる」というのがあります。


歴史ある企業であれば、社訓などがあるはずで、そこには抽象的だけど正しいことが言われいるはずです。

不祥事などで評判が地に落ちた企業は、立ち直るよすががなににしろ必要です。
その中で「操業の理念」とか「社是社訓」に立ち帰る、というのは社内外ともとりあえずの非難を防ぐためには有用です。

さらに、そういう社訓には、それぞれの企業風土に根をおろしている価値観が反映されているものです。
つまり「先人の遺訓」を徹底する事で、緩んだ内部(=不祥事の温床になった精神構造やシニシズムが蔓延している人々)に対しては「対外的なポーズだよ」というexcuseという形で導入するとしても、それを徹底するうちに「けっこういい事言ってるねぇ」という認識が広がり、緩んだタガを締めなおす(今風に言えばコンプライアンスを徹底する)ための価値観の共有化の第一歩になったりします。

また、外部に宣言することで、社外の目からも自らの行動を律する基準になったりします。


一種のピグマリオン効果でしょうか。
「とりあえず世間の避難をかわすため」とかいいながら運動論にしていくという部分は「トロイの木馬」の方が近いかもしれません。


たとえば不詳事の続いた三菱グループには、岩崎小弥太が作った三綱領というのがあります。

所期奉公:事業を通じ、物心共に豊かな社会の実現に努力すると同時に、かけがえのない地球環境の維持にも貢献する

処事光明:公明正大で品格のある行動を旨とし、活動の公開性、透明性を維持する

立業貿易:全世界的、宇宙的視野に立脚した事業展開をはかる


三菱商事のHPからの抜粋ですので、解説は現代的な解釈がされていますが非常に簡潔かつわかりやすい指針です。


話題の駒大苫小牧ですが、苫小牧駒澤大学のHPをみると

苫小牧駒澤大学の前身である駒澤大学苫小牧短期大学が、北海道苫小牧に開設されたのは1965年ですが、母体である駒澤大学(東京)の歴史は、400年前にさかのぼります。禅と学問の研究・実践のために1592年に曹洞宗が「旃檀林」を設立し、明治時代に曹洞宗大学林、曹洞宗大学と改めて、1925年に駒澤大学が誕生しました。建学の理念は「行学一如」、教育目標は「信・誠・敬・愛」で、その精神は現在も引き継がれています。

とあり、

「行学一如」とは
禅の精神を表すもので「学ぶことはそのまま人格を形成する」という意味。人類の叡智と文化を創り上げるために、たゆまぬ努力を行い、それが思考や人格形成の核となる。

「信・誠・敬・愛」は
いつも誠実に、謙虚に、敬虔に、深い信頼と愛情を寄せて生きること。自然や社会と共生できる人間を目指します。

と解説されています。


非常に立派な理念です


しかしマスコミ報道では、駒大苫小牧高校の釈明・謝罪は起きた事象の解説・弁明をするだけのように思えます。
とりあえずはウソでもいいから、「建学の精神に立ち返って」というような発言が欲しかったと思います。

そういう自己規定をすることで、今後の行動指針として「指導に熱心な教諭」に自制をさせたり、今回の被害者の親族に対してももし行き過ぎた非難がある場合には毅然とした対応を取りやすくなったんじゃないか、と思います。


最初の動機はズルイ立ち回りだとしても、最初はだれも信じていなかったとしても、「きれいごと」を唱えつづける効用というのはけっこうあるんじゃないか、と思います。

※ここまで書いてふと思ったんですけど、アメリカ人の能天気な強さの一端は「きれいごと」を信じる能力にあるのかもしれませんね。
コメント (2)
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