一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

昭和20年8月14日

2005-08-14 | よしなしごと

実は日本がポツダム宣言を受諾したのは8月15日ではなく8月14日です。

 国立国会図書館の[ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係] というサイトを見ると、 8月14日11:00東郷外務大臣から在スイス加瀬公使宛てに以下の電信が発せられています。

 米英蘇支四国ニ対スル八月十四日附日本国政府通告

「ポツダム」宣言ノ条項受諾ニ関スル八月十日附帝国政府ノ申入及八月十一日附「バーンズ」米国国務長官発米英蘇華四国政府ノ回答ニ関聯シ帝国政府ハ右四国政府ニ対シ左ノ通通報スルノ光栄ヲ有ス

一 天皇陛下ニ於カセラレテハ「ポツダム」宣言ノ条項受諾ニ関スル詔書ヲ発布セラレタリ
二 天皇陛下ニ於カセラレテハ其ノ政府及大本営ニ対シ「ポツダム」宣言ノ諸規定ヲ実施スル為必要トセラルベキ条項ニ署名スルノ権限ヲ与ヘ且之ヲ保障セラルルノ用意アリ又 陛下ニ於カセラレテハ一切ノ日本国陸、海、空軍右官憲及官憲ノ指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ対シ戦闘行為ヲ終止シ、武器ヲ引渡シ、前記条項実施ノ為聯合国最高司令官ノ要求スルコトアルベキ命令ヲ発スルコトヲ命ゼラルルノ用意アリ

ポツダム宣言受諾の詔書の発布は8月14日に済んでいたわけです。
ということは、大日本帝国が終戦を正式決定したのは8月14日になりますね。

ちなみに、連合国側の回答は8月15日4:42分ベルン発16日8:15東京着の以下の「米国務長官メッセージ」ですので、連合国側からの確認通知の到達を基準とすると、日本時間ではも8月16日になります。

昭和二十年八月十五日〇四、四ニ ベルン発
十六日〇八、一五東京着
在瑞西
加瀬公使
東郷外務大臣

第八八四号
十五日午前三時半外務次官ハ本件ニ対シ米国国務長官ハ在米瑞西公使ニ対シ十四日附帝国政府通告ハ「ポツダム」宣言並ニ十一日附四国回答ニ対スル完全ナル受諾ト認メ米国大統領ノ命ニ依リ別電第八八五号ノ「メッセージ」ヲ帝国政府ニ伝達方依頼セル旨ヲ伝ヘ直ニ帝国政府ニ電報方ヲ求メタリ(了)

国民に広く知らしめられたのが8月15日の玉音放送だ、ということから、8月15日が終戦記念日になったのでしょう。
僕個人は所詮決め事だし60年間の実績もあるので今更変えるよりは8月15日でいいと思ってます。
ちなみに「正式」という意味では戦艦ミズーリでの調印の日(9月2日)のほうが国際法的には正しいという議論もあるかと思います。



実はこの昭和20年8月14日は、埼玉県熊谷市が「太平洋戦争最後の空襲」を受けた日でもあります。

私の母親は熊谷の出身で、小さい頃にこの空襲に遭いました。
母の実家は幸い犠牲者はなく、家を焼け出されただけで済んだ(これを「幸い」というのであれば)のですが、市民には多数の犠牲者が出ました。
(空襲の概要はこちら、体験談はこちらこちらをご参考。また、市立図書館では60周年を機に回想展が開かれているそうです。)

空襲は深夜に行われ、母は着のみ着のままで焼け出され、翌日焼け跡の中で戦争が終わったと聞いた(玉音放送は子供には難しくて意味がわからなかったそうです)そうです。

不運という一言で片付けるには釈然としない思いがあるようで、終戦をめぐる昭和天皇の「ご英断」に関する番組があると、「もう1日早く決めてくれてればねぇ」とぼやいていました。

もっとも米軍も、上の受諾の電報がスイスについてから翌朝本国に送られ、さらに前線に指令が届くまでは時間がかかったでしょうし、サイパンやあたりから飛び立つB29の飛行時間を考えると、いずれにしろ間に合わなかったのではないかと思いますが・・・
(なので、母にはあえてこの話はしてはいません。)


昭和20年8月14日はそういう日でした。

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ヒトラー ~最期の12日間

2005-08-14 | キネマ
久しぶりに映画館に行きました。観たのは「ヒトラー ~最期の12日間」

ヒトラーの秘書をしていた女性の著書を基にした映画です。
※以下、ネタバレ注意です。

映画としての完成度はかなり高いと思います。
ただ「ヒトラーを描く」ことを期待していると、ちょっと期待はずれかもしれません。


ヒトラーの実像に迫る、というような映画かな、と思っていたのですが、ヒトラーについて何らかの評価or再評価を下すというものではなく、陥落直前のベルリンの地下壕内に設けられた指令本部での、ヒトラー(もちろん彼が中心なのですが)を含めたドイツ軍幹部たちを群像劇として描いた映画でした。
とはいっても、多分上の著書にあった事実をベースにしたものなので、現実にも近いのだと思います。
(秘書がヒトラーの遺言をタイプしているときに、ゲッペルスが自らの遺言の口述筆記を依頼しに来て「今、総統の遺言をタイプしてますから」「あ、そう・・・。後で来るわ」などというやり取りなど、妙にリアルでした。)


現実を認識すること
現状認識から敗北を内心で認めること
それを他人に対しても認めること
どういう敗北の仕方、終結の仕方をさせるかを考えること
そして戦争を終わらせる最終的な意思決定をすること
動いてしまっている現場を実際に終わらせること

そして、こういう状況の中で、自らの身の処し方を決めること

これらのことは(特に追い詰められた)人間にとっては難しいことで、その結果、組織としての意思決定が遅れて結局事態がより混迷し、個人にはますます逃げ場がなくなってしまいます。


ヒトラーが(自らの夢破れ、後は野となれと)自殺したあとも、将軍たちの意見が対立してすぐには降伏を決断できないところや、降伏の過程で予想外の人まで自決してしまうところ、市民兵の暴走などは、個人個人が大きな状況の中に置かれたときにいかに善悪、正邪の判断を維持するのが難しいかを考えさせられました。


理念とか理想とかは強い精神の支えにはなりますが、それが否定されたときのダメージは大きいです。また、ダメージが大きいからこそ、否定されたこと自体を認めない、という精神状態になりがちです。
多分、追い詰められた状況でも強いのは「死んだらあかん」とか「命あっての物種」とか非常にシンプルな考えなんじゃないかと思いました。


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