小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

島のおばあちゃんから聞いた大切な話。

2015年03月25日 | 大切にしていること
■毎朝、畑から走って帰ってくるとき、いつも出逢う大好きな島のおばあちゃんがいます。
80歳を超す高齢なのに、毎日畑仕事に精を出している素敵な方です。
いつも軽く挨拶をし、簡単な会話をする程度なのですが、
先日は少し長くお話を聞かせてもらう機会がありました。

そこでとても素敵な話を聞かせてもらったので紹介したいと思います。
おばあちゃんは素敵な笑顔で語ります。

『私は親にすごく感謝しているのよ。
それはね、今幸せなのが親のお陰と思えるから。

昔、お父さんが言ってくれた。
「人をいじめるんじゃないぞ。
人をいじめたら自分に必ず返ってくる。
自分に返ってこなくても、自分の子孫に返ってくる。

人には良い事をしなさい。
人に良い事をしたら自分に返ってくる。
自分に返ってこなくても、自分の子孫に良い事が返ってくる。」
と言っていたのよ。

私はそれが今、本当だなと思えるのよ。

今、こんなに元気で過ごせてる。
何も問題がない。

こうして遠い畑にも車で送り迎えしてもらえて、通える。
本当に煩わしいと思うわ。
でも本当に有難い。

それがすべて親が行ってきたことのお陰と思っているのよ。
だから私もその事を気を付けているし、
今とても幸せなのよ。』


そう爽やかな笑顔で語るおばあちゃんがとても大好きです。

■毎朝の様に
島の河口に集まる水鳥の話、
畑の話、
子どもの話、
戦争の話を聞かせてもらっています。

太平洋戦争が始まって、
母島も空襲に見舞われたとき、
御幸之浜の沖に日本軍の補給船が停泊し「敵前上陸だ!」と言って
現在の乳房山中腹にある玉川ダムの先の鞍部に逃げて野営をしていたこと。

その時は布団と蚊帳とゴザだけを持って逃げて、雨が降らなくて良かったと言っていました。
その後、その補給船は爆撃され、積んでいた火薬が爆発し、今でも祭りで花火を見るとその頃の爆発を思い出すと言っていました。

内地への疎開が決まって少しの手荷物だけで島を後にしたこと。
内地へ渡る際に父島に滞在し、清瀬のトンネルで待機中に荷物を置いた小屋が爆弾で破壊され、
自分の荷物の一切が焼かれてしまったこと。
見知らぬ本土での苦労した生活の事。

兄が外国で沈められて戦死したと思っていたら、
沈む前に陸に上がっていて、運よく生き延びて、急に現れて本当にびっくりしたこと。

兄は爆弾を抱えて敵陣に飛び込んだが、震撼が抜けてなくて爆破せず、生き延びれたこと。

今の食べることにすら困らない時代に生まれ、
あまり大した苦労もしないで育った僕には十分すぎるほどのお話を聞かせてもらっています。

実体験として自分の子供には伝えれませんが、
このような話の一つ一つを伝えていくのも私たちの役目なのだなと思います。



■いよいよローゼルの新芽を拝める季節となりました♪

今年も10月の収穫と出荷を目指してローゼルの作付け開始です♪

ぼちぼち【島らっきょ】も収穫が始まりました♡


保育園の春休みでまた畑に来てくれるようになった次女ちゃん。

さっそく大好きな島らっきょの仕事です。
実の水分の流出を防ぐ「根切り」と「枯葉取り」が大事なお仕事です。

あまりに家族に人気なので出荷できない可能性があります(笑)。
来季はもっともっと作らなきゃ!!


久々の畑での時間は彼女にとっても嬉しいようで、
その仕草で僕もとても嬉しい時間となりました♪


こうやって共に過ごせるのも一時期だけ…
今は幸運なことに戦争とは少し縁が離れている暮らしをおくれています。

しかし、昔の苦労した話を聞くと胸が締め付けられる思いがしますし、
今もなお中東やアフリカなど紛争の絶えない現実をしっかりと認識して今を生きていかなければと思います。

長女には伝えてきていますが、
現代の戦争とこの平和な暮らしは
全然別の世界の出来事ではなく、
同じ地球で起こっていることで、
自分たちの暮らしも間接的にそれに繋がっていることを感じ取っていってもらいたいと思っています。




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