■昨晩、小3の次女と大昔の小笠原の話しをしました。
それは小笠原貞頼が発見し、
ナサニエル・セーボレーが定住を始めた江戸時代ではなく、
その遥か昔の石器時代に人が住んでいた小笠原の時代です。
今から約2000年前、約1世紀頃に小笠原に人が暮らしていたと考えられています。
その頃の時代の名残として、
父島の三日月山や北硫黄島で遺跡が発見され、
カヌーを掘った石器や貝細工、斧が発見されています。
それは、何世代も建造物が残る欧州などの石の文化ではなく、
季節の流れで風化してしまう木と石の文化です。
その頃から、
直接ではないにせよ文化的に今でも受け繋がれているもの…
アウトリガーカヌーとフラに思いを馳せるようになりました。
■形状的にはフィリピンやインドネシア系ではなく、
ハワイ系となる小笠原のアウトリガーカヌー(カノーと呼ばれていました)。
日本では小笠原が唯一ハワイ系が直接伝わってきた場所だと聞いています。
何気なく始めて、
今も母島カノー部に所属し、関わらせてもらっていますし、
フラも素人ながらにやらせてもらっていますが、
まさかそれらが古の時代の小笠原に繋がっていることを知ったのはずっと後の事でした。
■遥か昔の石器時代、
太平洋に住む民たちがカヌーを使い、自由に島を移動していた時代があると言います。
大航海時代にキャプテンクックが太平洋の島々を渡り歩き、
遠く離れて交流すらなくなった島が
なぜか似た文化を持っていることを発見したそうです。
調べてみると、
昔は船で自由に島間を自由に行き来していたが、
その島で自給自足ができるようになると、
海を渡る術を忘れてしまってきていた様なのです。
それはまだカヌーの帆が大陸から綿が伝わっておらず、
タコノキ(アダン)の葉を用いて作られていた時代です。
■その伝統航海術、
いわゆるGPSはもちろん、海図や羅針盤など、
一切の近代器具を使わず、
星と波と風だけを頼りに海を渡る術【スターナビゲーション】を現代に復活させた人達がいます。
それがハワイのホクレア号です。
15年前、僕が父島でカヌーを始めた年に、講演会がありました。
太平洋の島々の文化を研究する後藤明さんと、
ホクレア号の初来日に携わったシーカヤッカー&海洋ジャーナリスト内田正洋さんです。
二人の話を聞いて、沢山の感銘を受けました♪
小笠原の考古学の話はなんとなくうる覚えで知っている程度でしたが、
これをきっかけに、カヌーという具体的な存在を経て、
遥か昔の小笠原に想いを馳せる事が出来たのです☆
その伝統航海術というのは本当にすごくて、
その星見となる人は、船の行先のすべてを司り、
目的地にたどり着くまでの数週間、
一度も睡眠を取らず、うつらうつらした状態のまま、
今、自分たちが地球のどこにいるのか、
どこに行こうとしているかを把握し続けているというのです。
星の見える夜はいいものの、
星の見えない昼間や荒天時は、
風の匂いや温度、水の感触、
うねりや波から、地形を意識していると聞きました。
星見の人が出発地から目的地までの道のりを
完全にイメージできるまでは、
カヌーは出発できず、待ち続けるのだそうです。
僕はこの話を聞いて、感動して震えていました。
今こうして眺めている海と島に、
そんな時代があり、そんな技術があったなんて!!
■そんな事を色々思い馳せるにはことがあったのです。
昨晩、次女と初めて映画「モアナと伝説の海」を観ました。
その中で、小笠原にも良く似た風景の中、
遠い昔の太平洋のカヌー文化が描かれていたのです!
タコノキの葉で作った帆を使い、
木のパドルで船を操舵し、
遥か大海原を星を見て渡る場面。
この映画の製作者はとても研究しているんだなぁと感じました。
そしてポリネシアに対してとても深くリスペクトしているということがひしひしと伝わってきました。
DVD/BDに映像特典のメイキング・ドキュメンタリーが付いているのですが、
映画を作るにあたって、足かけ5年間、何度も何度も太平洋の島々を巡り、
キャスティングもほぼポリネシア人、
脚本も多くの現地の有識者を巻き込み作成されている場面が描かれていました。
ホクレア号の伝統航海術ももちろん取材されていて、
スタッフもどんどんポリネシアに対する見方が変わり、
リスペクトしていっていました。
その象徴という場面、
ずっと西洋に文化を否定されてきたけれど、
現代の西洋が行き詰っているのを感じた時に、
モーレア島の漁師で長老でもある故イヴ“パパ・マペ”テヒホタータが語ります。
「今度は西洋が我々の文化に飲み込まれてみては?」
ハッとされられます。
まさに究極の発想です!!
本当に大切なヒントは、実は先住民の文化だったと多くの人が気付き始めているのです。
■ガイアシンフォニー(地球交響曲)という映画の第三番に
ハワイのホクレア号のナイノア・トンプソンが出てくる場面があります。
その取材の時の話で、
僕が大好きなエピソードがあります。
撮影前にクマに襲われて亡くなってしまった写真家・星野道夫と
ハワイのカヌーがなんと不思議な縁で繋がる場面です。
それは監督:龍村仁さんがナイノア・トンプソンを取材していて、聴いていて偶然繋がった奇跡の話です。
当時、ホクレア号を建設するときに必要な大きな大木が必要となりました。
しかし、ハワイにはそんな大木はなく、頭を悩ませていたそうです。
ですが、ある時アラスカから海流で流されてくる大きなトウヒの木が、
ハワイに流れ着き、それを使って大きなカヌーを作っていたことに気が付いたそうです!
偶然にも取材前に不慮の事故で亡くなってしまった星野道夫の撮影の舞台はアラスカ。
まったく別に取材していた二人の点が線で繋がった瞬間です。
そして星野道夫の生前最後のエッセイのタイトルが「旅をする木」。
あまりにも不思議で魅力的なこの話をしたとき、
鳥肌が立つほど感動したのを覚えています。
■先日、にっぽん丸に乗ってきたKONISHIKIさんが母島で素敵なライヴをしてくれました。
そう、彼はハワイ出身。
そしてフラ。
カヌー。
この小笠原に暮らしていて、古から今に繋がるものがこんなにあるなんて!!
ハワイはそのまま人が定住し、先住民となり今も暮らしていますが、
小笠原では石器時代の暮らしは今まで直接は繋がっていません。
太古の小笠原の暮らしはどうして続かなかったのか?
どんな暮らしだったのか?
その部分にとても興味があるのです。
きっと太古の子供たちも今と同じように海に飛び込んで遊んでいたでしょうし(笑)、
今はいない色んな鳥もいたはずです(これはメジロの巣立ちヒナです)。
水のない島に人は定住できなかったといいます。
今は水をたたえて美しいこの風景も、
ダムを作った現代ならではの島の風景です。
文化や暮らし、農耕、狩猟をしていても、
古の時代の暮らしをいつも想像しては、
色んな事に想いを馳せます。
きっと人の営みは基本的には何も変わらず、
幸せに生きる為に、
頑張っていたのではないかと思わずにはいられないのです。
それは小笠原貞頼が発見し、
ナサニエル・セーボレーが定住を始めた江戸時代ではなく、
その遥か昔の石器時代に人が住んでいた小笠原の時代です。
今から約2000年前、約1世紀頃に小笠原に人が暮らしていたと考えられています。
その頃の時代の名残として、
父島の三日月山や北硫黄島で遺跡が発見され、
カヌーを掘った石器や貝細工、斧が発見されています。
それは、何世代も建造物が残る欧州などの石の文化ではなく、
季節の流れで風化してしまう木と石の文化です。
その頃から、
直接ではないにせよ文化的に今でも受け繋がれているもの…
アウトリガーカヌーとフラに思いを馳せるようになりました。
■形状的にはフィリピンやインドネシア系ではなく、
ハワイ系となる小笠原のアウトリガーカヌー(カノーと呼ばれていました)。
日本では小笠原が唯一ハワイ系が直接伝わってきた場所だと聞いています。
何気なく始めて、
今も母島カノー部に所属し、関わらせてもらっていますし、
フラも素人ながらにやらせてもらっていますが、
まさかそれらが古の時代の小笠原に繋がっていることを知ったのはずっと後の事でした。
■遥か昔の石器時代、
太平洋に住む民たちがカヌーを使い、自由に島を移動していた時代があると言います。
大航海時代にキャプテンクックが太平洋の島々を渡り歩き、
遠く離れて交流すらなくなった島が
なぜか似た文化を持っていることを発見したそうです。
調べてみると、
昔は船で自由に島間を自由に行き来していたが、
その島で自給自足ができるようになると、
海を渡る術を忘れてしまってきていた様なのです。
それはまだカヌーの帆が大陸から綿が伝わっておらず、
タコノキ(アダン)の葉を用いて作られていた時代です。
■その伝統航海術、
いわゆるGPSはもちろん、海図や羅針盤など、
一切の近代器具を使わず、
星と波と風だけを頼りに海を渡る術【スターナビゲーション】を現代に復活させた人達がいます。
それがハワイのホクレア号です。
15年前、僕が父島でカヌーを始めた年に、講演会がありました。
太平洋の島々の文化を研究する後藤明さんと、
ホクレア号の初来日に携わったシーカヤッカー&海洋ジャーナリスト内田正洋さんです。
二人の話を聞いて、沢山の感銘を受けました♪
小笠原の考古学の話はなんとなくうる覚えで知っている程度でしたが、
これをきっかけに、カヌーという具体的な存在を経て、
遥か昔の小笠原に想いを馳せる事が出来たのです☆
その伝統航海術というのは本当にすごくて、
その星見となる人は、船の行先のすべてを司り、
目的地にたどり着くまでの数週間、
一度も睡眠を取らず、うつらうつらした状態のまま、
今、自分たちが地球のどこにいるのか、
どこに行こうとしているかを把握し続けているというのです。
星の見える夜はいいものの、
星の見えない昼間や荒天時は、
風の匂いや温度、水の感触、
うねりや波から、地形を意識していると聞きました。
星見の人が出発地から目的地までの道のりを
完全にイメージできるまでは、
カヌーは出発できず、待ち続けるのだそうです。
僕はこの話を聞いて、感動して震えていました。
今こうして眺めている海と島に、
そんな時代があり、そんな技術があったなんて!!
■そんな事を色々思い馳せるにはことがあったのです。
昨晩、次女と初めて映画「モアナと伝説の海」を観ました。
その中で、小笠原にも良く似た風景の中、
遠い昔の太平洋のカヌー文化が描かれていたのです!
タコノキの葉で作った帆を使い、
木のパドルで船を操舵し、
遥か大海原を星を見て渡る場面。
この映画の製作者はとても研究しているんだなぁと感じました。
そしてポリネシアに対してとても深くリスペクトしているということがひしひしと伝わってきました。
DVD/BDに映像特典のメイキング・ドキュメンタリーが付いているのですが、
映画を作るにあたって、足かけ5年間、何度も何度も太平洋の島々を巡り、
キャスティングもほぼポリネシア人、
脚本も多くの現地の有識者を巻き込み作成されている場面が描かれていました。
ホクレア号の伝統航海術ももちろん取材されていて、
スタッフもどんどんポリネシアに対する見方が変わり、
リスペクトしていっていました。
その象徴という場面、
ずっと西洋に文化を否定されてきたけれど、
現代の西洋が行き詰っているのを感じた時に、
モーレア島の漁師で長老でもある故イヴ“パパ・マペ”テヒホタータが語ります。
「今度は西洋が我々の文化に飲み込まれてみては?」
ハッとされられます。
まさに究極の発想です!!
本当に大切なヒントは、実は先住民の文化だったと多くの人が気付き始めているのです。
■ガイアシンフォニー(地球交響曲)という映画の第三番に
ハワイのホクレア号のナイノア・トンプソンが出てくる場面があります。
その取材の時の話で、
僕が大好きなエピソードがあります。
撮影前にクマに襲われて亡くなってしまった写真家・星野道夫と
ハワイのカヌーがなんと不思議な縁で繋がる場面です。
それは監督:龍村仁さんがナイノア・トンプソンを取材していて、聴いていて偶然繋がった奇跡の話です。
当時、ホクレア号を建設するときに必要な大きな大木が必要となりました。
しかし、ハワイにはそんな大木はなく、頭を悩ませていたそうです。
ですが、ある時アラスカから海流で流されてくる大きなトウヒの木が、
ハワイに流れ着き、それを使って大きなカヌーを作っていたことに気が付いたそうです!
偶然にも取材前に不慮の事故で亡くなってしまった星野道夫の撮影の舞台はアラスカ。
まったく別に取材していた二人の点が線で繋がった瞬間です。
そして星野道夫の生前最後のエッセイのタイトルが「旅をする木」。
あまりにも不思議で魅力的なこの話をしたとき、
鳥肌が立つほど感動したのを覚えています。
■先日、にっぽん丸に乗ってきたKONISHIKIさんが母島で素敵なライヴをしてくれました。
そう、彼はハワイ出身。
そしてフラ。
カヌー。
この小笠原に暮らしていて、古から今に繋がるものがこんなにあるなんて!!
ハワイはそのまま人が定住し、先住民となり今も暮らしていますが、
小笠原では石器時代の暮らしは今まで直接は繋がっていません。
太古の小笠原の暮らしはどうして続かなかったのか?
どんな暮らしだったのか?
その部分にとても興味があるのです。
きっと太古の子供たちも今と同じように海に飛び込んで遊んでいたでしょうし(笑)、
今はいない色んな鳥もいたはずです(これはメジロの巣立ちヒナです)。
水のない島に人は定住できなかったといいます。
今は水をたたえて美しいこの風景も、
ダムを作った現代ならではの島の風景です。
文化や暮らし、農耕、狩猟をしていても、
古の時代の暮らしをいつも想像しては、
色んな事に想いを馳せます。
きっと人の営みは基本的には何も変わらず、
幸せに生きる為に、
頑張っていたのではないかと思わずにはいられないのです。