玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(2)

2024年01月22日 | ラテン・アメリカ文学

 このような溢れんばかりの直喩と隠喩によって構成された、濃密でスピード感に満ちた文章世界を、私は既に経験している。それはラテンアメリカ文学においてではなく、南米ウルグアイの首都モンテビデオで生まれ、13歳で父母の故郷であるパリに渡った青年イジドール・デュカスが、22歳から書き始めた散文詩『マルドロールの歌』の世界である。
 まず、デュカスの『マルドロールの歌』における特徴的な直喩表現についてみていこう。直喩の特異性はこの作品の冒頭からいかんなく発揮されている。第1歌(1)から引用する。

「踵を返せ、前進するな、母親の顔をおごそかに凝視するのをやめ、崇敬の念をこめて顔をそむける息子の両眼のように。あるいはむしろ、瞑想にふける寒がりの鶴たちが形作る、見渡す限りのV字角のように。それは冬のあいだ、沈黙を横切り、帆をいっぱいに広げて、地平線のある一点に向かって力強く飛翔していくのだが、そこから突然、異様な強風が卷き起こる。嵐の先触れだ。最長老の、一羽だけで群れの前衛をなしている鶴は、それを見ると分別ある人物のように頭を振り、その結果くちばしも振ってかちかちと音を立て、嬉しくなさそうな様子を示すのだが(私にしても、この鶴の立場だったら嬉しくないところだ)、他方、羽根がすっかり脱け落ちた、三世代の鶴と時代を共にしてきたその老いた首のほうも、いらだたしげに波打って動き、いよいよ接近してくる雷雨の到来を予告する。経験を宿した眼で四方八方を何度か冷静に見回してから、慎重に、この先頭の鶴は(というのも、知力に劣る他の鶴たちに尾羽根を見せる特権をもっているのはこの鶴なのだから)、憂いがちな哨兵ならではの用心深い叫び声をあげると、共通の敵を撃退すべく、この幾何学的な図形(それはおそらく三角形と思われるが、これらの奇妙な渡り鳥が空間に形作っている第三辺は目に見えない〕の先端を、熟練の船長よろしく、面舵、取舵と、自由自在に方向転換しながら進んでいく。そして雀の羽と同じくらいにしか見えない翼を操って、この鶴は、なにしろ愚かではないのだから、こうして賢明な、より確実なもうひとつの道をとるのである。」

 ここに見られるのは、奇態な直喩と直喩の野放図な展開である。直接的な直喩は「瞑想にふける寒がりの鶴たちが形作る、見渡す限りのV字角のように」の部分に明示されているが、この部分が比喩している比喩内容は、これから『マルドロールの歌』を読もうとする臆病な読者が、この作品から撤退していく有様である。しかし、鶴のV字形編隊の直喩は、まるで鶴の隊列そのものを描写していくかのような文章に引き継がれていく。
 前回引用したレサマ=リマの一節と同じように、どこからどこまでが比喩で、どこからどこまでが描写なのか分からなくなるという点において、この文章は一致している。言ってみれば、比喩表現において比喩するものが比喩されるものの束縛を離れて、自由にさまよい出るのである。これはほとんど小説における文章というよりも、詩における詩文の持つ特徴であって、詩人にしか可能ではないし、このような文章を自在に駆使したのは、19世紀のデュカスと、20世紀キューバのレサマ=リマだけかもしれない。
 そうした意味で、レサマ=リマの『パラディーソ』は20世紀ラテンアメリカ文学において、極めて特異な作品であると同時に、ブームの時代を代表するいくつかの作品に充分比肩し得る優れた作品であったと私は思う。『マルドロールの歌』は多くの詩人や作家に影響を与えたが、レトリックの面で正統的な後継作品を生んではいない。『マルドロールの歌』に近い作品がほとんど存在しないのだ。しかし、20世紀キューバにそうした作品が例外的に存在したということを私は言っておきたい。
 以下、私はそのことの証拠をいくつか挙げていこうと思う。


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