玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アルフレート・クビーン『裏面』(3)

2022年03月05日 | 読書ノート

「私」はパテラに対する拝謁許可証をもらうために、アルヒーフ(役所)へ行ってそこで眠っている男を起こし、彼に訊ねようとするが、返ってくる返事は次のようなものである。

「拝謁許可証を受けるのには、あなたの出生証明書、洗礼証明書、結婚証明書のほかに、父親の卒業証明書と母親の種痘証明書が必要です。廊下の左手にある十六号の事務室で、あなたの財産、学歴、所有する勲位の申告をなさってください。岳父の素行証明書もあれば結構なのですが、しかしどうしても必要だというわけではありません」

 名前を名乗ると彼はとたんに慇懃な態度を取るようになり、「私」は閣下と呼ばれる男の所に案内されるが、この閣下は拝謁許可証交付を約束しながらも、意味不明の演説をぶちかますのみで、まったく要領を得ない。しかも後日許可証が交付されたにも拘わらず、「私」は「翌日にはそれが無効だという通知」を受けることになるのだった。
 役人の対応といい、ほとんど冗談と紙一重の条件といい、この不条理な世界はまったくフランツ・カフカの世界そのものである。カフカの『城』が書かれた年が1922年(マックス・ブロートによる出版は1926年)であることを考えると、カフカの作品にはクビーンのこの作品からの直接的な影響が認められるのである。クビーンもカフカと同じチェコの出身であり、先輩として彼との交流もあったというから、確実なところだ。
 私が第一に驚いたのは、このカフカとの相似ということについてだった。カフカの『審判』や『城』に描かれた不条理な世界が、カフカ以前に一人の画家によって小説として書かれていたことが、驚くべきことでないわけがない。私はなぜこの作品をもっと早くに読んでおかなかったのかと、慚愧の思いに駆られてしまうのだった。
 私はカフカの世界はまず第一に、夢の世界に通底しているのだと思っている。『城』でKが城へ行こうといくら努力しても、役人たちの不合理な扱いによって阻まれてしまうというストーリーは、我々が夢の中でする体験によく似ている。ある場所に行きたいと思い、そこに到達しようとする努力をいくら繰り返しても、その努力がさまざまな阻害条件によってことごとく挫かれてしまう。しかもその条件というのが、どう考えても道理に沿ったものではないというのが、夢の中で起きることの大きな特徴である。
 カフカの描く不条理な世界を、現実の官僚機構のアレゴリーとして読む人もいるが、私にとってはそれは何よりも〝願望充足への希求とその阻害〟として現れる、夢の性格を帯びている。だからこそカフカの作品には衝迫力があり、リアリティがあるのである。
 夢は快感原則に支配されるとフロイトはいうが、私にはそんなことは信じられない。夢の中でのどこかへ行きたいとか、何かを食べたいとかいった願望充足への欲求は、必ず阻害される。少なくとも私にとっての夢はそうであり、そうでなく必ず夢の中では願望が充足されるという例を私は聞いたことがない。
 夢は快感原則に対して現実が介入してくる場なのであって、単純に快感原則に支配される世界ではない。欲望を禁じるものが超自我だとすれば、超自我とは快感原則を阻害する現実意識である。夢の中でも現実は生きているのである。
 ジェラール・ド・ネルヴァルは『オーレリア』の冒頭で「夢は第二の生である」Le Rêve est une seconde vie.といっているが、ネルヴァルがいった意味とは違った意味でも、夢は第二の生であり、第二の現実なのである。現実の生もまた欲望充足とそれを阻害する現実との闘争の場であるならば、夢もまた同じ場所に位置を占めるだろうからである。
 カフカの小説のリアリティはそうした事実に根ざしているし、私はカフカをそういう風に読んできた。さらに私はクビーンに関してもそのような読みを強いられることだろう。

 

 


アルフレート・クビーン『裏面』(2)

2022年03月04日 | 読書ノート

「第2章 パテラの創造」では、夢の国の相対的なイメージと生活の諸相が描かれる。まず、中部ヨーロッパとの決定的な違いについては、次のように説明されている。

「全体として大ざっぱに言えば、ここでの状況は中部ヨーロッパのそれと似たりよったりだったが、しかしそこにはまた非常な違いもあったのだ! たしかに、町が一つあり、いくつかの村と、大きな領土と、川と湖が一つづつ、あった。しかしそのうえにひろがっている大空は、永遠にどんよりと曇っていた。けっして太陽の輝くことはなく、けっして月や星が夜、眼に見えることもなかった。永遠に変ることなく、雲が深く地上にまでたれこめていた。それが嵐のときに密雲となることはあっても、青い天空は私たちすべてのものの眼に閉ざされていた。」

 昼に太陽が輝きを見せることはなく、夜に月や星が光を放つこともない世界、それは気象学的に「広大な沼地や森林」によって、いつでも霧が発生するためだとされている。これがパルレの基本的なイメージであって、ここでもすでにディストピア的な世界が姿を見せている。
 しかし、ユートピアがディストピアに変じていくのはまだ先の話であって、「私」は当初、この夢の国に親和性を感じていた。それは金銭的な慣習にも関わることでもあった。

「あるとき数百グルデンのお金を懐にしているかと思えば、次にはまた無一文になっていた。結局は、お金がなくても結構うまくやってゆけるのだった。ただ誰でもが、まるでなにかを渡そうとしている、というようなふりをしなければならなかった。時と場合によっては、どんなに余分な金をわたしても釣銭を受けとらない、といったような危険をおかすことさえもできた。しかし結果はいつでも同じことなのだった。
 ここでは空想がそのまま現実だった。そのさい不思議なのはただ、どうしてそのような空想が数人の頭に同時に浮かんでくるのか、ということだった。人びとはおたがいに、話をしながら、いやおうなしに暗示にかかっていったのである。」

「お金がなくても結構うまくやっていける」世界は、それだけでもユートピア的な要素を含んでいるが、この作品が書かれた1909年ということを考えれば、それが社会主義や共産主義の理想的な側面を示していることは明白だろう。そんな意味で「私」の前に徐々に姿を現してくるペルレはユートピア的な要素で「私」を魅了していく。
「私」はまだペルレに期待を抱いていて、友人に「ここへ来て暮らすように」という手紙を書いているが、そこでは町の中央広場に立つ灰色の時計塔の魔力のせいだということが、暗示されている。そしてこの魔力を持った時計塔がこの先重要な存在となっていくのである。
「私」は雑誌の素描画家としての仕事に励みながら、「友人であるパテラを訪問しようという無駄な試み」にのめり込んでいく。それが「無駄な試み」であるのは、「私」がパテラに会おうとすると、必ず邪魔が入ってくるからである。ここからこの小説はフランツ・カフカ的な世界に突入していく。

「それにはあいにく、ありとあらゆる邪魔がはいりこんできた。一度は、首領はあまりにもたくさん仕事をかかえこんでいるので、誰にも謁見は許されない、ということだった。別の時には、彼は旅に出ていた。まるでいまいましい妖怪が邪魔だてをしてでもいるかのようだった。そのとき私は、アルヒーフへいけば拝謁許可証を出してもらえる、ということを聞きこんだ。」

 

 

 


アルフレート・クビーン『裏面』(1)

2022年03月03日 | 読書ノート

アルフレート・クビーン『裏面』(1)

 文学と美術のライブラリー「游文舎」が、3月21日から27日に予定している「大古書市」のための図書整理をしていた時、1960年から1970年代に刊行された河出書房新社の「モダン・クラシックス」のシリーズがかなりあることに気が付いた。
 そのラインアップを見ると当時全盛を極めていたフランスのヌーボー・ロマンの作家の作品を中心に、イギリス、アメリカ、ロシア(ソ連)、ドイツ語圏などのかなり珍しい作品を集めた意欲的な企画であったことが分かる。その後かなりの作品が文庫になったり、他の出版社から再刊されたりしているが、中にはこのシリーズでしか読めない貴重な作品もある。
 私はイギリスの作家ロレンス・ダレルの「アレクサンドリア・カルテット」四部作『ジュスティーヌ』『バルタザール』『マウントオリーブ』『クレア』を所持しているが、あの退屈でやたらと長い小説を読み通したのであった。数十年前のことなので、苦労して読んだ割にはほとんど記憶に残っていない。
 中にアルフレート・クビーンの『裏面――ある幻想的な物語』があったので、読んでみることにした。幻想小説を好んで読む私だが、この作品はなぜか未読であった。読み終わった時、なぜもっと早く読んでおかなかったのかと、猛省を強いられることになる。
 小説は「私」というクビーン自身に近いと思われる画家兼イラストレーターが、昔の同級生クラウス・パテラに、彼が莫大な私財を投じて造った夢の国(パルレ=真珠の意)に招待される場面から始まる。この出だしからこの小説がある種のユートピア小説であることが予想される。しかし多分そのユートピアはすぐにディストピアに変貌していくだろう、というのが先入観なしに読み始めた時の印象である。
 妻と一緒にパテラに招待された「私」は、住んでいるミュンヘンを離れ、ブタペスト―ベルグラード―ブカレスト―コンスタンツァ―バツーミ―クラスノヴォドスク―メルク―ポカラ―サマルカンドへと旅を続ける。現在の国名で言えば、ハンガリー―セルビア―ルーマニアー―ジョージア(グルジア)―ロシア―トルクメニスタン―ネパール―ウズベキスタンへと鉄道を利用して進んでいくことになる。
 サマルカンドからはラクダの車で、ペルレの門に向かう。門をくぐる時、妻が「もう二度とここからは出られないのね」と呟く場面が印象に残る。門からは列車で3時間を費やしてペルレの市街地に到着する。
 ペルレの位置はかなり重要な意味を持っているだろう。中央ヨーロッパから東ヨーロッパを経てひたすら東へ、「私」と妻はヨーロッパの文明圏を離れて、中央アジアに至るのである。ここにクラウス・パテラが建設した夢の国が位置しているというわけだ。
 この地勢的条件もまた、ユートピア小説の定石に従っていると言えるだろう。ユートピアは我々の住んでいる国からできるだけ遠いところになければならないし、日常的な常識が通用しないところでなければならない。そうでなければユートピアとは言えないからである。
 しかし、到着早々二人は自分たちが住むことになる家に案内されて、大いに幻滅を味わうことになる。

「これが夢の国の都、ペルレの町っていうわけか?」 ? ? 私は憤懣をうまくかくしておくことができなかった。「こんなものなら、ぼくたちのところのどんな薄汚い町でだって見られるじゃないか!」と、私は不快と幻滅のあまり、そう言って、一軒の退屈な建物を指さした。

 夢の国には西ヨーロッパでは見慣れない文化に触れることができると思っていたのに、彼らが見たものは自分たちが今まで住んでいたのと同じような建物であり、内部を飾る絵画作品であったのである。実は夢の国は西ヨーロッパから大量の古い建築物や装飾品を買い付けて、パテラが造り上げたものだったのである。こうしてユートピアは矛盾をかいま見せて、ディストピアに変貌していく予感を漂わせていくのである。

・アルフレート・クビーン『裏面――ある幻想的物語』(1971、河出書房新社「モダン・クラシックス」)吉村博次・土肥美夫訳