玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(17)

2015年09月09日 | ゴシック論

『耶路庭国異聞』に含まれる「巨人」という作品があって、この作品は山尾悠子の特異な想像力をよく示した作品となっている。しばらく山尾の想像力のあり方について探ってみることにしよう。
 Kという巨人を主人公に据える。この巨人、山で暮らす巨人族の一人だが、人間たちが山を崩して平らな土地にしてしまったため、そこに暮らすことが出来なくなる(〈帝王〉が自分以外の者に地上を俯瞰することを許さないための措置)。
彼は人間の社会に入っていくことを余儀なくされるが、同時に身体に〈箍〉を嵌めることを覚え、普段は人間と同じ大きさで暮らす。
 小説は〈帝王〉に売り込もうと、仲介人がKを連れて列車に乗る場面から始まるが、小さな箱形車輌に閉じこめられて、Kは耐えがたい閉塞感を感じている。何かの寓意のようで、Kというイニシャルの使用もまた、何かの寓意を感じさせないではおかないカフカの小説を思わせる。
 しかしカフカの作品が単なる寓意に止まらないように、山尾悠子の作品も単なる寓意に終わることはない。Kは眠くなると〈箍〉が思わずはずれそうになって巨大化しそうになるのだが、このあたりの生理的な感じには妙な説得力がある。
 Kは偽の〈帝王〉の前で自らの商品価値を証明するために、〈箍〉をはずして一挙に巨大化してみせる。
「一呼吸で、Kの両足は水盤の両端の端を左右に踏みしめていた。たちまち円柱群の上方に充満した白銀の光環を頭が突き破り、眩さに眼がくらんだKは背を曲げた。片手を降ろすとそこには水面に裾を没した階段があり、Kの躰は今や正円の水盤をまたいで対岸に肘をついているのだった」
この巨大化の過程を描いた文章を読むと判るように、舞台はデジデリオ風の巨大建築物の内部に設定されている。閉鎖空間は小さな箱形車輌だけでなく、至るところに用意されている。
 本物の〈帝王〉が所有するもう一人の巨人(こちらは女)が眠る巨大な四角形の部屋もそうだし、この女巨人が収縮して卵形となって閉じこめられる大きな鳥籠もそうである。
「巨人」という作品では《海》がひとつのキーワードになっているが、海こそ閉鎖空間に対立させられる開放系なのに他ならない。しかし、Kにとって《海》は言葉でしかなく、それをKは見たこともないのである。
 鳥籠に閉じこめられた卵は〈夢の卵。これは《海》の夢を見ている巨人の夢を見ている卵なのだ〉と誰かが言う。巨人族には冬眠の習性があり、冬眠の間《海》の夢を見るのである。それは巨人族に限らず、人間の条件でもあるだろう。
 山尾悠子は1985年から1999年までの15年間作品を発表せず、長いブランクの期間を過ごすことになるが、本格的に創作を再開することになったのは『ラピスラズリ』という作品によってである。
 そして『ラピスラズリ』には冬眠族が登場するのである。この冬眠族は山尾自らの冬眠(執筆休止期間)に関わるものであると同時に、「巨人」という作品の冬眠のモティーフの再現でもあるだろう。
 冬眠族とは何かについては『ラピスラズリ』を読む時まで保留したいと思うが、「巨人」を読む限りでは、それが人間の条件に他ならないことは確実であろう。閉鎖系の内にありながら解放系を夢見る人間の条件であることが……。
 山尾悠子の作品は"おとぎばなし"ではないのである。

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山尾悠子『山尾悠子作品集成』(16)

2015年09月04日 | ゴシック論

 カルペンティエールの「種への旅」はラストの部分で了解されるように、植民地化されたキューバの時間を逆戻りさせ、原初のキューバを取り戻そうという願望に満ちた夢想の物語である。そこに生粋のヨーロッパ人であったカルペンティエールの生まれ育ったキューバに対する深い愛情や、先住民に対する良心を認めることは出来る。しかし、時間を操作する小説として良くできているかといえば、私はそうは思わない。
 山尾悠子の「黒金」は、時間を逆行させようなどという無謀な試みでもなく、ロブ=グリエが「秘密の部屋」で行ったような完全に静止した時間を描こうとしたのでもない。山尾はロブ=グリエの静止した時間を少しずつ遡行することで、時間を重層化させる。十分ないし十五分間隔で時間を遡ることで、静止した時間が多層に重なることになる。
 閉鎖空間である。ロブ=グリエの「秘密の部屋」のように閉鎖された空間である。しかもその部屋は"毛深い部屋"であって、何百匹もの黒貂の毛皮で壁も床も覆い尽くされている。この部屋に人間ではないものを出現させるための伏線である。
 血の描写もロブ=グリエのそれと似てはいるが、この"毛深い部屋"は血痕のありようをより凄惨なものにしている。
「漆黒の、ほとんど青みがかったような深い艶を持つ緞帳に散ったそれらの血痕は、乾きかけている今、毛皮の地色に近く変色して見分けがたくなっている。ただ、その箇所だけ血液の凝固作用に汚され、毛皮の光沢が失われているのでそれと判るのだ。そこを斜めに透かして見れば、光線の当たり加減で、硬ばった毛並の表面に金属的な暗紫色の照りが認められるだろう。」
 こうした執拗な描写こそ、小説の時間を止める最も重要な要諦である。ロブ=グリエの場合は一枚のタブローの細密な描写に止まっているが、山尾は時間を遡行することで、数枚のタブローの描写を可能にする。ある意味、一枚のタブローよりも数枚のタブローの方が、放埒な描写の願望を充足させることが出来るわけだ。
 失神した裸の女の躰がベッドと壁の隙間に倒れ込んでいる。そして、部屋の中にもう一つの存在が描写の進行とともに姿を現す。
「黄色みを帯びた蝋燭の光線の真下、生々しい赤黒さの血のりに浸ったシーツを長々と斜めに覆って、狼、おそらくは灰色狼と呼ばれる種類であろうと思われる人身大の獣が、女の見ている側に腹をむけるかたちに横たわっている」
 黒貂の毛皮で覆われた部屋に姿を現す狼の死体。ロブ=グリエの部屋には人間しか(生きているにせよ死んでいるにせよ)存在しないが、山尾の部屋には途方もないものが(生きているにせよ死んでいるにせよ)出現するのである。
 さらに、狼の「咽喉もとから股間部にかけて」「縦一直線の長い裂け目」があり、そこから少年の上半身が飛び出しているのである。
「少年の身体は、その狼の腹の裂け目から上半身だけを外に乗りだしたかたちで、上体をひねるようにシーツの血溜に浸っている。眼を閉じ、唇をうすく開いて、片頬をシーツの血の中に埋め込んだその顔に苦悶の表情はないが、おそらく窒息したために死んでいる」
 少年の出現は狼のそれよりも遙かに奇態なものと言わなければならない。山尾悠子の幻想世界はいつでも絵画のように静止状態にあり、そのためもあっていつでも美しいのであるが、「黒金」だけは凄惨でグロテスクな例外をなしている。
 ロブ=グリエの短い作品に触発されて、しかもロブ=グリエ以上の傑作を書くことが出来た山尾悠子の想像力に感嘆せずにはいられない。

 

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山尾悠子『山尾悠子作品集成』(15)

2015年09月02日 | ゴシック論

 アレホ・カルペンティエール(1904-1980)はキューバの作家であるが、フランス人の父親とロシア人の母親を持つ生粋のヨーロッパ人である。ラテンアメリカ文学の旗手とも言われた作家だが、代表作『失われた足跡』や『光の世紀』などは極めてヨーロッパ的な作品で、ラテンアメリカの土俗性をまったく感じさせない。
 しかし、初期の作品『この世の王国』は18世紀末ハイチの黒人奴隷による反乱を描いて、いわゆる"魔術的リアリズム"の典型的な作品とみなされている。そして『時との戦い』におさめられた「種への旅」は『この世の王国』よりも前に書かれた作品で、やはり土俗的な魔術に対する強い共感を背景にしている。
 ところでこの「種への旅」こそが時間の逆行を描こうとした作品なのである。この作品はドン・マルシアルという侯爵家の当主の館を取り壊す場面から始まるのだが、時間の逆行は黒人の魔術によって引き起こされる。
「そのときである。そこを立ち去らずにいたニグロの老人が奇妙なしぐさをした。舗石の墓地の上で、杖をひと振りしたのだ」
 この黒人の魔術決行の後、ひたすら時間は逆行していく。次のように。
「白や黒の四角い大理石が床めがけて飛んでゆき、字面を隠した。石も又確かな狙いをつけて飛び、壁の穴を埋めた。飾り鋲のついたくるみ材の板がぴたりと枠におさまり、蝶番のねじはすばやく回転して、ふたたび穴にもぐり込んだ」
 こうして主人公マルシアスは死の床から目覚め、どんどん若返っていって、青年時代、少年時代、幼年時代へと遡行していく。マルシアルは胎児となり、さらに受精卵となり、種へと帰っていく。さらに館自体も原初への旅を続ける。
「一隻の二本マストの帆船がいずくからともなく現われて、床や噴水の大理石を急ぎイタリアへ運び去った。武器や蹄鉄、鍵や銅鍋、馬銜などは溶けて金属の太い流れとなり、屋根のない回廊を伝って地面へ向かった。すべてが姿を変えて、原初の状態に戻った。土は土に帰り、館は消えて荒れ地だけが残った」
 ビデオの巻き戻しのようなこうしたシーンはしかし、徹底されることはない。カルペンティエールが時間をマイナスの方向に誘導しようとしても、どうしても時間がプラスの方向に進行することを妨げるのはむずかしい。たとえば……。
「ある晩、酒を飲みすぎ、友人らの残していった冷えたタバコの臭いで気分の悪くなったマルシアルは、……」
 この文章はあきらかに時間の逆行を描いていない。他にも当然そうした部分はあって、このことはカルペンティエールの作品にある種の不徹底をもたらしている。
 時間の逆行を言葉で描くことが本当に出来るのか? という疑問は提出されてよい。言葉は時間というものと深く関連している。言葉は整序的にしか発声されないという事実を確認しなければならない。
 ビデオの巻き戻しは時間の逆行をなぞることは出来る。しかし、ビデオの音声を巻き戻したら、それは言葉にすらならない。言葉は整序的な時間とともにあるのであり、プラスの方向にしか進み得ない。
 だからカルペンティエールの「種への旅」は無謀な試みであったのであり、不可能を可能とする作品ではなかった。『時との戦い』の訳者・鼓直は巻末で、「種への旅」にならって、カルペンティエールの年譜を現在から生誕へと遡行して書いてみせるが、しかし個々の年次の記述は整序的にしか書かれようがないのである。
 山尾悠子はそうしたことをよく理解していたと思う。

 

アレホ・カルペンティエール『時との戦い』(1977,国書刊行会)鼓直訳

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