玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

団塊の世代のノスタルジー

2009年08月03日 | 日記
 作家でフラメンコダンサーの板坂剛氏から、分厚い本が送られてきた。佐々木美智子写真集『あの時代に恋した私の記録・日大全共闘』(鹿砦社)である。学生運動が最も激しく展開された一九六八年の日大全共闘の運動をカメラで捉えた一冊で、A4判三百三十頁もある。
 当時学生だった人達は、すでに還暦を超えてしまっている。四十年前の学生運動について振り返るには、節目の年齢でもあるのだろう。一九六八年のことについて思想的に総括し直すという意図で出されている本もあるから、これから団塊の世代の歴史的回顧が本格的に開始されるのだと思うし、それはそれで必要なことだと思う。
 しかし、素直に喜ぶことはできない。一九六八年に高校生であった世代が、大学に入学した時には、学生運動はほぼ終結していた。その後、連合赤軍事件をはじめとする凄惨なリンチ殺人事件や内ゲバが続いていく。だから、学生運動の否定的側面しか見ていないし、「連帯を求めて孤立を恐れず」などといった高揚感を体験したこともない。私らは学生運動の“とばっちり”を受けた世代にすぎないのだ。
 板坂氏は日大全共闘芸闘委(芸術学部闘争委員会)のメンバーとして、活動した一人であった。この写真集の中には、板坂氏の四十年前の姿が捉えられている。しかし、どういうわけか、板坂氏の表情は、いつも陰鬱で暗い。それがなぜなのかは分からない。
 それにしても、このような写真集を四十年の歳月を隔てて世に問うことの意味はあるのだろうか。ゲバ棒を振り立てて、機動隊に向かって投石を行う学生達の姿は、単にノスタルジーを喚起するに過ぎない。日大全共闘のカリスマだった秋田明大氏の像もノスタルジーの対象でしかない。
 本当に必要なのは思想的総括であって、それができなければ、一九六八年の学生運動は何の意味もなかったことになる。四十年を経て、そのことが問われているのだ。団塊の世代の奮起を願う。

越後タイムス7月31日「週末点描」より)



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