玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ロベルト・ボラーニョ『はるかな星』(1)

2017年04月21日 | ラテン・アメリカ文学

 寺尾隆吉がロベルト・ボラーニョの『はるかな星』について、彼の最高傑作だというようなことを書いているので、『2666』の次ぎに読むのはこれだと思っていた。
 カルロス・フエンテスの小説のあまりの難解さにいささか疲れを感じていたため、ちょっと口直しにと『はるかな星』を読むことにしたのである。ボラーニョは『2666』しかこれまで読んでいないが、『2666』が超大冊であるにも拘わらず、非常に読みやすかった記憶があるからである。
 フエンテスの難解さが、複雑な時間処理(それは小説技法である以前に、フエンテスの時間に対する考え方からきている)や、夢の中のように錯綜する人物配置、あるいはその哲学的思弁癖にあるとすれば、ボラーニョにはそのようなものは一切ない。
 ボラーニョの小説は文章も短く平易に書かれており、物語の進行もリニアーな時間軸に沿っているし、登場人物もクリアーであり、描写は即物的で〝分かりやすく投げ出されている〟ような印象を受ける。
 また『2666』には推理小説的な構成があって、謎解きへのスリリングな期待を抱かせる。しかしそれはあくまでも〝期待〟なのであって、謎が完全に解かれることはない。ある意味では読者の期待を裏切るというか、はぐらかす小説であるのだが、それでもボラーニョの仕掛けにはまって読んでいくことになる。
『はるかな星』でもそれは同じことである。このボラーニョにとっては初期の作品を読んでいると、晩年の遺作『2666』を予兆する要素がたくさんあることに気づかされる。『はるかな星』の主人公は極悪な殺人鬼で詩人のカルロス・ビーダーであり、『2666』の主人公はもとナチス軍の兵士で小説家のアルチンボルディである。
『はるかな星』には語り手である〝僕〟をはじめ、たくさんの詩人が登場し、『2666』はアルチンボルディの小説家としての一代記としても読むことができる。つまりボラーニョは、小説の中に文学的環境を直接に導入するのである。それが彼の小説に文学的ミステリーのような印象を与える要因となっている。
〝文学的ミステリー〟としての『はるかな星』は、その元になる作品が『アメリカ大陸のナチ文学』という「架空の文学事典」の中に含まれている。「カルロス・ラミレス=ホフマン」という作品がそれであり、『はるかな星』を読んだ後で「カルロス・ラミレス=ホフマン」を読むと、人物の名前こそ違えプロットは同一であり、まるで『はるかな星』のあらすじを読ませられているような感じがする。
 もちろん事情は逆で、『はるかな星』は「カルロス・ラミレス=ホフマン」という短編を、中編小説として引き延ばしたものである。ボラーニョは「カルロス・ラミレス=ホフマン」の文章を、そのまま『はるかな星』で使ってもいて、まるで自己剽窃とでも言いたいくらいである。
「架空の文学事典」のようなものには先行作品があって、ボルヘスとビオイ=カサーレス共著による『ブストス=ドメックのクロニクル』や、スタニスワフ・レムの『完全な真空』を挙げることができる。この二著がどちらかというと架空の作品論あるいは批評であるのに対して、『アメリカ大陸のナチ文学』は詩人たちの伝記のような要素が強い。
 私は『ブストス=ドメックのクロニクル』も『完全な真空』もどちらも読んだが、どうしても好きになれない部分がある。「完全な真空」というタイトルからも分かるように、それらが〝虚〟の〝虚〟をテーマとしているからだ。存在しない本についての書評なり批評を読むことに、一体どんな意味があるのかと思ってしまう。
 特に『ブストス=ドメックのクロニクル』はボルヘス独特の高等遊戯的な要素が鼻持ちならなくて、私はとても評価する気になれない。しかし、『アメリカ大陸のナチ文学』には遊びの要素はあまりなくて、それぞれ詩人を主人公にした短編小説として読むことができるようなので、後で読むことになるだろう。「カルロス・ラミレス=ホフマン」だけは読んだが……。

ロベルト・ボラーニョ『はるかな星』(2015、白水社、ボラーニョコレクション)斎藤文子訳
ロベルト・ボラーニョ『アメリカ大陸のナチ文学』(2015、白水社、ボラーニョコレクション)野谷文昭訳

 

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