玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(1)

2017年02月15日 | ゴシック論

 このところゴシック関連の研究書がいろいろ翻訳されていて、目移りがするが、いちいち全部読んでいてはきりがないので、代表的なものだけを買って読むことにしている。
 昨年、松柏社から出版されたデイヴィッド・パンターの『恐怖の文学』は読むに値する一冊ではないだろうか。サブタイトルに「その社会的・心理的考察~1765年から1872年までの英米ゴシック文学の歴史」とあるが、これは松柏社の方でつけた題名で、原題はThe Literature of Terror : A HISTORY OF GOTHIC FICTIONS from1765 to the Present Day VOLUME 1 THE GOTHIC TRADITIONである。
 つまりもともとは1765年から今日までを通観する二巻本の一巻であって、1765年はホレース・ウォルポールの『オトラントの城』(前に『オトラント城奇譚』としていたが、より原題に近いこのタイトルを使用する)が、そして1872年はジョセフ・シェリダン・レ・ファニュの短編集『鏡のなかにおぼろげに』が出版された年である(なぜパンターがろくに取り上げてもいないこの短編集の出版年を入れたのか分からない。代表作『アンクル・サイラス』の出版年1865年にすべきである)。
 パンターのこの本の第一巻はウォルポールからラドクリフ、ルイス、マチューリンを経て、レ・ファニュまでを扱っている。私にとってはむしろその後、1865年から今日までの方に興味があるのだが、一応復習の意味もあって、この『恐怖の文学』を読むことにしたのである。
 ところが、いきなり「初版序文」に「文学批評を行う際に最も価値ある包括的な研究方法は、マルクス主義的・社会学的な思考に基づくものであると私は考えている」などということが書いてあって、「こんな本買うんじゃなかった」と思わざるを得なかった。
 私は文学研究にマルクス主義が有効だなどとは考えていない。その史的唯物論や反映論、あるいは唯物論的弁証法と言われるものはとうの昔に破綻しているし、そうした理論は文学に害悪を与えることはあっても、益をもたらすことはないと考えているからである。それらが不毛なプロレタリア文学しか産まなかったことは歴史が証明している。
「社会学的な」研究方法というなら、まだ考慮に値する部分がある。パンターは「第二版序文」で、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』に触れているが、この本は文学作品に対する社会学的なアプローチと同時に、言語論的なアプローチ(いかに〝国語〟がネーション・ステイト形成の原動力となり、ナショナリズムを醸成していくかという分析)を含んでいて、どうせならもっと言語論的な展開がほしかったと読み終えてから思うことになった。
 ただし古典的なマルクス主義が、パンターも言うように、リアリズム小説を取り上げることこそあれ、幻想文学や反リアリズムの作品を無視してきたのとは違って、彼はゴシック小説をこそテーマとしているのである。
 パンターは「初版序文」で「本書にはマルクスやマルクス主義者への言及が見出されるはずだと読者が推測するであろうことは、私も十分に承知している。しかし実はそうなってはいない。むしろ特にフロイトに言及した箇所が非常に多いのである」と書いている。
 ここでも私は「待てよ」と思わざるを得ない。文学作品に適用されるフロイトの理論もまた、とうに破綻していると考えているからである。精神分析理論ほど、恣意的な基準で文学作品に対して、無意味で無責任な発言を繰り返してきたものはない。
 しかし、パンターのこの本には本人が言うほどフロイトの理論を拠り所とした部分が多くあるわけではない。むしろパンター本人が言うように「本書が示す主要な態度は「批判的な」立場にとどまっている」のである。私はそれでいいのではないかと思う。
「批判的な」視座は、これまでの通説や常識を覆す上で最も有効なものであるし、今日文学作品分析に当たって採用出来る万能の理論などありはしないからである。

デイヴィド・パンター『恐怖の文学』(2016、松柏社)石月正伸他訳