玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(4)

2015年07月15日 | ゴシック論

 ゴストリー嬢はこの小説のストーリー展開を、様々な情報収集によって補完していく役割を担っているだけではなく、登場人物たちの心理を正確に読み取っていく装置としても機能している。
 ゴストリー嬢はストレザーをはじめとする登場人物たちの言葉の端はしから多くのことを読み取ることができる。あるいは言葉を発することのない眼からだけでも、あるいはその場の雰囲気からだけでも、正確に多くのことを読み取っていく。
 ストレザーがゴストリー嬢と旧友ウェイマーシュとともに、コメディ・フランセーズに出掛け、ボックス席に入る場面がある。ゴストリー嬢は、そこでこれから起きることを予言してみせる。ゴストリー嬢の科白……。
「もし私の予感が狂っていなければ、ビラムさん(どら息子チャドの友人)は今夜きっとあなたのために何かたくらんでいます。なぜだか、そんな気がしてならないのです」
 彼女の予言どおり、ボックス席にはチャド本人が姿を現すのである。それだけなら"予感"に止まるところだが、ゴストリー嬢は初対面のチャドを一目見ただけで、現在のチャドの生活ぶりについてすべてを見抜くのである。もう一度ゴストリー嬢の科白……。
「一見そうでなさそうにみえながら、たしかにチャドさんの背後には誰かがいるのです――それもくだらぬ女ではない人がいるのです。だって、わたしたち、チャドさんの成長が奇跡的だということを認めているのですもの。あれほどの奇跡を起こすことができるのは、そういう人以外にありません」
 ストレザーは、ではなぜチャドはその女について説明しないのかという疑問をゴストリー嬢に投げかけるが、ゴストリー嬢は「パリでは、チャドさんが受けられたような恩義は、口に出して言わないことになっているのです」と答える。 
 前半の山場をなすこの場面で、ジェイムズはゴストリー嬢にテレパシー能力を与えているかのようである。それこそゴストリー嬢は誰もが「口に出して言わないこと」でもすべてを把握することができるのである。
 前にも言ったように、テレパシーやサイコキネシスの存在を前提とするような"超心理学"を可能にするのは、ヘンリー・ジェイムズの人間の心理への全幅の信頼でなければならない。
このゴストリー嬢の特殊な能力を不自然だとか、作り物めいているとか言うことはできるだろう。しかし、それを言ったところで何になるというのであろうか。ヘンリー・ジェイムズの小説にあっては、人間の心理が行動の代わりを務めているのであるから、行動が小説において虚構の支配下に置かれるように(そうでなければ小説は成り立たない)ジェイムズの小説にあっては、心理が虚構の支配下に置かれるのである。
 そのような極端な例を我々は『ねじの回転』に見たではないか。誰も『ねじの回転』における女家庭教師の心理について、それが不自然だとか、作り物めいているなどと言うことができないように、『使者たち』においてもそれを不自然と言うことはできない。
 ところでこの場面で、『使者たち』の構造が、極めて『聖なる泉』のそれに近いということを指摘することができる。もちろんより洗練された形にはなっているが……。