玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(5)

2015年07月16日 | ゴシック論

 まず『聖なる泉』が吸血鬼小説としても読まれうるものであったことを思い出して欲しい。愚鈍な男ロングは誰かは分からないが、ある女性と深い関係を持つことによって聡明な男に変身するのだし、若くも美しくもなかったブリセンデン夫人は、夫の"聖なる泉"を汲み取ることによって若返り、美しくなるのであった。
 そこには吸血と失血というものが、損得勘定において必ずバランスが取れていなければならないという理論があった。つまり、一方が若返れば一方は老け、一方が聡明になればもう一方は白痴化しなければならないという理論である。『聖なる泉』における「私」の理論は、あまりにも形式的・図式的であって、常識を逸脱したものであった。 
『使者たち』においても、一対の男女の間でそのような現象が起こっている。
どら息子であったチャドは、ヴィオネ夫人(アメリカではいかがわしい女と思われ、ストレザーもそう思っていた女)との関係の中で、別人のように生まれ変わり、ストレザーに大きな驚きをもたらす。チャドは申し分のない紳士へと成長を遂げていたのである。
『使者たち』においては『聖なる泉』の「私」の理論のように、チャドが立派に成長したからといって、ヴィオネ夫人が精神的に退行しているわけではない。彼女は彼女として素晴らしく、ストレザーは「いかがわしい女だけが人をパリに引きとめるのではない」ということを悟るのである。
 また『聖なる泉』においては「私」という存在が、ほとんどテレパシー能力を持つかのように何事をも見通すのであるが、『使者たち』にあってはゴストリー嬢がそうした役割を担っている。しかしその役割はヴィオネ夫人の登場とともに、主人公ストレザーへと委譲されていく。
 小説の後半でストレザーは何事をも見通すことのできるテレパシー能力を持った男として生まれ変わるのである。そしてなぜゴストリー嬢がそうした能力を失うかと言えば、恋愛関係がストレザー=ゴストリー嬢から、ストレザー=ヴィオネ夫人へと移行していくからである。
『聖なる泉』の「私」は決して判断を過たず、その理論は完璧であるという自信を最終的には堅持するのに対して、ストレザーはそうではない。チャドとヴィオネ夫人との密会の現場に遭遇して、彼の自信は大きく揺らぐことになる。
『聖なる泉』の「私」は小説の最初から最後まで変わらないが、ストレザーの方は、何度か(少なくとも二度)大きな転換点を経験することになる。『聖なる泉』は何も変わらないスタティックな小説であり、『使者たち』はストレザーとヴィオネ夫人との恋愛感情をも孕んで、大きな変貌と転回の物語なのである。
 簡単に言えば、ヘンリー・ジェイムズにとって『聖なる泉』は彼の心理学の原理編であり、『使者たち』はその応用編であるということになる。ジェイムズは『聖なる泉』を無駄に書いたわけではないのである。