玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(3)

2015年07月14日 | ゴシック論

『使者たち』には主人公ストレザーを補佐するかのような、"ヨーロッパ案内人"ゴストリー嬢が登場する。この人物がありとあらゆる情報を収集して、ストレザーの役に立とうとするのだが、このゴストリー嬢とストレザーとの会話がこの小説の中でもっとも重要なファクターとなる。
 この二人の会話はとくに注意深く読む必要がある。心理小説の特徴として、大勢の場面よりも、あるいはたったひとりの場面よりも、一対一の場面がより多く描かれるということがある。当然のことながら人間同士の心理のやりとりは、一対一でこそ行いうるものだからである。
 ゴストリー嬢とストレザーとの会話は、時に判じ物のように訳が分からなくなることがある。二人がどのように会話するかと言えば、お互いに自分がこれから言うことに対して相手がどう答えるか、それを推論し、相手の答えを想定した上でしか発話しないのであり、あるいはもう一つなり二つ先の相手の返答を推論してその上で発話するというような回りくどい会話をするのである。
 だから発話と返答との間に間隙ができる。間隙と言うよりもむしろ省略による飛躍と言った方がいいだろう。そのような場面を読者は、ロンドンでのストレザーとゴストリー嬢の最初の出会いの場面から読むことになる。そして、その後に分析的記述が延々と続いていくのである。
 ヘンリー・ジェイムズの小説は、このように長くならざるを得ない要因を持っていると言える。一般に"心理小説"というものは小説にとっての"手法"のひとつと考えられるだろう。人間の心理を分析的に書くことで、作品に内面性を持たせ、重層化することができるからである。
 しかし、ジェイムズの場合は違う。心理描写は"手法"ではなく、それ自体が目的となっている。ジェイムズにとって人間の心理は、登場人物の行動と同じ意味を持っている。人間の行動を描くことは"手法"ではあり得ず、それこそそれ自体が小説の目的なのである。ジェイムズは行動を描くように心理を描くのである。
 ヘンリー・ジェイムズの小説では、人間の行動というものはほとんど描かれない。だから退屈だというむきもあろう。しかし、心理が行動と同じ位置を占めているのであるから、普通の読み方はできないのである。読者はこのことをまず認識する必要がある。心理を登場人物の行動の裏付けとしてではなく、行動そのもの、あるいは行動の暗喩として読むことが必要になる。
 そのように読むならば、登場人物の心理の動きこそがドラマであることが理解されるし、そこには大きなものから小さなものまで無数の運動があるのであるから、読者はその運動に身を任せればよい。そうすればジェイムズの描く心理のドラマを敏感に感じとることができるだろう。