蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

"小泉という政治家?”―「立花隆著、ぼくの血となり肉となった500冊…」を読む。―

2007-03-30 02:19:47 | 時事所感
 3月29日(木) 晴れ。暖。

  先日、図書館の新刊コーナーから、早速、借りてきた立花隆著「ぼくの血となり肉となった500冊 そして 血にも肉にもならなかった100冊」(文芸春秋 刊)を、拾い読みした。

  この中で面白い一項に出会った。加藤の乱のお粗末で自民党総裁候補から急降下墜落、超低空飛行中の加藤紘一先生の近著、『新しき日本のかたち』(ダイヤモンド社刊、)を取り上げての記事である。
 
  立花氏は、『YKKの内側を語る章を読むと、小泉という政治家が、およそ政策を論ずるなどということとは無縁の政治家だということがよくわかる。「あまり政治家は勉強や、議論をしてはいけない」が口癖で、「人の話を一生懸命聞いたりすると、結論を迷う。そうするとメッセイージが非常に曖昧いになる。それよりも自分が一番初めに感じた直感で行動を進めていくのが正しいんだ」が、小泉のモットーだった。YKKが会っても、むずかしい政策的な議論はほとんど加藤・山崎のYK間で行われ、小泉はコップ酒を飲みながら、「時たまワンフレーズ的にズバッと意見を言う」だけだったという。…』と、紹介している。

  加藤氏の語る小泉像がどれほど、その実像を伝えているのかは、山家の隠居の知りうべきもない。
  ただ、ここに描かれた姿が、その実像にほぼ近似しているのであれば、なるほど、小泉政治の真価というか意義がどのへんにあったかがある程度納得がいくではないか。
 
  今、世評、小泉政権の実績を評価するものは極めて少数でしかないようだ。
  しかし、私は、その成功、不成功はともかく5年間も私を含めて、国民の多数が、その痛みを危惧しつつも支持しつづけた理由は、それなりのものがあったからだと思う。

  それは、何と言っても戦後55体制とかの自民党ばらまき政策の累積の結果、国、地方合わせて1000兆円を越えようかいう世界各国にも類をみない驚異的な赤字財政国家の現状を前にして、これではいかにも何とかしなくては、との危機感を持つのは当然ではないだろうか。
  
  小泉氏は、その生得的かつ天才的ともいうべき、政治的感性でこの国民多数の危機感を鋭敏にキャッチし、自己の政治スローガンにしたということではないのか。
  それが、誰の耳にも入りやすい“自民党をぶっ壊す”であり“郵政民営化”であったというわけだ。
  彼には、その中身なんかどうでもいいのだ。一応包みの中がそれらしく外から見えさえすればいいのだ。日日の暮らしの一円二円の出費の高下にしか目のない国民多数が、いちいち法案の中身まであれこれ吟味するなんてありないのだから…、である。

  彼の目指したのは、ただ、大きくこの日本丸という舟の梶を、面舵いっぱいに切ることが全てだったのだ。それさえ済ませれば、オペラを楽しもうが、プレスリーの真似をしようが他人さまにとやかくいわれることなんてしっちゃーいないってわけだったのでないだろうか。

  だから道路公団の改革が丸投げだろうが、郵政改革が実際のところはどうなろうが、その中身をどう腐されようが馬耳東風ってわけではなかったのか。
  
  結局、小泉政権の真価とは、日本のこれまでの無責任なばら撒き政治のあり方にブレーキをかけ、とにもかくにも方向転換させたことは、間違いないのではないだろうか。
  ようは、それだけのものでしかなく、中身はもぬけの殻のアカパッパーというわけだったのだ。
  
  そして、今、その舵取りをまかされた安倍お坊ちゃま閣下が、その舳先(ヘサキ)をどっちに向かわせようとしているかである。往こか、戻ろか、霞ヶ関か…、てなところだろうか。
  どうも、見ていると、後見人を自認する消え残りの足の生えた昔のお化けがうようよ、こっちの袖をあっちの袖を引っ張り引っ張られ、それで右に左に、行方定まらぬ波路はるかに…、というわけで、乗せられている国民としては、船端(フナバタ)覗いてあれよあれよというところではないだろうか。

  と、思うこの頃さて皆様は、いかがお思いでしょうか。

ー追記ー

 わが市の図書館は実に素晴らしい。新しくて天井の高い広々とした室内。テラス側の一面のガラス張りの向こうには、南アルプスが一望できる。そこに日向ぼっこしながらゆっくり本や雑誌が心行くまで読める。閲覧者は、土日を除けばチラホラである。新刊書は書評とともに行くたびに何冊か棚に並んでいる。だが、ここらあたりでは、あまり借り出す人が居ないらしい。東京に居た時とは大違いである。東京では新刊書コーナーなどいつもも抜けの殻であった。
 この、図書館も以前は隣町の図書館であったのが、大合併のお陰で利用できるようになったのだ。
 もう、雑誌や何やかや本を買う必要から半分は解放された感がある。これも田舎暮らしの功徳というべきか。