蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

“罪無くして斬らる!” ー幕臣、小栗上野介のことー

2007-03-20 00:36:40 | 読書感想(ぜひ読んで見て下さい!)
3月19日(月)晴れ。終日大気乾き寒い。

  先週の木曜夜、NHK総合で木曜時代劇「またも辞めたか亭主殿~幕末の名奉行・小栗上野介」(後編)を視た。何だか前にも視たことがあるような気がして調べたら2003年正月放送の再放送だとわかった。

  現役時代、昼休みに何気に入った小さな本屋の棚で「最後の幕臣 小栗上野介」(星 亮一著中公文庫2000年8月刊)を見つけて買った。
  一読、こんな立派な人物が居たのかと驚いたことを思い出した。

  冒頭のTVドラマはそれはそれとして面白かったが、それはそれとして改めても一度この本に当たってみたくなって書棚をさがしたら、直ぐに出てきた。

  小栗は、1860年、井伊大老に抜擢されて日米和親条約批准交換遣米特使の目付けに選ばれ、米国の新聞で将来の日本のリーダーと評価された人物。
  中でも米側を驚嘆させたのは、日米為替レート交渉における小栗の手腕であったという。それまでの金銀為替レートが、日本では1:5が米国では1:15のため、アメリカ人にとっては濡れ手で粟の3倍の儲け。日本の金が湯水の如く流失したという。

  幕府はこの交換比率の是正を彼に託したのだ。交渉の席上、日本の小判とアメリカドル金貨の金の含有量を調べることになった。日本側は、小さな天秤ばかりを持ち出し見事にその差異を算出し、日本側の金属分析技術の精緻さに、米側を驚嘆させ、ここに交換比率の是正が成ったという。

 今の、種々の外交交渉の場でかかる賞賛の評価をほとんど聞くことがないのと比べて、どうだろうか。この時、小栗は33歳の若さである。

 そして何と言っても、彼の最大の功績は、アメリカの造船所や海軍力、製鉄工場を見て、日本との工業力の差に驚き、何としてもこの差を埋めなければと思い、帰国後、他の使節が攘夷の世論を恐れて、海外での見聞を何一つ主張しなかったのに対して、小栗のみは、手始めとして海軍力の充実を図るため造船所の建設を幕閣に提言するも、そんな金がどこにあるかと相手にされない。だが慶喜の認めるところとなり、ようやく許され独り金策に奔りフランスから600万ドルの借款に成功し着工する。

 同僚は、こんなものに大金を費やしても、幕府がどうなるかも分からない時、何になるんだと揶揄する。これに対して、彼は、平然として、同じ売家でも土蔵付きならいいではないか。きっと将来この国の役にたつ筈だと語ったという。

 彼はまた、幕府のほとんどの役職を目まぐるしく経歴し勘定奉行としても大いに手腕を発揮した。「金は、どうせいつでも足らないのだ。であれば一つこれはということになればいくらでも何とかなるものだ。それが反って無駄な出費を省くことになる」と言ったという。

 今の財政赤字にほとんどなす術を知らない現政府の体たらくを見たら、小栗だったらなんというだろうか。恐らく彼を冥土から引っ張り出して、財務大臣をやらせれば、たちどころに解消するのではというは、買いかぶりだろうか。
 
 そんな先見性と抜群能吏であったにも係わらず、三河以来の徳川家の立場への忠誠心が捨てきれず、討幕軍への徹底抗戦を主張して入れられず、役職を罷免されると、あっさり自分の仕事は終わったとばかりに、40歳そこそこの若さで、所領の権田村(群馬県、伊香保の傍)へ土着してしまう。以後は農事と将来有為の人材をそだてるべく子弟の教育に専心するつもりだったのだ。

 だが、そこへ官軍東山道軍がひたひたと迫る。官軍は、江戸から脱走した幕府抵抗派の一部がこの小栗と一体になることを強く恐れた。また徹底抗戦を主張したことを憎んだ。小栗野才腕を恐れた。官軍は、周囲の無頼や農民をそそのかし、一揆にしたてて彼の住む村を襲わせた。罠をしかけたのである。小栗は、自衛上村民を指揮してこれを退けた。
 
 官軍は得たりや応と無垢の庶民を殺戮し天皇に歯向かうものとして逮捕し裁判もせずに斬殺し晒首にしたのである。

 明治維新後、日露戦争。東郷元帥率いる日本海軍はロシア、バルチック艦隊を壊滅した。この時日本の主力艦船は英国製だったが敵艦に止めをさしてまわった中小艦艇は、小栗の起工した横須賀造船所で造船されたものばかりだったいう。

 東郷元帥は、このことを深く心に止め、小栗の遺族を尋ねだし「小栗さんのお陰で勝てた」とその功を讃えたという。そのとき贈られた扁額が今も小栗の眠る権田村の東善寺に掲げられている。

 だが、未だに明治政府以来の日本国家からの正式な名誉回復,どさくさに紛れての虐殺に均しい行為への謝罪はないようだ。

 小栗の処刑が、まるで何かの封印を切ったかのごとく、幕末維新の一方の表舞台で六方を踏み出すのが勝海舟であった。

 私は、この本を読んだ後、倉渕村の東善寺を訪ねたことがある。山陰の小さな寺。その境内の一室に置かれた貧しいショーケースに納められた僅かな遺品。錆古びたピストル、皮の旅行鞄…ぐらいだったか。夭折とさえいえる多彩な才能を秘めた逸材、それが無惨にも、いやしくも官軍という名の公権力によって手折られた、何ともいえない侘しく惜しい思いで,そのとき一杯になった。
 
 今年は、小栗生誕180周年。没後140回忌に当たるという。地元では今も小栗を深く敬愛する人々によって、来る5月27日、東善寺http://tozenji.cside.com/で記念行事が行われるようである。

 冒頭のドラマも、地元の方たちのNHKへの大河ドラマへと言う熱い要望もだしがたく、その代わりに製作放映されたようである。

 小栗を復権させるには、未だにどこかに薩長藩閥政治の亡霊が潜んでいるのか、何か差し障りがあるのだろうか。 

 今の政治家、官僚の有様、日日、様々に報じられるのを見るにつけ、ついつい目は伝え聞く幕末有為の人士に目がいくは何と情けなくも悲しいことではないだろうか。
 それとも、亡くなってしまったものは、なんでも美しく哀切に見えるということだろうか。

ー参考ー
 
 次回知ってるつもり小栗上野介(2000.5.7放送)

 1860年、小栗上野介は日米修好通商条約を交換するための派遣団として、アメリカへと旅立った。 ... 総大将・徳川慶喜を中心に誰もが絶望にうなだれるなか一人、陸海軍並びに勘定奉行・小栗上野介が立ち上がり主戦論を叫んだwww.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/000507.html