蛾遊庵徒然草

おこがましくもかの兼好法師にならい、暇にまかせて日頃感じたよしなし事を何方様かのお目に止まればと書きしるしました。

NHKスペシャル「“学校”って何ですか?」を視る。今の教育の欠落を思う!ーその2ー

2007-03-23 01:27:52 | 時事所感
 3月22日(木)晴れ。

 前回の続き、NHKスペシャル「“学校”って何ですか?」第2部では、
『番組内容:▽政府が“教育再生”を掲げ様々な改革を進めようとしている今、学校現場を見つめ直し、学校が果たすべき役割、真に必要な改革とは何かを問う。テーマは公立の小・中学校。
 詳細: ▽徹底生討論・公立学校 ▽いま何を改革すべきか 学校評価・ゆとり教育・教師の質 ▽現場の声を中継で』とあった。

 すなわち、前記現場リポートを踏まえての、文部科学大臣…伊吹文明,経済同友会代表・日本IBM会長…北城恪太郎,国際基督教大学教授…藤田英典,児童文学作家…あさのあつこ,杉並区立和田中学校校長…藤原和博等による討論であった。

 こちらで一番印象に残った発言は、杉並区立和田中学校校長…藤原和博氏のものであった。
 氏は確か、リクルートの部長職から杉並区長から乞われて民間人から始めて公立中学校の校長になって話題を呼んだ方だった。

 氏が校長を勤める和田中では、学校支援者として、地域ボランティア制を採用しているという。地域の大学生や小父さん小母さん、お爺さんお婆さんに学校での授業以外の諸々に協力してもらえる人に登録してもらい、大学生には部活を、その他一般の方々には図書館で司書のような役割をしてもらっているという。これにかかる人件費が年間約6百万円とか。先生一人増やすのに懸かる年間人件費12百万円の半分で済んでいるという。
 反対に学校に常時先生と同数の18人の支援者いることになり、イジメやなにかがあっても発見が早いという。また、生徒たちにとっても先生以外の地域の人たちとの触れ合いが良い刺激になるという。
 
 これなど、その気になれば、早速どこの地域でも可能な対応策になるのではなかろうか。

 また、氏によれば、学校長の権限で現行の枠組みの中でもいくらでも創意工夫でできることがいっぱいあるという。 

 ところが、和田中へは、全国から視察に来る校長や教育関係者は、たくさんいるが、ついぞこれといった改革が行われたと聞くことは無いとか。
 それは校長先生になる方が、あと数年で定年という方が多く、今更何かをやろうなんて気は無く、とにかく在任中は無事すぎることを願っているひとばかりだとのこと。
 今、民間から3千人の校長を採用すればたちどころに学校は変わると説く。

 そしてさらにネックは、地域の教育行政の要ともいうべき教育長が、たいていは役人の上がりポストとなっており、次はじっとして市長の座なんかを狙うばかりで、教育行政なんかには全く関心の無い人が多すぎるとか。
 なるほど、聞いていてよく想像でき納得できる話ではないか。

 思えば、大阪学芸大付属校での乱入生徒惨殺事件以来、各学校の警備は厳重になり、部外者が容易に学校に近づけない雰囲気に極端になり過ぎてはいないだろうか。
 今や学校は、地域の中でのブラックボックスとさえなっていないだろうか。そこで教師は、生徒の親や地域の人々から疑心暗鬼の目にささらされて一層孤立し、苦しんでいるのではないだろうか。

 それにしても、今、先生が一生懸命やろうとすればするほど、その仕事が多岐に渡り何と煩雑で多忙なことだろうか。
 
 福島県郡山市の中学校の先生をカメラは追っていたが、受け持ちの教科担任は勿論、授業の合間の縫っての校舎内の見回り、放課後や休日の部活指導、不登校生徒宅への夜間の訪問指導、きめ細かく求められる学習成績評価、その上、今話題の給食費未納の親への納金のお願い電話だ。
 さらには、相次ぐ政府の猫の目のように変わる教育行政にから各種報告文書の作成もある。
 ところで、何故、給食費の未納催促まで学校の先生の仕事なのだろうか。こんな雑務を処理する学校事務員が配置されていないのだろうか。
 このことについては、以前何かで聞いた話だが、学校事務職員と教師の間には微妙な関係があると聞いた。そのようなことが、ネックになって本来は教師がしなくても済む業務をしていることはないのだろうか。
 とにかく、先生には長期の夏休みがあるとはいえ、これでは、全くたまらないだろうと深く同情した。

 このような実情に対して、伊吹文科大臣は、何とか先生の給与を引き上げ、周辺の事務を支援できる措置が講じられるよう予算要求をしていくと語っていた。

 結局、この番組での結論は、できることからやっていこう。そのためには、地域の力と自主性が大切であり、教育行政に関心をもつ地方自治体の首長を選んでいかなければ、ということに落着したようだった。

 しかし、この番組を視た限りでは、今、巷間云われている駄目教師問題の実態はほとんど報じられないままだった。そのためか、今一つ問題の切実さ、多面性、緊急性がピンと来なかったのは残念だった。

 むしろ、「マスコミはいたづらに何か問題を起こした教師のことばかりを、異常に報道しすぎる、実際には一生懸命やっている先生がいっぱいいるのに」と、伊吹文科相は、マスメディアのあり方に強い語調で抗議していた。

 私が、今、傍から垣間見て思うのは、今の初等中等教育が、余りにも多くのことを求められすぎて、何か根本のものを置き去りにしているのではないかということである。

 古い言葉ではあるが、初等教育に必要なのは、読み書き算数。体操、図画・工作に音楽。それにきちんとした服装、礼儀作法、諸々のものへの慈しみの心を育てることではないだろうか。

 今、遥か昔、自分の子育ての頃、買い求めてそのまま積読にしてあった「子育ての記1-東洋文庫285平凡社」を、取り出してパラパラとめくった。

 その中に、養生訓で著名な貝原益軒の言葉として、
『幼き時の教えは、事繁(シゲ)くすべからず。事繁くして煩労なれば、学問を疎んずるものなり。むずかしくしてその気を屈すべからず。年数と性質と応ぜざる事を、強いて責むべからず。年頃に従い応じて教ゆべし。また生まれ付きを見て、その過ぎたるを抑え、足らざるを補いて、中(チュウ)に叶わしむべし。性質の悪しき所を、常に誡め匡すべし。およそ小児を育つるに、義方の訓をなすべし、姑息の愛をなすべからず。怠るを許す事なかれ。気随をゆるし、私欲を長ずべからず。』と説いている。

 そして何より今の教育に欠けていると痛切に思うのは、“倫理(人間としてのあり方、やっていいことと悪い事のけじめ”)である。

 幕末から明治にかけて、活躍し歴史に名を刻んだ偉人はもとより、共に偉大な時代と明治文化を創った多くの人々。その人たちの大部分は、今のような長期間の教育を受けてはいない。寺子屋で或いは藩校や私塾でせいぜいが17、8歳までに一通りの学問を修めて、各自、若くして立派な業績を上げている。彼等は果たしてどんな学問をおさめたのだろうか。

 幕末ともなれば洋学と言われる今の西欧人文科学に通じるものもあったであろうが、その根底は、四書五経と呼ばれた孔子の論語を中心とした、儒学、倫理学が徹底的に叩き込まれたからではなかったか。

 今の教育には、枝葉末節とは言い過ぎかもしれないが所謂個々の術学ばかりがあって、実践的な倫理学が大きく欠落しているために、大らかで暖かい人間味に富んだ人材が育たないのではないだろうか。

 論語なんて何を今更、カビの生えたよなものを持ち出してといわれるかもしれない。
 だが、そのカビやチリを払って、二千年の風雪に磨きぬかれた人間としての知恵に学び直すべきときではなかろうか。
 私の頃でさえ、論語は、高校の漢文の時間にほんの一節を読み齧っただけだった。少なくとも中学生のころから、じっくり時間を割いて専任の先生を配置した授業ができないものだろうか。

 参考までに、孔子自身が、四書五経の教育効果について次のように語っている。 

 以下、引用は、「四書五経―中国思想の形成と展開―竹内照夫著ー東洋文庫44平凡社」による。

孔子の教育意見 『礼記』の経解偏に孔子の言葉として、

温柔敦厚は詩の教えなり。疎通知遠は書の教えなり。潔静精緻は易の教えなり。恭倹荘敬は礼の教えなり、属辞比事は春秋の教えなり。
とある。五経の教育上の効果を述べたもので、
"詩経"の学習は、人心をやわらげ、情愛を深めさせる効果がある。
“書経”は、歴史に通じさせ、知識を豊にさせる。
"易経"は、精神を鎮め、思考を精緻にさせる。
礼の教育は、身を引き締め、態度を慎重にさせる。
“春秋”は、事件と事件との関係を正確に記述する能力を会得させる。

(そしてさらに、それぞれについて、誤った勉強の仕方をするとどのような弊害が出るかまで忠告している。)

 要するに、五経の類の教育は、情操を豊かにし、知識を増大し、思索や表現の力を強め、礼儀を習得させ、学生を全人格的に教育してその完成を期するものだというのである。

 何と、すばらしい内容ではないだろうか。こんな宝物をどうして、本棚の奥深く塵を被ったままにしておくのだろうか。