3月30日(金)晴れ。暖。
昨日(29日付け)の朝日朝刊1面で、『アルツハイマー原因物質除去ワクチン開発成功 マウスで名大など』の見出しが目に飛び込んだ。
記事には、こうあった。
『アルツハイマー病の原因物質アミロイドを脳から取り除くワクチンの開発に、名古屋大と国立長寿医療センター研究所などのチームが成功した。
マウスを使った実験では、発症後に飲むと認知能力が戻り、脳炎や出血などの危険な副作用もなかった。
…「アミロイドはたまり始めているが症状はまだ出ていない、という段階で使えば予防効果も期待できる」という。
…アミロイドのたまり具合を画像で見る診断技術も開発されつつあるので、ワクチンと組み合わせれば、発症を防げるようになるだろう。
ただ、マウスと人は薬の効き方が違うので、患者対象の臨床試験でどのような結果が出るのかが決め手だ。』
嬉しいニュースである。このような記事が1面に載るということは、いかにアルツハイマー、即ち”呆け"に対して恐怖を持っている人が多いかということではないか。
まさに私もその一人である。わが家系は、曽祖父も祖父も80過ぎまでの長命ではあったが、皆、80歳に近くなった頃から呆け始め、その様子をいろいろに幼い頃から祖母に聞かされて育った。
今、アルツハイマーには、遺伝的なものと、脳血管疾患によるものとがあると言われている。
私の場合は、確実に遺伝的なものであり、現状のままではいつの日か確実にそうなることを覚悟しているのである。
呆けていくという感覚は、本人にとっていかなるものなのであろうか。
人は、よく呆けてしまえば、案外何も考えなくてすんで楽だろうなんて無責任なことをいう。
だが、私は、母が80歳で、胃癌の手術をして、その半年とたたないうちに、それまでは一見何でもなかったものが、ある日突然、弟のことが識別できなくなり、その後は譫妄(センモウ、一種の幻覚症状)が頻繁に現れ、傍にいる私に何とかしてくれと苦しむのを見た。
母は、当時一人暮らしだったが、近所の子供が部屋に入って来て何時までも帰らない。「お家の人が心配しているでしょう。早く帰りなさい。」とまるで目の前に子供がいるがごとく訴えるのである。しかし私にはどうしようもなかった。
母にすれば、どうして自分がこんなに心配しているのに、傍の者が何も手をかしてくれないのかともどかしく、つれなく感じたことだろうか。
自分の親しい肉親が居る筈なのに、いくら呼んでも誰も来てくれない。その孤独感はどんなだろうか。
惚けとは、まるでいくら出口を探そうとしてもその出口が見つからない迷路にたった一人きりで封じ込められた感覚を味わうことではないのだろうか。
母のだんだんに認知力が衰えるのを見続けていて、私はやがて自分も陥るであろうそんな奈落地獄を想像して暗澹とした気持ちになる。
だが、反面で、最後の方では、何も話すこともなく、ただただいつもうつらうつらしているらしい様子を見るにつけて、一時のその混濁の時期を過ぎれば、何の苦痛も死の恐怖も感じない至福の恍惚郷に至るのかとも思えた。
そのような死にいたる様子を思うとき、できることなら、死のぎりぎり直前まで意識明晰なまま、どんなに苦しい思いをしても、心臓発作か何かで突然死したいものと願うのである。
昔、名僧と言われた人たちは、自分の死期を自覚すると、徐々に絶食して、最後は眠るが如く穏やかに枯れ木が朽ちるように死んでいったという。
平家物語に出てくる平家の公達、横笛の名手若き敦盛を殺して、無常を感じ法然の弟子となり仏門に入った熊谷次郎直実もそんな見事な最後を迎えた一人だという。
そんな死に方ができれば、どんなにいいことだろうかと思ってみる。
とは言え、私とて四六時中こんなことばかり考えているわけではない。何かの拍子にふと思うだけである。
そんな今日この頃、このアルツハイマー予防ワクチンの話は、私を奈落地獄から救ってくれるかもしれないかすかな朗報として、その一日も早い完成を願うや切なのである。
昨日(29日付け)の朝日朝刊1面で、『アルツハイマー原因物質除去ワクチン開発成功 マウスで名大など』の見出しが目に飛び込んだ。
記事には、こうあった。
『アルツハイマー病の原因物質アミロイドを脳から取り除くワクチンの開発に、名古屋大と国立長寿医療センター研究所などのチームが成功した。
マウスを使った実験では、発症後に飲むと認知能力が戻り、脳炎や出血などの危険な副作用もなかった。
…「アミロイドはたまり始めているが症状はまだ出ていない、という段階で使えば予防効果も期待できる」という。
…アミロイドのたまり具合を画像で見る診断技術も開発されつつあるので、ワクチンと組み合わせれば、発症を防げるようになるだろう。
ただ、マウスと人は薬の効き方が違うので、患者対象の臨床試験でどのような結果が出るのかが決め手だ。』
嬉しいニュースである。このような記事が1面に載るということは、いかにアルツハイマー、即ち”呆け"に対して恐怖を持っている人が多いかということではないか。
まさに私もその一人である。わが家系は、曽祖父も祖父も80過ぎまでの長命ではあったが、皆、80歳に近くなった頃から呆け始め、その様子をいろいろに幼い頃から祖母に聞かされて育った。
今、アルツハイマーには、遺伝的なものと、脳血管疾患によるものとがあると言われている。
私の場合は、確実に遺伝的なものであり、現状のままではいつの日か確実にそうなることを覚悟しているのである。
呆けていくという感覚は、本人にとっていかなるものなのであろうか。
人は、よく呆けてしまえば、案外何も考えなくてすんで楽だろうなんて無責任なことをいう。
だが、私は、母が80歳で、胃癌の手術をして、その半年とたたないうちに、それまでは一見何でもなかったものが、ある日突然、弟のことが識別できなくなり、その後は譫妄(センモウ、一種の幻覚症状)が頻繁に現れ、傍にいる私に何とかしてくれと苦しむのを見た。
母は、当時一人暮らしだったが、近所の子供が部屋に入って来て何時までも帰らない。「お家の人が心配しているでしょう。早く帰りなさい。」とまるで目の前に子供がいるがごとく訴えるのである。しかし私にはどうしようもなかった。
母にすれば、どうして自分がこんなに心配しているのに、傍の者が何も手をかしてくれないのかともどかしく、つれなく感じたことだろうか。
自分の親しい肉親が居る筈なのに、いくら呼んでも誰も来てくれない。その孤独感はどんなだろうか。
惚けとは、まるでいくら出口を探そうとしてもその出口が見つからない迷路にたった一人きりで封じ込められた感覚を味わうことではないのだろうか。
母のだんだんに認知力が衰えるのを見続けていて、私はやがて自分も陥るであろうそんな奈落地獄を想像して暗澹とした気持ちになる。
だが、反面で、最後の方では、何も話すこともなく、ただただいつもうつらうつらしているらしい様子を見るにつけて、一時のその混濁の時期を過ぎれば、何の苦痛も死の恐怖も感じない至福の恍惚郷に至るのかとも思えた。
そのような死にいたる様子を思うとき、できることなら、死のぎりぎり直前まで意識明晰なまま、どんなに苦しい思いをしても、心臓発作か何かで突然死したいものと願うのである。
昔、名僧と言われた人たちは、自分の死期を自覚すると、徐々に絶食して、最後は眠るが如く穏やかに枯れ木が朽ちるように死んでいったという。
平家物語に出てくる平家の公達、横笛の名手若き敦盛を殺して、無常を感じ法然の弟子となり仏門に入った熊谷次郎直実もそんな見事な最後を迎えた一人だという。
そんな死に方ができれば、どんなにいいことだろうかと思ってみる。
とは言え、私とて四六時中こんなことばかり考えているわけではない。何かの拍子にふと思うだけである。
そんな今日この頃、このアルツハイマー予防ワクチンの話は、私を奈落地獄から救ってくれるかもしれないかすかな朗報として、その一日も早い完成を願うや切なのである。